第4章|夕日―魅惑の赤、覚醒の赤―【#創作大賞2026 #ホラー小説部門 】応募作品。全13章・完。

吉田と話すことにも、
慣れはじめた頃。「クラブリッチ」の閉店後。
ようやくフロアで働くかと思えば掃除だった。
音楽もない。
静かな店内。
床に残った水をモップで拭いていた。
ドアが勢いよく開いた。
男が転がり込んできた。
「もう閉店です。」
そう言いかけて、止まった。
顔色が悪い。
息が荒い。
店に入ってきても、
まだ白い息を吐いている。
「助けてくれ。」
視線が泳いでいる。
「トイレ、あそこですよ。」
指で示すと、男はそのまま駆け込んだ。
周りには、俺以外いない。
他のスタッフは、店の奥だ。
事務所で客の酒を勝手に飲んで笑っている。
吉田も一緒に酒を飲んでいる。
フロアにいるのは俺だけだ。
煙草を一本、ゆっくり吸った。
誰も来ない。
トイレのドアが開いた。
男が出てきて、顔を拭いている。
さっきよりは落ち着いているように見える。
「ありがとう。」
近くまで来て、立ち止まった。
「名前は?」
一瞬、考えた。
口が先に動いた。
「吉田です。」
咄嗟に、吉田の名前が出た。
なぜだか分からない。
そうした方がいいと思ったのかもしれない。
男は小さくうなずき、
胸ポケットに何かを押し込んだ。
1万円札と、
名前と住所だけの名刺。
何をやっている男か分からない。
知ったところで何か変わるわけではない。
「助かった。」
それだけ言って、男は出ていった。
ドアが閉まる。
しばらく、動かなかった。
ポケットの中。
1万円札と名刺。
どうするか考える。
報酬ではない金を
受け取りたくはない。
仕事が終わって外に出る。
もう11月だ、夜は冷える。
煙草を一本吸ってから、
カローラワゴンに乗る。
缶コーヒーを飲む。
カローラワゴンの
エンジンに火を入れる。
回転数がわずかに高い。
緊張しているのか。
道路地図を開いて
住所を探す。
30分で見つけた。
小さいが、きれいなビル。
ドアの前、ノック。
鍵が閉まっていたら帰る。
そう決めていた。
ドアは開いた。
「来ると思っていたよ。私の勘は当たる。」
男が立っていた。
リッチに逃げ込んできたときとは、
別人のような余裕だ。
事務所内には、
ファイルがずらりと並んでいる。
几帳面なのか神経質なのか、
全て同じ大きさのファイルだ。
不必要なものは何もない、そんな感じの事務所だ。
「金を返しに来ただけだ。」
名刺と1万円を出す。
「ハハハ。」
男は笑った。
深く、ゆっくり笑った。
余裕のある笑い方だ。
「もらう理由がないからな。」
「君は私を助けた。理由として、十分だ。」
「トイレの場所を教えただけだ。」
「頑固だなぁ、武井君は。」
「吉田」と名乗ったのに「武井」と呼ばれた。
短時間でよく調べたもんだ。
もう十分に喋りすぎだ。
反応したくない。
隙をつくりたくない。
「怖いお兄さんにモテるだろう?」
「男にモテたくねぇよ。」
男は視線を外さない。
痛いほどに視線が強い。
「ここに置くぜ。」
名刺と1万円札を机に置く。
ドアに向かう。
「工場の仕事、面白いか?」
「面白くて仕事してるわけじゃあねぇよ。」
振り向きながら言った。
「噛みつくのは目だけにしてくれないか。」
妙に残る言い方だった。
「格好つけた言い回しで
上からものを言うのは良くないぜ。」
「いいねぇ。」
男はまた、笑った。
いちいち余裕のある笑い方だ。
「だが、その素直さで
つまずくときが、必ず来る。」
黙っていた。
喋らない方が良さそうだ。
「ウチで仕事しないか?」
「人を殺したり、ヤバい仕事はしないぜ。」
「おいおい、飛躍するなよ。
だが、君ならやりかねんがね。」
男は続けた。
「君のアパートの裏に自販機があるだろう。
小さなバッグが置いてある。よく探せ。」
強い視線。
負けそうだ。
「それを大田区の平和島に届けるだけだ。」
平和島。
吉田の顔が浮かんだ。
平和島に連れて行く約束。
地図はこの前調べたばかりだ。
行き方は分かっている。
「終われば、正当な対価を払う。」
「具体的には?」
「駅横のゲームセンターだ。
プリクラの中に置いてこい。」
それだけだった。
「やるかどうかは、君が決めればいい。」
リッチに駆け込んできた時とは違う、
余裕と圧力。
リッチでの追い込まれた感じは
演技だったのかもしれない。
面白そうだ、乗ってやろう。
それに「正当な対価」。
金になる。報酬だ。
堂々とカローラワゴンに使ってやれる。
「最後に、これは伝えておく。
私は君の敵ではないが、味方でもない。
もし、その時が来たら躊躇なく君の敵に回る。
帰っていい。」
男がドアの方を指差した。
調べられたことより、
正確な情報を持っていることに驚いた。
敵か味方か、どうでもいい。
俺は作業をするだけだ。
アパートに戻る。
裏に回る。
指定された場所には、
小さなバッグがあった。
誰もいない。
バッグを助手席に置く。
カローラワゴンに身を任せる。
エンジン音が高めだ。
興奮しているな。
やるか。
環七は空いていた。
信号にもあまり引っかからない。
流れが速い。
バッグは助手席に置いたまま。
中身、一瞬気になった。
見ない。
見る必要がない。
中身を知っても何も変わらない。
届ける。それだけだ。
平和島。
ゲームセンターはすぐ見つかった。
光が強い。
夜中とは思えない。
プリクラの機械が並んでいる。
高校生だろうか。
日付も変わっている時間に、
子供みたいな連中がいる。
きゃっきゃと意味のない笑いで
騒いでいる。何が楽しいのか。
工場とは音が違う。
でも、同じ匂いがした。
一番奥に入る。
カーテンを閉める。
椅子の下に、バッグを置いた。
それだけだった。
誰も見ていない。
ゲームセンターの客は
騒ぐのに夢中になっている。
カローラワゴンに戻る。
来た道を戻る。
エンジン音が心地いい。
回転数も安定している。
安心感が身体を包む。
アパートに着く。
ドアポストに何かが入っている。
開けた。
3万円と黒い携帯電話。
部屋の中に入った。
そのとたん、携帯電話がブルブルと震えた。
携帯電話を初めて手にした。
どのボタンを押せばいいのかも分からない。
震え続ける携帯電話。
このボタンか?
「おめでとう。」
あの男の声だった。
「合格だよ。」
「合格?」
遮るように男は話し続けた。
「何も言わなくても、バッグを開けなかった。」
「まっすぐ現場へ行った。
目的地をすぐに見つけた。」
「これができる人間が、なかなかいなくてね。」
「次回からは、時間も指定する。」
切れた。
3万円を見た。
工場なら3日分の給料だ。
バッグを運んだだけだ。
悪い気はしなかった。
むしろ、
楽しかった。
顔がほてっているのが分かる。
カローラワゴンのエンジン音は安定していた。
まるで俺を、
肯定してくれているようだった。



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