#482[短編]琥珀色の間[5]──境界線の向こう側・III
境界線の向こう側で、爽子の心がそっと揺れる夜。 ミシマの一言が、思いがけない扉を開けてしまう。第6回。
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
大翔と Barで知り合った翌日、ミシマと食事をした帰り道。
爽子は“境界線の向こう側”に足を踏み入れてしまう。
「先輩、おいくらでしたか?」
会計を済ませ、店を出てエスカレーターへ向かう。
「ん〜、楽しかったからいいよ」
ミシマは少し考えて、さらりとそう言ってのけた。
爽子はミシマの心遣いにはいつも感心する。
「先輩、前にもごちそうしてくれませんでした?」
「それじゃ、今度ごちそうして」
ミシマはまた、いたずらっぽく笑う。
「わたし、すぐ忘れちゃうんです」
心遣いをさせたままでは申し訳ない。
「ちゃんと、ほんとのこと言ってくださいね?」
「ん〜、それじゃ2枚ちょうだい」
ミシマは親指から中指までで「3」を作って見せた。子どもみたいな仕草に、思わず笑ってしまった。
こういう無邪気さに、いつも救われる。
「はい、ありがとー」後ろを振り返って言った。今度は好奇心満々で、次は郊外にある日本酒と小料理のおいしいお店があると話始めた。
「先輩には参ります。ありがたくごちそうになります」
爽子はため息まじりに、軽く手を合わせて拝んだ。
「うむ。それでよろしい」
ミシマはちょっと得意げにしている。
ミシマと爽子はお互いに和食が好きなことも、長いつき合いの元だと笑った。実際、日本酒はミシマが教えたようなものだった。
「ところで、爽子ちゃん」
「はい」
「食事のときなんだけど……」
ミシマは、爽子の箸の使い方が、あまり上品ではない時があったと、軽く添えた。
咄嗟に、どう返事を返してよいか、慌ててミシマに応えた。
「あ、あの。どんなときでしょう。すみません……」
「う〜ん。自分で考えて」
一呼吸おいて、軽く言葉を置いた。
「ボクは少しもったいないと思っただけ」
爽子は、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
え…。いつだろう、恥ずかしい。
「…は、はい。あの……わたし、そういうの気がつかなくて……」
「もしまた、そういうことがあれば、いまみたいに教えていただけませんか」涙腺の奥が、じんわりと熱を帯びた。
そう言うのがやっとだった。
恥ずかしくて、目線を遠くへ遣る爽子を見て、ミシマが言った。
「うん。これを言えなかったら先輩じゃないしね?」
また、いつものいたずらっぽい笑顔だ。
爽子は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
誰かに注意されるのは苦手なのに、
ミシマに言われると、不思議と逃げたくならない。
そっと前を向いたミシマの背中を見て、爽子は思わず泣きそうになって、鼻の奥がツンとした。
◇
食事を終え、店を出ると、夜の風が頬に触れた。
夏に来ていた Saxのストリートミュージシャンの甘い音色は、聞こえてこない。 冬の街は、静かだった。
ミシマはコートの襟を立てながら、軽く身震いをして、横目で爽子を見た。
「爽子ちゃん。うちに寄ってく?」と自然に言う。
「え?」
爽子は、少し驚いて尋ねた。
「どうしました、急に?」ミシマが続けた。
「肩、ものすごく凝ってるでしょ。固そう」
「え、わかります?」いやだなぁ、恥ずかしい……。爽子は苦笑した。
ミシマは歩きながら続けた。
「マッサージしてあげる。無理なら断ってくれていいから」ごく自然に言った。
爽子は一瞬だけ足を止めた。
胸の奥で小さな警戒と、小さな安心が同時に揺れて、呼吸が浅くなる。
「……。」
「先輩、私に興味ありましたっけ?」
「ないわよ。あったら今まで無傷じゃ済まないでしょ?」
「それもそうですね」2人は何度となく食事に来たことがあった。
「そうよ、そんなことがあったらボクらの部活じゃないもんね」
その言い方に、押しつけは一つもない。
選択肢だけをそっと差し出すような声で。
「そうですね、わたしたちの代もそうでした」
こういう時は、ミシマの直感に従った方がいい。
「ええ、わかりました。お願いします」
「肩だけ、ですよね?」小さな警戒が顔を出す。
「もちろんよ。人の嫌がることには興味がないの」
その言葉に、爽子はふぅと、小さく息を吐いた。
“この人は、誰かの弱さを利用しない人だ”
そう確信できるから、足が自然と前に出る。
胸の奥の灯りが静かに落ち着いていくのを感じた。
遠くに目を遣ると、隣のビルのエレベーターが見えた。
ガラスに街の灯りが流れていく。
その光を眺めながら、爽子は思った。
──ああ、こういう “戻る場所”があるから、心が揺れても大丈夫なんだ。
華やかなオフィス街を抜け、ミシマの家へ向かう道は、ふしぎと安心に包まれていた。
むしろ、 “自分の輪郭が守られている場所へ向かう” そんな感覚だった。
ミシマの家に向かう足取りは、軽かった。
さっきまでの食事の温度が、
胸の奥の琥珀色をそっと包んでいた。
夜の街は静かで、 遠くの灯りが淡く揺れていた。
──自分の輪郭を守れる場所へ向かう夜は、こんなにも静かだ。
<了, 約 2,000 字>
あとがき
業務連絡:ミシマ先輩へ。
この小説に気づいたら、お早めにご連絡くださいね。
……はい。作者の先輩です🤭
(マッサージと女言葉だけフィクションです)
人生に音楽と、ときめきを🥃
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