小説日本建国譚2「序1:日本古代史の七つの疑問」
日本古代史を探究していきますと、無数の「なぜ?」にぶつかります。
それを私なりに、大きく「七つの疑問」として取り上げてみました。
1)大和政権とは何か?
2)前方後円墳とは何か?
3)古事記・日本書紀の謎
4)魏志倭人伝とは何なのか?
5)朝鮮半島と古代日本との関係の謎
6)中国と古代日本との関係は?
7)なぜ奈良の飛鳥が古代日本の発祥地となったのか?
以上7つの疑問としましたが、それぞれ大くくりの疑問点には、さらに細かく多くの謎が含まれています。
私の前著「古事妄想記」では7)「なぜ奈良の飛鳥が古代日本の発祥地となったのか?」を最初に置きました。
私にとってこの、7)の疑問は日本古代史の最も深淵な疑問で、数は少ないですが私が読んだ歴史書の中には、一切答えが見つかりませんでした。
この答が見つかれば、私は日本の古代が解明できると考えています。
そして今回、最後に移した理由は、時間軸で捉えれば、私の中で一番最後に出てきた疑問だったからです。
「倭は国のまほろば、たたなづく青垣山籠れる倭うるわし」の
ロマンチックな言葉に誘われ大和古代史の探索をはじめました。

私の記事「飛鳥むかしむかし」は古代日本発祥の地「飛鳥」を探索するのに最適な入門書を紹介です。

日本古代史への興味は、シンプルに1)から4)の項目を同時並行的に湧き上がり、それらが渾然と混ざります。
しかし、探索を進めていくに従って、あちこちで「なぜ?」の疑問にぶつかり、矛盾が浮かび上がってきました。
ところが、歴史的事象が混ざり合ってしまいますと、「なぜ?」の疑問も含め、『「なぜ?」が「何故なのか」』の混乱が深まっていきます。
そこで疑問点を整理することが必要と感じ、七つに整理したわけです。
1)古代史の書物には必ず「大和政権」が登場します。
ある本は「大和勢力」と表現していますが、大筋同じで、「奈良の大和盆地に勢力を持った集団が現れ、日本列島(正確には大八洲)、もしくは西日本地域を支配下に置き、治めていた、そして彼らは後の平城京・平安京を造り、現代の天皇家に繋がる(万世一系)の皇統」との解釈です。
しかしこれでは「大和政権」の実態を具体的にイメージするのは難しいです。
例えば現実に経済力なのか軍事力なのか、どのような力を持っていたのでしょうか?
その辺りの疑問について「「大和政権」とは何だったのでしょう?」で少し触れていますが、7) 「なぜ、飛鳥に大和政権が誕生したのか、の不思議」とも疑問点・答えも重複していると考えています。
2)次に、前方後円墳も、よく考えると不思議な存在です。
「前方後円墳の不思議」で触れていますが、まずその秘められた技術の高さはどこから来たのかが疑問ですが、中国の技術と考えるのが自然です。
さらに、前方後円墳が果たして、ただ単なる「墳墓」だけの意味しか無いものなのか、が私には謎です。
「前方後円墳が「大和政権」の権威を表すもの」が何なのかが見えません。
3)古事記・日本書紀では、最初の疑問は、そもそもなぜ二冊の歴史がほぼ同時期に編纂されたのか、ということです。
一説には、古事記は日本語重視の変体漢文で、日本書紀は漢文で書かれていたため、古事記は国内用、日本書紀は対外用という解釈がありますが、当時の唐に手渡したという記録は見られません。
また、古事記・日本書紀は、建国から推古天皇までは記述が並行しており、以降は日本書紀が単独で記述する、という変則的な構成になっていますので連続する歴史書でもありません。
さらに、天武天皇は686年に崩御していますが、その後26年も天皇の詔が捨て置かれていたことも不思議です。
天皇の命令を、言い方が悪いですが「ほったらかしに」しておいて、忘れた頃に思い出したように作るというのは、現代でもありえないことです。
4)の魏志倭人伝に関しましては、「魏志倭人伝1:倭人伝の不思議」から「魏志倭人伝7:卑弥呼のヒミツ」の7項目に分けて魏志倭人伝の私の考えを述べております。
この魏志倭人伝に関しましては、上記七つの記事をもとに別稿で私の「総括」を書くつもりです。
5)「朝鮮半島と古代日本との関係の謎」で取り上げたい問題は、どうも日本の歴史学解釈は、朝鮮半島からの影響を過小に捉えようとする姿勢です。
その例が、江上波夫博士の著「騎馬民族征服王朝説」に対する姿勢です。
私はこの「騎馬民族征服王朝説」は慧眼と考えていますが、どうも日本の歴史学会では「ありえない」説とされているようです。
私は「小説日本建国譚1「はじめに(1)」に書きましたが、日本列島は単に東アジアの一地域でしかないわけですから、東アジアの古代史の中で日本を見ると、「騎馬民族征服王朝説」を否定する理屈がわかりません。
やはり日本の歴史学会には「誇り高い大和民族が、騎馬民族如きに征服されるなんてことはありえないし、あってはならない事」となるのでしょうか?
6)古代中国と日本との関係を見ますと、中国文明(漢字や思想、技術など)の日本社会への伝来と定着の謎です。
千字文・論語・仏教が朝鮮半島の百済・新羅などから公的に伝えられた事が記録されています。
記紀には、第15代応神天皇の時代がその始まりの時期に当たるとされていますが、第26代の継体天皇以前の各「天皇の時代」が西暦でどの頃にあたるのかははっきりしません。
私は「前方後円墳の不思議」でも書きましたが、前方後円墳に中国発の土木技術が多く使われていることから、遅くとも3世紀には伝来・定着していたと思います。
また中国文明の日本列島での広がり方と、その担い手が誰だったのかも謎です。
私たちは明治時代に技術・学術など西洋文明が西洋人の手でもたらされ、その後急速に日本社会の中に浸透していきました。
その結果、近代日本の発展につながったのを知っています。
しかし、古代も同様に、少数の渡来人によってもたらされた中国文明が、日本人社会で広がったと考えるのは無理であると考えています。
それは「教育」の問題で、日本では江戸時代に「寺子屋」などの教育施設が充足し、日本人の識字率が高かったため、明治に入り西洋文明の導入にも十分対応できました。
(寺子屋につきましては私の記事『「寄合い」の場』を読んでみて下さい。)
しかし、古代倭には教育を施す施設もなく、文字を持たない土着民衆が高度な技術・思想を受け入れるのは不可能でした。
その担い手が大陸・半島からの渡来人であったと考えるのが最も自然です。
私が紹介しました「飛鳥むかしむかし」には飛鳥時代に多くの渡来人がモノづくりに励む姿がイラストで描かれています。
また「奈良時代後半の史料によると、当時、大和国高市郡(現在の明日香村・高取町・橿原市・大和高田市・御所市)の住民の八〜九割を渡来系氏族が占めていた」とも記されています。
以上のことから、中国文明は「伝来」したのではなく、人と一緒に「渡来」したと考えた方が良いのかもしれません。
私はこれら「7つの疑問点」を網羅して、それぞれに答えを出していくことを試みました。
そして今、自分なりに納得できる一つの「日本建国の『道筋』」を見つけ出せたと思います。
その道筋を、この「小説日本建国譚」で紹介していきたいと考えています。
