短編103「かげの、ぬくもり」 保護猫カフェバー Il Gatto Errante #7
登場人物紹介(最新話を元に構成・更新しています。そのため本編のネタバレとなる場合がございますので、閲覧にはご注意ください)
あらすじ
保護猫を預かるコンセプトカフェバー、「Il Gatto Errante(イル ガット エランテ)」。新しく店にやってきたのは、過去のトラウマから人に心を閉ざしてしまった黒猫、ルナ。新人ココはルナの心を開こうと意気込むが……。
君の影に寄り添うこと。
それは、言葉よりも、触れるよりも、深く確かな愛の証明だから。
「おはようございまーす!」
ココが裏口のドアを勢い良く開けて入ってくる。
いつものツインテールに白いブラウスと紺色のパンツで、小さなメッセンジャーバッグを肩に掛けていた。
見ると、カウンター近くでレオンと熊崎が話をしているようだった。
カウンターの上には猫用キャリーバッグが置かれている。ココは嬉しそうな足取りで、近づいて行った。
「新しい子、来るんですか?」
ワクワクを隠せない、隠そうともしない笑顔で、ココはケースを覗き込む。
「シャーッ!」
「うわっ!!」
中から浴びせられたのは、殺気すら感じるほどの激しい威嚇。ココはレオンと熊崎に助けを求める視線を向けるが、レオンは右手で頭を抱えたままで、熊崎は瞳を閉じて頭を振った。ただの威嚇ではない、深いトラウマに根差した恐怖が、その一声に凝縮されていたのだった。
「今回の子は、ちょっと難易度が高くてねえ……」
熊崎はため息混じりにそう言った。ケースの中には、小さな黒猫。黒く艶やかな毛並みと、青い瞳が鋭い警戒を放っていた。
「名前は『ルナ』。多頭飼育崩壊の現場で虐待されていて、保護された子でね。人間を信頼していなくて、触れることや抱き上げることはもちろん、近づくだけでも攻撃されると認識してる」
熊崎が困ったような重い空気で静かに言う。ココはもう一度ケースを覗き込むが、ルナは恐怖に震えた目を大きく見開いて、「シャーッ!」と激しく威嚇した。
「……私、ルナの心をちゃんと開かせたいです!」
ココが決意をこめてそう言うが、熊崎はその瞳を見つめ返してから、少し温度の低い視線を返した。
「その強いエネルギー、いまのルナには負担になるかもな。まず――焦らないこと。それがこの子への最大の優しさになるだろう」
「焦らないこと……?」
熊崎の言葉に、ココは少しだけ不思議そうな表情を返す。
「……やれるだけ、やってみます! 当たって砕けろです!」
「砕けちゃ駄目よ」
意気込むココに、レオンは冷静にツッコんだ。
「マジむりぃ……」
ココはバックルームのケージが並べられた部屋で、大の字になって寝転んでいた。周囲には様々なおやつや転がすと鈴のなるボール、色とりどりの猫じゃらしが散らかっている。
先日、SNS炎上で『焦りは禁物』だと学んだはずなのに、ルナの心を一刻も早く救いたいという強すぎる感情が、ココに再び焦りを与えていた。ルナの恐怖と、自分の無力さに、ココは深く息を吐いた。
――結論から言うと、全滅だった。
おやつもボールも猫じゃらしも、「シャーッ!」で拒絶。
しまいには、ケージに近づくだけで威嚇される始末。
ココの努力は完全に拒否されて、硬い壁にぶつかったような無力感に襲われる。
「ルナは難易度高いよねえ……」
通りがかったメイが、スマートフォンの画面を見ながら歩いていく。
「過去のトラウマが強そう……時間がかかるでしょうね」
シズカがベルをケージから抱っこしながら、そう言った。
そんな状況ではあったが、ルナに早く慣れてもらって、お店に出せるようにしないといけない。なんとかしないと、という焦りがココの中に生まれていた。
休憩でカウンターに戻ると、レオンがタブレットを叩いている。ココに気づくと、
「なかなかうまくいかないものだろう?」
と、微笑みながらそう言った。
「はい……こんなに大変だとは、思ってもいませんでした……」
「まあ、焦るな。心を開くには、言葉よりも存在の質が問われる」
ココは存在の質というものがなんなのか、頭の中で反芻する。それは、ルナの恐怖を打ち消すような、揺るぎないなにかなのだろうか?
――私はルナの行動をノートに記録していた。近づいてもおやつをあげてもおもちゃを出しても、とにかく攻撃だと見なされる。これではキリがない。
まずは、『自分は安全な存在である』と理解してもらえること、それが大事だと、思う。
戦略を切り替えて、『触れない優しさ』をアピールしていこう――。
それからココは、適度な距離感を意識するようにした。ルナのケージから見える範囲で、しかし三メートルほど離れて、ただ静かに本を読むことにした。読んでいるのは公益社団法人愛玩動物協会が発行している隔月刊誌『愛玩動物ウィズペッツ』。愛玩動物飼養管理士として協会の会員になると定期的に送られてくる会報だ。
ルナに目を合わせず、声もかけず、ただそこに『いるだけ』を徹底する。
これは、安全な温度をルナに提供し続けるという、ココなりの存在の質の体現だった。
そしてルナに聞こえるように、目線を合わせずその影へと向けて、店内の猫たちの穏やかなエピソードや、自分の静かな日常を、囁くように話しかけるようになった。ルナは威嚇せず、青い瞳をココに向けて、警戒はしているが話は聞こえているはずだ。
ココは、ルナに自分が危険な存在ではないことを、静かに伝える努力を続けていた。
数日後。ルナをケージから出してあげて、自由に歩かせてみた。知らない店内を見回しながら歩き回り、匂いを嗅ぐ。それを繰り返していた。
ココはそれを気にせず、バックルームで会報を読んでいる。ルナが戻って来るが、あえて反応しない。したいようにさせてあげた。
ルナはココの存在を無視するように、背中を向けて、一メートルほどのところで座った。
少し手を伸ばせば届く距離。だがココはその気持ちを押さえつける。
ルナは警戒しながらも、背後を預けてくれているのだ。これは初期の信頼のサイン。胸は高鳴るが、動揺を悟られまいと静かに読書を続ける。
ココはポケットからハンカチを取り出す。体温が残っているそれを、ルナと自分の間に置いた。
ルナは警戒を続けていながらも、その布の匂いに興味を示して、ゆっくりと鼻を近づけてすんすんと匂いを嗅いだ。まだ触れてはいけない、ただルナの行動を静かに見守る。
しばらくして、ルナは眠ってしまった。たった数分間ではあったが、安らかな寝顔のルナを見つめているだけで穏やかな気持ちになれる。
ココは声や接触ではなく、ただそこに『安全な存在として在ること』の価値を学んだのだ。そこには新人のココではなく、確かな実践者としての成長が感じられた。
ルナの青い瞳に、初めて恐怖ではない微かな、しかし確かな安堵の光が宿っているのを、ココは確認する。その瞬間、ココの心は、まるでルナが長らく隠していた影のぬくもりにそっと触れ、その温かさを感じたかのように満たされていた。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する実在の地名や場所は物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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