#488[短編]琥珀色の間[6]──涙のスイッチと、本音が溶ける夜
優しさに触れた瞬間、涙のスイッチが入る。境界線が揺れる、第7回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、本稿
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
大翔と知り合った翌日、高校の先輩・ミシマの家に呼ばれた爽子。この夜、思いがけない “本音の扉” が開いてしまう。
華やかなオフィス街の路地裏から信号を過ぎ、途中の細い道を曲がると、うどん店や郵便局のある通りを過ぎて、住宅街が開けて行った。夜も8時を過ぎると、昼間はランチで賑うこの辺りには年始の静けさが漂っている。
「爽子ちゃん。アロマオイル使うけど、いい?」
早歩きのミシマが、唐突に振り返った。
爽子は一瞬、意味がつかめなかった──つまり、背中をみせることになる。
「まあ、ゆっくり考えておいて」
ミシマはかすかに微笑んで、また立ち止まった。
「あ。」
爽子もつられて立ち止まる。
「爽子ちゃん」
「はい?」声が上ずりそうになった。
「ハグ。」唐突に両手を広げるミシマ。
「え、えぇ?」
視線の置き場が、ふっとわからなくなる。
「遊びにくるわけじゃないんだから」
「はい、ハグ」
ミシマは淡々と言ってのけた。爽子はきょとんとしている。
「は、はい……」
爽子は、挨拶のハグで応じた。
ミシマに近づいて、両方の二の腕を、ぽん、ぽん、と。自分でも気づかないほど、呼吸が浅くなる。
「いまので、ボクにときめいた?」
「え、いいえ。え……?」
爽子はキツネにつままれたような顔をしている。
「よし、合格!」
「それじゃあ行こう」
「あ、あの……」
「…ボクだって、誰でもいいわけじゃないからね」
ミシマはそれだけ言って、振り返ることなく先へ進んだ。
◇
手早くオートロックを開けると、エレベータで2Fに着いた。
「階段を使うほうが早いけどね」と、おどける。
「どうぞ、上がって」
「お邪魔します」
ふかふかのスリッパに、疲れがスッと溶けていく。
予め、遠隔で暖房をつけたのか、暖かい空気と少しの冷気の中に、ほんのりとアロマの香りが漂う。丁寧な暮らしに、爽子はふしぎと安心を感じた。
「わぁ、何にもないですね。スッキリ!」
爽子はその洗練した佇まいに、少しだけ驚いた。
「寝に帰ってくるだけだからね」「荷物、そこに置いてね」
ミシマはやや事務的に告げ、大きなダイニングテーブルの椅子を指した。テーブルの上に、1通のダイレクトメールがある──三島 明。フルネームをみるのは久々だった。
「先輩、このテーブル大きすぎません?」
爽子はワクワクして聞いた。
一人暮らしには似合わない、8人はゆったりできそうな大きさの、無垢オークのテーブルの木の香りが、張りつめていた肩の力を少しだけ落とした。
「電車もないし。近くで飲むと高いしで、いつの間にか人が集まるようになってね」爽子は頷き、ミシマは収納とリビングを行ったり来たりしている。
「どうするか決めた?オイルを使うなら、ベッドを出すけど」
「使わないなら、肩甲骨から上だけね」
そうだった──爽子は一呼吸おいて言った。
「アロマオイルの方でお願いします」
「はーい」ミシマは淡々と準備を続ける。
「じゃあ、ラベンダー、ローズ、イランイラン、マンダリン」
どれがいい? ミシマはボトルを並べて、香りを試させてくれた。
「迷いますね。イランイランにしようかな」
「こういうの、恥ずかしくてお店では選ばないし」
「なるほど。じゃ、それね」
こんな冒険も、気心が知れていてこそだと思った。
◇
「それじゃ早速着替えね」
と言いたいところだけど……。
「その前にルームツアーをしよう」
そう言って、部屋中をくまなく確認させてくれた。
女性への気遣い、と言うよりも尊厳を守る。
ミシマへの信頼の軸が揺るがないのは、こういう部分なのかも知れない。
「あ、あの……。どうしてここまで?」
「このほうが、安心でしょ?」
「安全は、きみ自身が確認していいってこと」
「なるほど」
爽子は少し緊張して、
でもどこか安心していた。
◇
ブラインドの隙間から街明かりがぼんやりと見える。
遠くで救急車の音が鳴り、そして止まった。
──お湯を沸かしてくるね。掛けて待ってて。
「ふぅ…。おいしいです……」
爽子は、ミシマのお茶ケースから、八女茶を選んだ。
一瞬、ミシマがふわりと笑う。
八女茶の香りと、ほのかな渋みの奥から、甘みが追いかける。爽子は無意識に、緊張でこわばった両手でカップをそっとつつんで、温めた。
言えなかった気もちを、そっと押しだすような。
涙腺が緩みそうな爽子に、向かいからミシマが言う。
「あの炊き込みご飯は罪深いよねー」
そう、あの香ばしい香りに、いつの間にか大翔の話は中断していた。
「そうですね、家でも作ってみようかな」爽子は愛おしそうに思い返した。
◇
「で、爽子ちゃんはその彼とどうなりたいの?」
答えようとした瞬間、喉の奥がきゅっと縮んだ。
「……それは……」
爽子は、ミシマの顔をみることができなかった。
「多分、何ともならない、しない、かな」
「それが、ベストというか……」テーブルの木目を追って目線が泳ぐ。
言葉にした途端、何かが動き出しそうで怖かった。
名前を思い浮かべるだけで、胸の奥がそっと疼く。
それに、ひどくバカバカしい身勝手さを押しつける不安が押し寄せて、カップを持つ指が少しだけ震えた。
「ほんとうは……えっと、うーん」
もう少しだけ彼のことを知りたい。
それが本音だった。
「会いたいんでしょ?」
「あ……いや、はい、そうかもしれないです……」
ミシマの、カップを置く音が少しだけ強く感じた。
名前を出すと、心のすべてを曝け出す恥ずかしさに、喉の奥がひゅっと、細くなるのを感じた。
◇
「多分、人生のスイッチを押してくれた人、かな」
爽子は翌日から、今年の計画を前倒したこと、それが更に心を動かしていることを話した。
生きてきた時間の、温度差が生むときめき。
自分の中の未練や願いの反射、そういうもの。
『自分が歩かなかった、別の軌道の人生そのもの』に触れてしまったから?
爽子は、ひとりで何度も練習したことを打ち明けた。
触れたのは人ではなく、まだ名もない未来の気配。
冷蔵庫の音が一瞬、大きく聞こえたような気がした。
◇
風の通り方、光の入り方、人の動線。
住まいが呼吸をする、空気の温度、生活のリズム。
それらがバランスよく溶け合って、心が落ち着くかどうかが決まる。
大翔を通して「未来と可能性」を見た。
だから、惹かれたのは異性、年下だからじゃない。
惹かれたとしても、
それは “結婚” や “未来” ではなく、
一瞬の呼吸の合い方。
「ふむ……」
ミシマはゆったりと、同じお茶を口に運んだ。
「いまの本当の気持ちは?」
湯気がゆっくりと上がって、二人のあいだでほどけていく。
「ほんとうは、すごく……会いたい、のかもしれないです……」
口にすると泣き出しそうで、
それだけ言うのがやっとだった。
会わないと言いながら、
胸の奥では、あの夜の灯りだけが消えずにいた。
「会いたいと思ったなら、それが本音だね」
ミシマは返事をする前に、カップに視線を落としていた。
「…爽子ちゃん。ちょっと来て」
ミシマはキッチンを指さして、そっと立ち上がった。
爽子も小さく返事をして、あとに続く。
ミシマは急に振り返って、満面の笑みで言う。
「よく、言えたね」
爽子は深くうつむいて、小さく首を横に振った。
「ご褒美!」ミシマはそう言ってまた両手を開く。
「…おいで」
爽子はためらいがちにミシマに近づくと、ミシマは首のつけ根にそっと手を当てた。冷えていたせいか、やけどをしそうなほど、ミシマの手を熱く感じて、心とは裏腹に、涙が止まらなくなってしまった。
泣くつもりなんてなかったのに、身体だけが先に反応した。
ミシマは見ないように、もう少しだけ爽子を近くに寄せて、おなじ間隔でゆっくりと背中に触れた。
「いつも、そうして声をださないで泣くの……?」
ミシマは目線を爽子のおでこに落とすと、爽子は何も言えないまま、浅い呼吸をするのがやっとだった。ミシマは深く、爽子を抱きしめた。肩の力が抜けて、張り詰めていた呼吸が、ゆったりと穏やかに変わる。
「……っ」
言葉より先に、涙がこぼれた。
爽子はそっと、ミシマにその重さを預けた。
胸の奥にしまい込んでいた何かが、ゆっくりと溶けていくのを感じていた。
◇
「爽子ちゃん」
「それ以上は、キスしたくなる」
爽子は慌てて、少しだけ離れた。
「ははは、大丈夫」
「ヤバいときは一応、言わないとね」
──これでも、健全なオスですから。
ミシマがまた、いたずらっぽく笑って見せた。
「じゃ、ボチボチ始めますか!」
爽子の肩を、両手でポンッ!とタッチして奥へ行く。
爽子には、ミシマがどうしてこんなに優しいのか、
昔はわからなかった。
けれど今なら、少しだけわかる気がする。
凪のように、何も感じないようで心の深い所が動く。
<了, 約 3,500 字>

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