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(3)ラムプーンとラムパーン

ハリプンチャイ王国の首都ラムプーンはドヴァラーヴァティー の都市建設の手法に倣い、クワン(กวง)川の流れと自然の地形を巧みに利用して作られた螺貝や繭の形に似た環濠集落で、その面影は現在でもラムプーン旧市街の濠と城壁の遺構に残されている(約300年後、タイ族によって造営された首都チェンマイも方形の濠と城壁で囲まれた都市で一見似ているように見えるが、設計文化は大きく異なる)。
 
ラムパーンも遺跡や古地図によるとワン(วัง)川の水を引き込み濠を巡らし同形式の古代都市が建設された。伝承によると680年ジャーマテーウィ王の命でワン川の西岸に600ライ(96ヘクタール)の面積に濠と外構壁を巡らせた街が建造された。ランナー王国の1301年には180ライ(29ヘクタール)のワン川西岸に拡張工事が行われ、ラーマ一世の治世には1787年から7年の年月を掛けて350ライ(56ヘクタール)の最後の拡張工事がワン川東岸地区にて行われた。最終的に街は長さ5.5km、幅7kmの規模を誇り、後期工事の外構壁の高さは平均7メートルもあったと伝えられている。この結果ワン川が中央を貫く環濠都市が完成した(最初の都市建設の年代に関しては今後の歴史研究や考証に委ねるしかないが、位置と範囲に就いては遺物や遺跡によって考証出来る) 。しかし、近代に入り産業の発展や交通の拡充に伴い、水濠は埋め立てられ土塁と煉瓦で築かれた城壁も取り壊されて、今ではトライラック(ไตรลักษณ์/仏教で無常・苦・無我を意味する)斎場近くの地方国道1035号線の両脇に立つプラトゥーマー(ประตูม้า/幽霊門※2)が再建されたのみである。この城門は最初の都市建設時に設けられた5ヶ所の内の一つである。
 
※2現代タイ語の綴りでは“馬”を意味するが、古代の吉兆占いではウバット(อุบาศ์ก/日本で言う鬼門)の方角は不吉とされ、ラムパーンの場合は北東の方角に当たる城門を“幽霊門”と呼ぶのは、門外で死者を荼毘に付したり埋葬した風習から来ている。現在でもトライラック斎場が門外近くにあるのも示唆的である。古代ラムパーンではピー(ผี/霊)をマー(ม้า,ม่าห์)と呼んだ。一方チェンマイでは南西の方角(日本で言う裏鬼門)に当るプラトゥー・スーオン・プルン(ประตูสวนปรุง)から死者を送り出した。この門は現在ではプラトゥー・セーンプン(ประคูแสนปุง)と呼ばれている。又、ラムプーンでも死者の葬送は都の南に位置するプラトゥーリー(ประตูลี้)から行われた。 

ラムパーンの街を流れるワン川と、ランドマークにもなっているラサダーピセーク橋

建国当初はラムパーンはサンスクリット(สันสกฤต)語やパーリー(บาลี)語で雄鶏が鳴く街(กุกกุฏนคร/グックグッドナカラ)と呼ばれ、鶏は今でも街の象徴的な存在であり、様々な物に描かれたり多くの場面で登場する。因みに白い雄鶏はラムパーン市の紋章にも描かれている。ラムパーンは古来より11の地名が確認されている。上記以外の主なものでは、シーナコンチャイ(ศรีนครชัย)、ケーランナコン(เขลางค์นคร)、アーラムパーン(อาลัมภางค์)、ムアンラコン(เมืองลคร)そしてナコンラムパーン(นครลำปาง)が挙げられる。

ラムパーンの街中に描かれたストリートアートにも鶏が

ハリプンチャイ王国は私の推理に沿えば約250年間、テラワーダ(เถรวาท/長老の教え)仏教を篤く信仰する諸代の王によって、釈迦の頭髪が納められていると伝えられるドヴァラーヴァティー様式の大仏塔を持つワットプラタートハリプンチャイ(วัดพระธาตุหริภุญชัยวารมหาวิหาร)寺を始めとして多くの寺院が建立され上座部仏教を根幹とした文化が花開いた。この繁栄は1200年代初頭まで続いた。その一方で奪われた故郷のロッブリーを取り返すことに固執し、1010年から10年の間に出兵を繰り返した末、1023年にはクメール勢の逆襲に遭い、ラムプーン近くまで迫られる事態に陥ったこともあった。又、王国の末期には疫病(コレラ)が 6 年もの間蔓延する災難に見舞われ、モン族の中核はビルマ方面へと逃散してしまい王国の勢いは衰え始めた。この頃からタイやシャンなどの周辺民族の侵入がジワジワと進み、度々動乱が起きるなど不安定な国情の中、援助を装ったマンラーイ(มังราย)王が送り込んだ武将によりクーデターを起され、1200年代後半にラーンナー王国の版図にあっけなく吸収されてしまった。

山岸ハニー

ワット プラタート ハリプンチャイ

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