#490[短編]琥珀色の間[7]──手の中で跳ねる鼓動・I
アロマオイルをまとわせる音──手の中でゆっくりと温められたオイルの跳ねる音が、鼓動を緩やかに大きくしていくのを感じていた──。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、本稿
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
大翔《ひろと》と知り合った翌日、高校の先輩・ミシマと食事の帰りに家に呼ばれた爽子。ミシマの思わぬ行動に緊張が走る。期待の第8回。
◇
胸の奥にしまい込んでいた何かが溶けて、
凪のように、何も感じないようで心の深い所が動く──。
爽子は木製のコートツリーに洋服をかけ、身につけていたものはカゴに入れると、深いグリーンのベロアのカバーをかけて、ローブに着替えた。
ミシマは着替えが終わったらベッドに腰かけ、自分を呼ぶように伝えてから、ロフトへ上がった。遅れて、テレビの音が小さく聞こえてきた。
爽子は、部屋の様子をなぞることで、緊張をほぐそうとしていた。
この部屋は玄関の正面にキッチン、シンクの下に洗濯機、その反対側には冷蔵庫と小さなパントリーに、イッタラの食器がひと組。
それに、ナチュラルカラーの床と相性のいい、オークのテーブルと木の香り──すべてが、ありのままに調和していた。
片側の椅子の脇の小さな梯子の先はロフトになっていて、梯子の下には、幅の広い大きめの姿見が置かれていた。
鏡の中の自分とふいに目が合って、にっこりしてみる。
厚手のアイボリーのローブには、襟元と袖口に、抑えめのゴールドのパイピングが施されている。深いポケットが二つと、フードが少し立ち上がる遊び心のあるデザインに少しだけときめいた。
ローブの内側のガーゼが、肌につきすぎず、厚みのあるローブとの境界線をやさしく繋ぐ。ほんわかと温かくて、自分の体温がローブ内を循環するのを感じた。
一足の革靴、洗濯機の中はカラ。
あとは部屋中どこを見回しても壁だけで、カメラもマイクもない。
携帯は電源を切って見せ、お手洗いにも何もなかった。
窓辺に置かれた観葉植物にはビニールがかけられ、窓との境にはつい立てがしてある。「優しい」と爽子は思った。「お客」なら外しているかもしれない樹木カバーをつけたままにしていることも、爽子を安心させた。
「爽子ちゃーん。もう、大丈夫そ?」天井の上、遠くからミシマの声がする。ハッとして、ロフトを見上げた。
「あ、はーい。大丈夫です!」少しだけ緊張が戻って、無意識に指先をこすり合わせた。
◇
「よろしくお願いします」爽子が先に切り出した。
「うん、こちらこそ」ミシマの声にもほんのり緊張が走る。
ミシマはベッドに腰かけた爽子の後ろに回った。
「それじゃ、肩からいくね。痛いところはある?」
「うーん。昔、交通事故でぶつけたところかな」
「ああ、言ってたね。中学の頃、だっけ?」
「はい」
「じゃあ、そこは気をつけるようにするね」
「はい、ありがとうございます」
両手の指先を閉じて、肩と背中の間にじっと手を置いた。
精神統一の儀式のようで、爽子も「この人にまかせよう」という心の準備ができた。
「首は大丈夫?」事故と聞いて、慎重になる。
「はい。背中も、ふつうで大丈夫です」
「OK」
ミシマは首のつけ根に軽く親指をあて、両手をゆっくりと肩へ向わせて「ハリ」を確かめていた。「ちょっと、失礼」そう言っておでこに手をあて、横から片手で首を少しずつ緩めていく。
「先輩、マッサージが上手ですね。うまいって、変な言い方ですけど」
爽子は、どうしてマッサージを始めたのか、訊いてみたかった。
「セカンドキャリア。会社で取らされたの」
一瞬の沈黙のあと、ミシマが続ける。「コロナのときにね」
「異業種、異職種、なんでもいいから何か選べって」
「無茶ぶりだよね〜」
そう言って、爽子の肩をカクカクと軽く揺さぶった。
私じゃないよ、と爽子は笑ってしまった。
「ああ、なるほど。ありましたね、そういうの」
「同僚には食品関係とか、観光とかもいたかな」
「そうそう。ボクはそれでお年寄りの施設に行ったの」
ミシマの親指が軽やかに、肩から肩甲骨へ流れていく。
「どうせ違うことをするなら、システムより心に触れたかったんだよね」
「へぇ、先輩らしいですね」
「ありがとう。それでね──」
「隣に学童保育があるんだけど、子どもに教えたらみんなやりたがるんだよね」
「ええ、なんかいいですね、それ」
「でしょ?最後の日なんかボクがやるより喜んでたりね」
「ふふ、面白いですね。でも忙しそう」
「ほんとだよ、まったく。あの時こそ本業で死にそうだったのに──」
ミシマは口元だけ、自嘲気味に笑った。時々いたずら心で、少しだけ背中の指圧が強くなると、爽子は肩の力が抜けたように息をこぼして、笑った。
爽子は、自分の話をひとつ置くたびに、
ミシマの奥に隠れた本音が、彼の指先の熱とともに伝わってくるのを感じて、なぜかホッとしていた。
<了, 約 1,700 字>

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