写真という名の信仰、カメラという名の宗教
写真の世界は、
いつからこんなに“正しさ”で溢れるようになったのだろう。
カメラ信仰と、写真崇拝。
フルサイズ教徒と、APS-C信者。
撮って出し派閥と、Raw現像流派。
開放至上主義と、絞り込み原理主義。
トリミング肯定派と、クロップ否定派。
正しさの数だけ、旗が立ち、
信じるものの数だけ、線が引かれる。
いろんな信仰、主義、主張が入り乱れているけれど──
たぶん、みんな同じだ。
自分の「好き」を、
守ろうとしているだけ。

信仰は、悪くない。
承認欲求も、所有欲求も、
人間らしい自然なものだ。
共通言語で集まる強さ。
同じ道具を持つ連帯感。
内側にいると、それはとても楽しい。
でも、それが“正しさ”になった瞬間、
少しだけ息苦しくなる。
♠️
以前、ある写真家さんの個展に行ったとき、そこが、まるで正しさを確認し合う儀式の場のように感じてしまったことがある。
内側だけの言語で意味を重ね合い、盛り上がる空間。
部外者はいない前提の空気に満ちていた。
正直、少し引いた。
そのとき、僕は思ってしまった。
ああ、これは一種の信仰なんだな、と。
信じることは自由なのに、そこにいる全員が同じ考えの正しさを唱え出すと、それは少し怖く感じる。
これは、今まで自分もその内側にいたから、気づけなかったことだった。
外から眺めたときの違和感は、想像以上。
そして、その違和感は、まっすぐ過去の自分に突き刺さってくる。
目を逸らしたくなるくらい痛烈に。
僕は、写真そのものよりも、そんな“空気”に疲れていたのかもしれない。
だから、今でも写真展に行くのは苦手だ。
いろんな作家さんの作品は見たい。
でも、あの空気には、きっと一生慣れない。

そんな経験もあって、
一度、写真がわからなくなった。
何を撮るのが自分らしいのか、完全に迷子になってしまったのだ。
気づけば、同じような写真を量産していた。
それなりに整っていて、それなりに評価もされる。
でも、それはどこか空虚な写真だった。
なぜなら、自分の心がまったく動いていなかったから。
思えば、僕は写真がやりたいわけじゃない。
表現がしたかったのだ。
そういう意味では、
写真はたまたま選んだ言語にすぎなかった。
絵が描けたら、絵でもよかったかもしれない。
楽器が弾けたら、音楽でもよかったかもしれない。
いや、それでも写真を選んだかもしれない。
ただ、突き詰めたら、テキストでは掬えないものを、かろうじて形にできる装置としてのカメラであることは確かだ。
その原点を忘れて、
小手先の技術と、いいねの数に流されていた。
あの時期が、いちばんきつかった。

Leicaから距離を置いたのも、
Zfに変えたのも、海に行ったのも、
全部、対処療法だった。
そのことについては、以前の記事でも触れている。
でも、本質はそこじゃなかった。
足を怪我して、自由に動けなくなった日々。
東京に戻ってきて、堂々巡りの思考。
その中で、2026年に入ってからは、
少人数でふらりと撮り歩く時間が増えた。
Threadsから声をかけてくれた人がほとんどだ。
Leicaユーザーだけじゃない、
いろんなカメラユーザーの、写真スタイルと思考に触れた。
義務のない撮影。
目的のない時間。
正解のない写真。
この撮影体験が、
きっと僕を救ってくれたのだ。

当たり前だけど、
写真は、宗教じゃない。
提出物でもない。
義務や課題でもない。
ましてや、強制されるものじゃない。
ただの、
世界との対話だ。
だから、
これが信仰になると、少し重くなる。
でも、
対話に戻れば、また軽くなる。
あなたは今、
何のために撮っていますか。
答えは急がなくて大丈夫。
ただ、もし少しでも心が揺れたなら、
次にシャッターを切るとき、
ほんの少しだけ、自分の内側に耳を澄ませてみてほしい。
写真が好きってだけで、
本当は、もう十分なのだから。
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今回の話と地続きにある作品です。(Kindle Unlimited対象)
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当時はまだ、「正しさ」よりも「衝動」で撮っていた。
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