大和 ぶら探 「壬申の乱」ゆかりの地を巡る 第五回(最終回)新しい時代、新しい日本へ ~「日本国」誕生を物語る 飛鳥・藤原~
タイトル画像:藤原宮跡
1.はじめに
「『壬申の乱』ゆかりの地を巡るシリーズ」の第一回「吉野」を投稿させていただいたのは、2025年8月19日でありました。
今回、第5回を持ちまして、最終回となります
もし、最初から連続で確認いただくのなら、シリーズ全体の目次代わりに、以下に並べさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
2.大海人、即位す
~天武・持統による新しい国づくりへ~
ダイジェスト (なら記紀・万葉「名所図会」から)
・壬申の乱に勝利した大海人皇子は673年2月27日、飛鳥浄御原宮で即位。天皇として新しい国づくりを開始。
・天武天皇は我が国の伝統的な文化と東アジアの先進文化を融合・発展させて新しい国づくりを進めた。
・天皇中心の中央集権国家体制の確立をめざし、豪族を天皇中心の身分秩序に再編成する「八色の姓(はっしきのかばね)」の制定、皇親・諸臣に冠位を授与し官僚とする冠位制の施行など、律令体制の強化を進めた。
・676年、後の藤原京になる新京の造営に着手。
・681年以降、法制度の整備、国史の編纂、貨幣(富本銭)の鋳造などを着手するも、686年、逝去。
・天武天皇の死後は、皇后だった鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が即位して持統天皇となり、694年には藤原京に遷都した。
・「大宝律令」の制定など律令を整備するなどし、天武天皇の政治を引き継いだ。
・日本初の「条坊制」を敷いた。
・藤原京跡が今に残る飛鳥・藤原の地は、天武天皇と持統天皇が東アジアから伝来した思想や技術を活用して国作りを進めた地である。
3.「万葉集」巻二・一五九番歌
天武の死を悲しんだ鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は次の歌を詠んでいます。
やすみしし 我が大君の
夕されば 見したまうらし
明け来れば 問ひたまうらし
神岳(かむおか)の 山の黄葉(もみじ)を
今日もかも 明日もかも 見したまはまし
その山を 振り放(さ)け見つつ
夕されば あやに悲しみ
明け来れば うらさび暮らし
荒栲(あらたへ)の 衣の袖は 干(ふ)る時もな
し
【訳】 大君がご覧になった神岳の山の黄葉を、生きていらしたら今日も明日もきっとご覧になるでしょう。私は、その山を仰ぎながら夕暮れにはとても悲しみ、夜明けには寂しく過ごし、衣の袖は乾くことがありません。(「名所図会」より)
さて、「神岳(かむおか)」を、恥ずかしながら、この度はじめて知りましたので、どこのことなのか調べてみました。
この「神岳」が現在のどこを指すのかについては、主に2つの有力な説があるものの、今も研究者の間で議論が分かれている様子です。
1.雷丘(いかずちのおか)説【最有力】
現在の奈良県高市郡明日香村にある、標高110mほどの小さな丘です。
「雷(いかずち)」は何度も通過する交差点で、その真横にある「雷丘」には以前に興味本位で登りましたので知っていました。今回、その「雷丘」が歌に詠まれた「神岳」だということを初めて知ったということであります。
・位置関係:当時の皇居のあった「飛鳥浄御原宮」から見て北側に位置し、宮中から良く望める場所にあります。
・根拠:万葉集の巻三・三二四番。ここには、宮廷歌人である山部赤人(やまべのあかひと)が詠んだ歌が、以下のようなタイトル(題詞)とともに残されています。
・題詞:「神岳(かみをか)に登りて、山部宿禰赤人の作る歌一首」
・歌(長歌の一部): 「…明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし…朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづはさわく 見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ 古(いにしへ)思へば」
この山部赤人の歌は、持統天皇の時代からさらに後の時代(平城京へ遷都した後)に、かつての都(明日香)を懐かしんで、「神岳」という丘に登って都の跡地を見下ろしながら詠んだ歌です。
明日香の宮殿(飛鳥浄御原宮)の跡地をすぐ間近に見下ろし、朝の霧や川の音をリアルに感じながら「声を上げて泣いてしまう」ほどの距離感にある丘。それは、宮殿のすぐ真北に位置する「雷丘」以外に考えにくいというのが、万葉学者たち(古くは江戸時代の国学者・契沖、賀茂真淵、本居宣長など)の強力な分析です。
また、同じ『万葉集』巻三(235番)には、柿本人麻呂が「天皇の雷岳(いかずちのおか)に御遊(いでも)します時に作る歌」として「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほ)らせるかも」と詠んでおり、天皇にとって「雷丘」が神聖な、特別な場所(神の岳)であったことを裏付けています。

画像、左上のこんもりとした「丘」が「雷丘」。その右後方に「畝傍山」。さらに、その遥か後方に半分だけ姿が見えるのが「二上山」。

この前に立ち止まって読んでる旅行者等を、私は未だに見たことがありません。奈良県人でも、「雷丘」をご存じの方は、半分もいないのではないでしょうか。
また、たいていの方は、「かみなり」と読むのではと思い、検索して確認してみました。
主な「雷」の呼び方と語源ですが、まず、「いかずち」に関しては、荒々しい神の霊力(厳つ霊)が語源とされ、神話や物語などで力強い雷を表す際に用いられ、現代仮名遣いでは「いかずち」と表記されますが、神社名などは古く「いかづち」と書かれることもあるということらしいです。次に、「かみなり」ですが、語源は(神鳴り)で、空で鳴り響く音を「神が鳴らす音」と考えられたことが始まりらしいです。
また、上記「雷丘 案内板」に書かれている「説話」については以下の【伝説】をお読みください。
【伝説】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『日本霊異記』(上巻巻頭)と『日本書紀』に雷丘に関連する伝承が記されている。
雄略天皇が后と寝ている寝所へ、家臣の少子部栖軽(ちいさこべのすがる)が気付かずに入ってしまい、天皇に「雷神を捕らえてこい」と命じられる。栖軽は豊浦寺と飯岡の間にある丘に落ちていた雷神を連れ帰り天皇に献上するも、天皇は光り輝く雷神に恐れをなし「落ちていた所へかえしてこい」と命じる。この雷神が落ちていた所を雷岡(雷丘)という。
数年後、小子部栖軽が亡くなると雄略天皇は彼の忠義を讃え、この丘に「取雷栖軽之墓」(雷神を捕らえた栖軽の墓)と墓標を建てる。これに雷神が腹を立て墓標を踏み潰すが、その割れ目に足を取られ抜けなくなってしまう。天皇は雷神を逃がし「生之死之捕雷栖軽之墓」(生前も死後も雷神を捕らえた栖軽の墓)と墓標を建て直した。

上段左:この登り口は写真でご覧いただくより急坂です。
上段右:簡単に登れますが、登っても木立が生い茂り、景色は見れません。中ほどに段差(溝?)があり、古墳を想像させます。
下段左:この交差点の標識、すぐ横が「雷丘」です。この交差点は、明日香にしては結構交通量が多いです。
下段右:木立の隙間から「飛鳥宮」方面をわずかに確認できます。また、所詮、この高さの丘です。

上段の写真、左上のなだらかな丘が「香久山」です。
早朝の風景です。田植えを終えたばかりの水田が綺麗です。
2.甘樫丘(あまかしのおか)説
同じく、明日香村にある、南北に広がる小高い丘(標高148m)です。
・位置関係:「飛鳥浄御原宮」の西側に位置します。
・根拠:「日本書紀」巻二十九(天武天皇紀)。天武天皇15年(686年)9月に天皇が崩御された後、その遺体をすぐに埋葬せず、しばらく仮の宮に安置して生前のように仕える「殯(もがり)」という重要な儀式が行われました。その場所について、歴史書にはこう記されています。
・記述:「(持統天皇元年)十月、天皇を、大内の殯宮(もがりのみや)に殯しまつる」
さらに、天武天皇が崩御する直前の朱鳥元年(686年)7月には、「天皇の病気平癒を祈るため、甘樫の神に祈祷した」という記録や、かつて甘樫丘には盟神探湯(くかたち:神に誓う裁判)を行う神が祀られていたという記録があります。
持統天皇が詠んだ「神岳の山の黄葉を 今日もかも問ひたまはまし」という歌は、天武天皇が亡くなった悲しみを歌った「挽歌(ばんか)」です。
研究者の中には、この歌は持統天皇が宮殿から景色を眺めたものではなく、「殯宮(もがりのみや)」が建てられた神聖なエリアそのものを指しているのではないかと考える人々がいます。
甘樫丘は当時から「誓盟の神(甘橿の神)」が宿る非常に強い信仰の場所(神の丘)であり、その周辺に殯宮が営まれた、あるいはその山全体が「神岳」と呼ばれていたのではないか、という解釈がこの歴史的記述から導き出されているそうです。

上の画像、道路の右の木立が「甘樫丘」
「明日香」は歩くか、自転車で移動することを中心に考えた方が良いのは言うまでもないのですが、そうは言っても、他地域からやってくるには自動車もいたし方ないです。そういう意味においては、この道は、「明日香に来た!」と感じさせてくれる最高のルートの一つだと思いますよ。

この現地の地図で、「飛鳥浄御原宮」から、「雷丘」、「甘樫丘」を眺めることを考えてください。


この変遷をスラスラ説明できる方は、ただの観光者ではないですね。

上段左:北西方向を眺めています。写真左隅に畝傍山、さらに後方に二上山が見えます。
上段右:北の方向に耳成山が見えます。さらにその右側に香久山が見えます。
下段左:香久山を望遠でとらえています。
下段右:展望台から東方向です。画像下部の集落に飛鳥寺、さらには「蘇我入鹿の首塚」があります。

甘樫丘展望台から、二上山の鞍掛け部に夕日が沈むのは、5月上旬(3日~7日頃)、8月上旬(6日から10日頃)で時刻はいずれも、18時45分ごろのようです。
4.藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)
十二月庚戌乙卯、遷居藤原宮。
694年12月6日。持統天皇は藤原宮に遷りました。
中国の都城にならい、日本で初めて建設された本格的都城の中心です。
天武天皇が造営をはじめ、持統天皇が完成させ、694年に遷都されました。平城京遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明天皇三代が律令国家体制を推し進めました。(「名所図会」より)

説明パネル
春過ぎて 夏来るらし
白袴の 衣乾したり
天の香久山
持統天皇のこの歌は、あまりにも有名ですね。とてもビジュアルに思えませんか?「真神が原」の空気感にぴったりだと思います。
1.藤原京について
・わが国で初めて首都として計画的に造られた都市が 藤原京。
・都が藤原京に遷ったのは持統8年(694年)ですが、都づくりの計画は天武天皇。
・京内には中央に宮をおき、条坊道路で区画割をし、貴族・役人の宅地として身分に応じた広さで支給されていた。
・京内にはたくさんの寺が造られ、中でも官立の大官大寺と薬師寺が東西に配置されていた。
・藤原京の大きさは、これまで古代の幹線道路の中ツ道、下ツ道、横大路、山田道を京の端の道とした、東西2.1Km・南北3.2Kmと推定してきたが、近年の発掘調査によってわかり、平城京をしのぐ広大な姿が明らかになりつつある様子。
2.藤原宮について
・1300年前の首都・藤原京の中心で、現在で言えば、皇居と国会議
議事堂と霞が関の官庁街をあわせたところが藤原宮。
・都の中央約1Km四方を占め、周りは高さ5.5mもある瓦葺の塀がめぐり、各辺には門が3か所あった。
・塀に平行して内堀と外堀。
・中央に、政治・儀式の場である大極殿、貴族・役人の集まる朝堂院が南北に並び、大極殿の北は天皇の住まいの内裏。
(1.2.は、奈文研 「特別史跡 藤原宮跡」より抜粋)


5.天武・持統天皇陵古墳

(ひのくまのおおうちのみさささぎ)

登り口

・天武・持統天皇陵は、藤原宮中軸の南延長線上に計画的に造営。
・天皇の絶対的権威を表すために日本独自に作り出された八角墳。
6.柿本人麻呂が詠んだ高市皇子の挽歌
「万葉集」の中で最も長い歌は柿本人麻呂が詠んだ高市皇子挽歌だそうです。高市皇子は大海人皇子の長男で、壬申の乱では軍事の全権を大海人皇子から委ねられ活躍しました。
挽歌の大意
飛鳥の「真神原で天下をお治めになった(天武)天皇が、荒々しい人々を和ませ、服従しない国を平定するよう高市皇子に任された。皇子は天皇に成り代わり太刀をはき、弓をかざして勇ましく群衆を率い戦い、神風で敵を惑わせ平定なさった。このようにして栄えた折、皇子はお隠れになり、仕えていた人々は彷徨い嘆いた。だが、皇子がおられた香久山の宮はいつまでも荒れることがないだろう。深く深くお偲びしよう。(「名所図会」より)

7.大海人皇子の行軍地 後の時代にも影響
大海人皇子が壬申の乱で行軍したルートは、その後の歴代の天皇が行幸するなど、後の時代に影響を与えました。
天武天皇と持統天皇の孫で、草壁皇子の長女の元正天皇(げんしょうてんのう)は715年、即位後直ちに「野上行宮」を訪れ、その後養老山に行幸し、この地の美しさを賞賛し、717年に元号を「養老」と改元しました。
また、聖武天皇も740年に東国行幸をしました。(シリーズ第4回をご参照ください)
8.飛鳥・藤原地域の文化施設
1.奈良文化財研究所 飛鳥資料館

正面の庭園から望んでいます。
写真手前は、「酒船石遺跡、亀形石槽・船形石槽」の復元品。
写真中央右は、「須弥山石」の復元品。

左上:「亀石」の復元品。
左下:「酒船石遺跡、亀形石槽・船形石槽」の復元品。
右: 「石人像」の復元品。


是非、以下の公式サイトにアクセスしてください。
2.奈良県立万葉文化館



人形や映像、音楽を使い、万葉の時代の人々の暮らしを臨場感たっぷりに紹介しています。
3.奈良県立橿原考古学研究所附属博物館

もうこの博物館は、私の投稿記事に何度も登場していると思います。
4.奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室


写真左半分、上から、①調査成果の速報展示 ②形式と年代の基準となる瓦と土器 ③貴族の食事 ④下級役人の食事
写真右半分、上から、①イントロダクション ②展示室、幢幡(どうばん:儀式で使う旗)の模型 ③古代役人が使った道具など ④庶民の食事
以下の、当施設のHPに是非アクセスしてください。
5.橿原市 藤原京資料室

「JAならけん」の建物の二階にあります。

この施設は橿原市の世界遺産登録推進課が運営されている様子ですが、私の記憶では運営責任の部署名は変遷してきたように思います。
市の担当の方々はもちろんですが、この建物にいらっしゃるボランティア?の方々のご案内が非常に親切で温かいおもてなしをされているように感じられます。

この説明パネルはうまくまとめられています。
9.編集後記
・さて、今回を持ちまして、私の「『壬申の乱』ゆかりの地を巡るシリーズ」は、ひとまず終了いたします。
・「名所図会」に載っていなかった、特に三重県内の関連史跡には、改めて行ってみたいと思います。
・今、奈良県、および明日香村は「飛鳥・藤原の宮都」の「世界遺産登録」の最終決定を来月2026年7月に控えています。
・たまたま、今回の「『壬申の乱』ゆかりの地を巡るシリーズ」が「飛鳥・藤原の宮都」で最終回を迎えるのは何かの巡りあわせかと思います。そこで「壬申の乱」とは直接的に関係のないことも雑感として述べたいと思います。
・まず、明日香の史跡巡りと他の観光地、例えば奈良公園近辺の史跡巡りでは随分異なると思います。東大寺の「大仏」をみれば「大きい」、正倉院展を観れば、「宝物が素晴らしい」、など、即、目に飛び込んでくるものがあります。
・明日香村は、(桜井、天理、葛城、御所等も同じですが)古代史を追いかけるほど、なつかしい田園風景の中に、目に見えるものだけでなく、地面の下に「日本書紀」や「古事記」「万葉集」の風景が埋もれているということです。
・「遺構や遺物は埋もれていた歴史を雄弁に語る証人であり、時には謎を問いかけてきます。」とは、「飛鳥資料館」の加藤館長のお言葉です。
・ゆえに、明日香に関する「勉強をすること」はもとより、「単なる観光」においても、今回、「名所図会」とともに確認した「文化・研究施設」のHPをご参考いただき、是非、ご自身の脚で「文化・研究施設」をお訪ねいただきたいと思います。(大官大寺跡、山田寺跡、檜隈寺跡、などは特に地上を眺めていてもそう楽しいものではないです、特に歴史や文学に、さほどご興味がない方々には。)

・あたりまえのことですが、この19か所で飛鳥を語りつくせるわけもなく、興味の入り口とお考えいただくのがよかろうと思います。
・「名所図会」にも書かれていますが、藤原宮跡は地元の農家やボランティアの方々のご努力で、季節の綺麗な景色を造っていただいています。

春:桜と菜の花
夏:蓮
秋:コスモス
・なお、あまり他府県の旅行者が今のところあまり意識されていないように思われるのが次に添付いたしました地図です。地区ごとに区切っていて、何かと便利だと思います。
・国営飛鳥歴史公園
・今回につきましては、さほど記述に時間がかからないだろうと思って臨みましたが、やはり、それなりに自分勝手に時間がかかってしまいました。
このような、文章に残す作業をしてみますと、知らないことだらけで自分自身の知識の「狭さ」、「浅さ」を痛感いたします。
かねてから申していますように、専門知識や、議論の行方に関してはそれを専門とする方々に、また、そのような内容をお読みになりたい方々は、どうか別の専門家や文筆家にご期待頂きたいと思います。
私の場合は、「とりあえず、その場所に立ってみた」というような緩い感覚で、かつ、自己中心的に記述していますので、悪しからず、ご容赦ください。どうぞよろしくおねがいいたします。
・飛鳥に関連する内容につきましては、いろいろ視点を変えて、今後も投稿させていただこうと思います。
・今回も、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
