【小説】こきあけのペンダント 1
この小説は飛騨と信州にまたがる雪山、乗鞍岳をこよなく愛するバックカントリースキーヤーの知られざる冒険物語です。全7回/約4万4千文字です。
主要登場人物とあらすじ
・杉本蒼太(すぎもと そうた)
主人公。飛騨高山で生まれ育った、町の木工機械屋。アルペンスキーの回転競技をしていたが、テレマークスキーに転向後、スキー場ではない、自然の山の中を滑るバックカントリーにのめり込んでいる。母親ゆずりの耳の良さを持ち、その感覚は雪崩の発生をも察知する。
・今田亨(いまだ りょう)
物静かな大工。彼もまたテレマークスキーヤーだが、その穏やかな性格とは裏腹に、どこまでもスピードを追い求める弾丸スキーヤーである。彼の乗る板「ヴォラント・スパチュラV2」は物語の鍵となる。
・森下ユーリ(もりした ゆーり)
杉本のアルペン時代の後輩。山岳ガイド兼アルペンスキーインストラクター。自称山ギャール。ボルダリングは初段、アルパインクライミングは錫杖岳上級ルートも平気で登る怖いもの知らず。
テレマークスキーを愛する杉本蒼太は、ひょんなことから大工の今田亨と知り合う。彼等はバックカントリースキーを通じて友情を深めてゆくが、あるとき今田は乗鞍岳の飛騨側に刻まれたV字のシュート(岩に挟まれた急斜面に細く落ちる長大な雪のスロープ)を発見してしまう。
以来、今田はそのV字シュートに憑りつかれ、杉本と共に初滑降をもくろむのだが、途中アクシデントが発生して今田は険悪な谷に滑落してしまう。杉本に救出され、一命をとりとめた今田であったがその時、愛用の板スパチュラV2を片方失ってしまった。その後ふたたびV字シュートを目指すことを決意した今田は、山深い乗鞍の山麓、五色ヶ原へとスパチュラV2の回収に向かうのであったがしかし。
目次
1.険悪な谷
2.出会い
3.呪いのV字シュート
4.ゴスワラの精霊
5.蒼太とユーリの決意
6.死の滑降
7.墓場まで持ってゆくもの
険悪な谷
「雪つけし・・・飛騨の国見ゆ春の夕、というやつですね」
振り返ると夕焼けのオレンジに染まりつつある乗鞍岳が一望できた。4月初旬の残雪期、とは言っても深いところは未だ数メートルの積雪があるだろう。ようやくピークには若干岩肌が露出しはじめ、春山の様相を呈しはじめたばかりだ。
「何だそれ、俳句かあ?」
先行する杉本蒼太がスキーで新雪をラッセルをしながら横を向いて、興味のなさそうな声で今田亨に聞き返す。
「ええ。あれ、誰だったかな。何とかって俳人が、富山から峠を越えて飛騨に来たことがあって。その昔にね。飛騨の山には春なのに雪があるって句なんです。でも富山の人間ならば立山連峰毎日見てるだろうから、珍しくも何ともないと思うんですけどね、イテテ。」
「そんなウンチク言えるくらいなら大丈夫だな」
亨は負傷していた。
岩にしたたか打ちつけた右肩をかばいながら杉本についてゆく。折れてはいないようだが、少しでも動かそうとすると激痛が走る。
ヘルメットには岩でこすれたであろう、生々しい傷跡が深くついていた。
雪の積もった乗鞍スカイラインを急遽スキーで下山することになったのは、亨が滑落して敗退することになったからだ。もっと楽に滑り降りるルートはいくらでもあるのだが、怪我の状態からして滑降は困難であるから、わざわざとんでもなく遠回りなスカイラインをラッセルしながら降りることにしたのだ。新雪が降り積もった道路は、下りとはいえスキーが勝手に滑ってくれるほどの斜度はなく、杉本が踏んで足場を固めたトレースをたよりに亨は降りてゆく。
滑落の際、彼はスキーを片方失っていた。
雪山においてスキーを失うことは、翼を失った鳥となることに等しい。
雪面を直にスキーブーツで踏む右足は何歩かに一度は、ずぼりと雪にはまり込み、そのたびに肩が悲鳴を上げる。
まったく、山につけられた道路というのはすさまじく遠回りだ。谷の向こう側にこれから通るであろう道が見えるのだがそこまで、どれだけクネクネと修行のように歩かなければならないのだろうか。気が付けば先ほど夕焼けに染まっていたピークは山陰に隠れて、急速に闇がしのびよってきた。山はびっくりするほど暗くなるのが速い。
「亨、休憩しよう」
杉本はザックを下ろすと、まずヘッドランプのありかを亨に確認した。
というのも、彼の装備はほとんど杉本が担いでくれている。
「本当ならば、今頃五色ヶ原でワイン片手にビバーグだったんだがな」
「すみませんでした」
亨はうなだれた。
「まあ、死ななくてよかったよ。でもいきなり消えたから正直ビビったぜ」
杉本がスキーの上に腰かけながら、行動食のアルフォートを投げてよこした。
「このワイン”3”はおあずけだな」
「残念です」
「ザックが谷底に流れてワインがなくなるのと、板が片方なくなるのとどっちがよかったよ?」
「ワインです」
「即答だな」
「この板は、特別な板ですからね。もう手に入らないと思います」
亨は残った片方の、銀色に輝く板に手を置いた。
「ヴォラント・スパチュラV2か。マジでイカれた板だ。逆キャンバー、逆サイドカーブ、極太でしかもステンレストップ。もうそんな板、作ろうとする酔狂な奴ぁいないだろうなあ」
「でもこんなにパウダーでブッ飛ばせる板なんて、他にはありません」
ここから国道までたどり着くにはあと数時間はかかるだろう。だが生きて帰れる。あれだけのアクシデントで死ななかったのが奇跡だ。
亨は今になって恐怖で体が震え始めた。
気温が急激に下がったせいもあるのだが、事故直後は意外とハイテンションになっていて、ある意味それは脳ミソの急場をしのぐ緊急対応機能である。そしてその後、冷静さを取り戻すに従ってじわじわと恐ろしさがにじみ出てくるのだ。
二人はまた、ノロノロと歩きはじめた。
その数時間前。
彼等は目的地である乗鞍岳西面、つまり飛騨側の、とあるシュートの上部起点に向かって登っているところだった。シュートとは、水の流れにより岩盤が浸食され、一直線の窪みに雪が積もっている急斜面である。そのような地形は、エクストリームスキーヤーが嬉々として滑りたがるポイントであるのだが、しかしそこは常に落石の危険があり、同時に雪崩の巣でもある。
そのシュートに亨は長らく固執していた。
遠く高山市内から見ると、森林限界を起点に、樹林帯を切り裂くような2本の鋭い雪の急斜面スロープが見える。それぞれは下部で合流しており、Vの字に見えることから、彼らは「V字シュート」と呼んでいた。
シュートの最下部は五色ヶ原と呼ばれる山深いエリアであり、近年は全国でも珍しい入山規制を行っている秘境である。
信仰の山として栄えた大正時代の頃は、その五色ヶ原から乗鞍の大小ピークに向けて8ヵもの登山道があったということなのだが、今やその面影すらないだろう。1つもだ。
そんな山深いエリアに降りてしまったら最後、深い雪の中を長時間修行のようにかき分け踏み分けながら人里まで降りてこなければならない。
だから、飛騨側は誰もやらないのだ。
バックカントリースキーは、スキー場を経由して自然の雪山へと踏み込むのが常套手段だ。何故かと言えば、楽だからだ。
だが亨はそこに違和感を感じていた。
山に登るという行為は、夏山であれバックカントリースキーであれ、あるレベルを超えたものは「スタイル」にこだわるものである。
ヒマラヤへの登山が極地法からアルパインスタイル・・・固定ロープや酸素ボンベを使用しない、個人の能力に多くを委ねる・・・へと昇華された山ヤのロジックというものは、どどのつまり「ストイックさ」なのである。
自己満足と言われればそれまでだ。
だが亨にはもう一つ、そのシュートにこだわる理由があった。
杉本はそんな彼の想いを受け止めて、二人はそのシュートへと向かった。
久手の牧場から入山。乗鞍スカイラインに合流後、道路をショートカットして畳平から里見岳の脇を抜けると、夢なのか地獄なのかよく分からない入り口がそこにあった。
天候は上々。身を切るような冷たい空気であったが、風もおだやかで前日降った雪が20センチほど積もっていた。4月としては最高のコンディションと言っても差し支えないだろう。
だが亨は少し冷静さを欠いていた。緊張と、少しおかしなテンションでシュートに向かっていた。何せ数年来の計画である。冷静でいろと言われても無理な話だ。
地形は平たんな緩い下りをそのまま真っすぐ行けば、目的の急斜面であるシュートの入り口がいきなり眼下に現れるという場面だ。降り口を間違えてはならない。杉本は先行する亨の50メートルほど後からゆっくりと滑り、ついていった。前方の景色は次第に開けてゆき、遠く飛騨の街並みまでかすかに見えるほどの絶景と、水泳飛込競技の飛び板先端に立たされたかのような露出感が襲ってきて今までにない恐怖を覚えた。
その時である。亨が何を思ったのかルートを右にそれて止まると、スッパリと切れ落ちた断崖を覗き込んでいる。
「おーい、危ねーぞそこ」
何か背筋に冷たいものが走るのを感じた。
亨が断崖の上に立った時、微かなギィーという音を感じ取ったのだ。
杉本は異常に耳がよかった。
亨がこちらを見て、にやりとした。杉本は亨まであと10メートルほどのところまで滑り降りてきて、静止するや否や、叫んだ。
「おい、こっちに来い、崖から離れろ!」
次の瞬間、亨と杉本の間の雪面に亀裂が走った。
亨は雪庇の上に乗っていたのだ。
ゴキッバキッとという音とともに平衡感覚が失われ、雪の大地が真っぷたつに割れて、世界が傾いてゆく様を目撃した。
亨は、こちらを向いたまま成す術もなく巨大な雪の塊とともにゆっくりと落ちていった。
底抜けに青い空の下、いや3000mの空は黒と言ってもよいのだが、その出来事はまるで平和な空とはあまりに現実離れしていて、何か出来の悪い喜劇でも見ているようだった。
杉本は茫然自失となり、その一部始終をまるで映画のワンシーンのような感覚で見ていたのだが、崩壊して落下した夥しい体積の雪の塊が谷底に激突したズンッという音で我に返った。気が付けば、こちら側に残った雪面の淵に、2本の腕が辛うじてしがみ付いているのが見えた。
「うおおおおー」
杉本は我に返ると、渾身の力でストックを押しスキーを滑らせ、亨のすぐ近くまで行くとヘッドスライディングで彼の手を取りにいった。手を伸ばす。だがあと少し届かない。クソッ、ビビりすぎた。スキーをはいたままの足では思うようにほふく前進ができない。亨もまた崖っぷちに腕だけ残してスキーをはいたままだから、足で這い上がることができないようだ。
「・・・助けてくれ」
ジリジリと滑り落ちてゆく腕に見切りをつけた亨は、力を振り絞って杉本の手に飛びついた。
だがあと一歩、手は届かずその反動で彼は落ちていった。
「うわああああー」
「りょおおおー」
杉本が見たのは、彼がはいていた銀色の板が外れて跳ね上がり、ブウンと音を立てながら猛烈な回転をして、キラキラと太陽光を反射し宙を舞って谷底に落ちてゆく様だった。
杉本は急いでスキーを外した。
崖下を覗き込むとすぐには分からなかったのだが、はるか下方の斜度が緩くなっている箇所から岩が隆起している。その手前に崩落してバラバラになった雪と氷の瓦礫が溜まっており、その中に彼の赤いシェル(アウターウエア)を確認することができた。
「おーい、大丈夫かあー」
ありったけの声を出して叫ぶものの、亨は反応しているのかどうなのか、遠すぎてよく分からなかった。動いているような気もするし、そうでないようにも見える。
急いでアイゼンを履き、ピッケルを握って杉本は崖を降りていった。
「りょおー」
雪と岩の壁にアイゼンの前爪を蹴りこみ、ピッケルを叩きつけ、振り返って何度も名を叫んだ。焦りで全身が痺れて感覚がまるでなくなったようだ。
汗だくになり、ゴーグルが曇るのが煩わしくはねのけると、その時亨がわずかに手を振るのが確認できた。斜度が緩くなると杉本は崖に背を向け急いで下っていった。
亨は、奇跡的に無事だった。
停止する際、崩落した雪に突っ込んで、それがクッションとなったようだ。
ただ、落ちた時に岩か何かに右肩をしたたか打ちつけたらしく、脱臼しているようだった。幸い目立った出血はない。
「登れるか?」
「ええ・・・何とか登りますよ。登らないと帰れない、あつっ」
この崖を這い上がるより道はないようだった。
「板、どこいったかなあ」
片方の外れたスキーの板は見当たらなかった。
「ああ、ぶっ飛んでいくのは見えたけどな、分からん。諦めろ」
杉本は彼の装備とスキーを担ぎ上げ、ノロノロと登りはじめた。
ろくに巻くようなルートも見当たらず、また崖を登り返さなければならなかった。亨の右腕はほとんど使い物にならなかったので、難儀した。
杉本が先行し、何とか登りきると、雪面にピッケルを刺して支点とし、今田をロープで確保するのだが、何とも頼りないその支点は気休めにしか思えなかった。唯一の救いはこの好天であったが、その能天気さが逆に苛立たしさをつのらせるようだった。
「おーい、絶対おちるなよ」
「ロープ握ってる人がそんなこと言わないでください」
亨は痛みに耐えながら、芋虫のような速度で崖を登りはじめた。
左手でピッケルを叩き込み、抜くときは右手が使えないため頭を壁に押し付けてバランスを取りながら引っこ抜く。痛い。クソッ。あのタイミングでこの険悪な谷なんかに気をとられている場合ではなかった。全く魔が差したとしか思えない。
目的のシュートは一体どんな様子だったのだろうか。それすらまだ見れていないではないか。完全に不戦敗だ。バカだ。本当にバカだ。
亨は自分を呪った。
上を見ると杉本さんが顔を出しているところまで、あと数メートルなのだが、そこはほぼほぼ垂直で雪庇が崩落した断面が地層のようになっている。
層によってはグズグズで、ピッケルもアイゼンも効かないトラップのような箇所があった。下を見る。もの凄い高度感の恐ろしい光景だ。今生きていることが不思議でしょうがなかった。だがあと、もう1メートル、もう少しだ。あせるな。そしてピッケルを抜いた時、勢いあまってバランスを崩し、後ろに倒れそうになった。
やべっ、重力を感じない・・・
その瞬間、ロープがぐいと引かれ、壁に引き戻された。
「あぶねーな、もう」
どうにかこうにか水平の世界に戻ってきた頃、時刻は15時を回ろうとしていた。
二人とも雪の上で仰向けになり、宇宙空間のような黒色を帯びた空をボーッと眺めていた。
「ああ、しんど」
杉本がそう言うと、ふたたび這って崖から下を覗き込んでいる。
「板、見当たりませんよねえ」
「・・・お前、まだ板のこと気にしてんの」
「・・・」
「すごい勢いで回転しながらスッ飛んでくの見たぞ。ブウウーンって、キラキラしながら」
杉本は右手を上げ、弧を描くようにして谷底を指さした。
何だかおかしなテンションになり、笑いがこみ上げてきた。
「ぷっ、うわはははははは!」
「だははははは!」
涙が噴き出した。二人とも、大量の涙と洟を流して笑いころげた。
亨は肩を押さえて痛みに顔を歪めながら笑い続けた。
あせりとも、悲しみとも、喜びとも何とも表現のし難い底なしの黒い笑いだった。
ああ、生きている。死なずに済んだのだ。
一通り笑い終え、脱力していると、杉本がつぶやいた。
「しかし酷いとこだったな。崖だか谷だか知らねえけど、あそこで止まらなかったらどこまで行っちゃってたんだろうな、お前」
「ああ、多分この谷ですね」
「どれ」
亨は地形図を見ながら答えた。
「蛇出谷です」
「じゃだしだにぃ?ひでえ名前だ」
