見出し画像

日本最初の医薬分業は、シーボルトとビュルガーである

長崎大学薬学部編の「出島のくすり」(九州大学出版会)を読みました。

江戸時代に世界に開かれていた長崎の出島でのくすりを中心とした歴史が満ち溢れている本です。

「はじめに」を読むと過去のハベレオ通信で紹介した人がぞくぞくと登場します。

(前略)日本薬局方の草稿者であるオランダ人ゲールツは、明治二年長崎府医学校で教鞭をとっていた。

このゲールツを雇ったのが長崎府医学校校長の長与専斎である。

長崎大村の出身で、ポンぺに学び、後に文部省医務局長となり、薬学の創始にあたる。

日本薬学会の創始者である長井長善は、蜂須賀藩の藩命により長崎に留学している。

また、世界に通じる国産初の医薬品高ジアスターゼやアドレナリンを発見した高峰譲吉もまた慶應元年加賀藩から長崎に留学している。

いずれも、当時長崎精得館に設けられた分析究理所のハラタマを頼って留学していた。

ハラタマはさらに大阪舎密局の開設にも尽力している。化学(舎密)は当時の最先端技術であった。

写真の元祖として知られる上野彦馬は化学の実験所「舎密局必携」を記しており、薬学と関係深いが、医学校のポンぺに化学を学んでいる。

更にさかのぼると、長崎出島の商館医シーボルトとその薬剤師ビュルガーに至る。

シーボルトが用いた薬の記録が残っているが、長崎の郷土料理卓袱(しっぽく)のごとく、西洋薬と日本の伝承薬を混ぜ用いており、それまであった薬園の役割も大きかったと思われる。

また、大村侯夫人のための医薬の処方箋が残っており、現在日本薬局方に記載されている胃薬と非常に似ていることは興味深い。

当時、ヨーロッパではすでに医薬分業がおこなわれており、ビュルガーは日本最初の近代的薬剤師である。

ビュルガーはまたシーボルトコレクションの鉱物部分を担当し、鉱石や温泉を化学的な手法で調査研究した。

このように、日本の近代薬学の歴史は長崎出島を舞台にオランダとの交流から始まる。

それ以前にポルトガルより伝わった南蛮薬学と大きく異なっている点は、この時代になって西洋で化学が確立し、その化学に基づいた薬の開発や研究がはじまったことや、薬の品質管理のための薬局方と薬剤師制度が確立されたことによる。

そのため、薬学のルーツは「出島のくすり」にありとの理由から本の題名を選んだ。

このように「はじめに」を読んだだけでも、相当な歴史が詰め込まれています。

この本の中で、日本最初の医薬分業は、シーボルトとビュルガーだと指摘しています。

従来から多くの医師が出島を訪れていますが、「専門的」で「職業的」な「薬剤師」をともなったのは、シーボルトまでは皆無です。

それまでの日本の医療は医学と薬学がほぼ完全に融合し、伝承的手法と経験により医師が自ら薬を調合していました。

ビュルガーは、最初の薬剤師で、近代的医薬分業の観点から見て画期的であったとありました。

ビュルガーについては、全く知りませんでした。

1806年、ドイツのハーメルンのユダヤ人の家庭の七番目の子どもとして生まれています。ゲッチンゲン大学で数学と天文学を学んだ記録が残されています。

その後、アムステルダムからオランダ領東インド(現在のインドネシア)へ渡り、1823年にバタビア近郊のウェルテフレーデの軍の病院の見習い薬剤師となりました。

1825年、三等薬剤師に昇進したビュルガーは、シーボルトが要請した助手のひとりとして日本に赴きました。

バタビアは、オランダ東インド会社が置かれており、オランダの極東への重要な拠点でした。

オランダ領東インドは、オランダとは気候・風土ともに全く異なる南方地方であり、風土病の地とされていました。

オランダ人が熱帯病に冒されるケースが後をたたず、オランダを出国した商人・船員のうち、二割程度が健康のうちに帰還できなかったというデータもあります。

オランダが、東インドに進出するに際しては、熱帯医療の研究は不可欠のことであり、そのためにオランダ人による熱帯医療の研究は非常に進んでいたのです。

ビュルガーは、これまでシーボルトの助手ということ以外は、あまり知られていませんでした。

薬剤師としての本文は、医療用の薬品の製造・管理などでした。

薬学以外に、ビュルガーは、鉱物学・地質学の領域と、化学に関する領域でおおいに貢献しています。

シーボルトが出島を追放された後も残って、博物学の標本をオランダに送り続けたのもこのビュルガーです。

日本におけるシーボルトの博物学研究の中で、ビュルガーが鉱物学・地質学的な調査・収集活動の多くの部分を担っていました。

シーボルトとの関係はかならずしもよかったとは言えなかったそうです。

シーボルトがビュルガーの業績を独り占めしたような形になったことによるものだろうと言われています。

のちにビュルガーは、科学者としてのキャリアを断念し、商人として成功します。

東南アジア貿易での海上保険の先駆けをなす会社を運営することになりました。

日本で作った資本を元に事業を起こし、家族をオランダ領東インドに呼び寄せ、名家となり、その家系は今も継続しているそうです。

この本には、ビュルガーが採取したときのメモの写真が掲載されています。

HiwgaとHigoの地名があり、これは、日向と肥後のことです。

つまり、ビュルガーは宮崎にも採取に来ています。もしかして椎葉にも来たかも。

日本で医薬分業を根付かせるために、長与専斎は「医制」を制定し、またGHQのサムス局長は厚生省を通じて「医薬分業法案」を国会に提出させました。

しかし、いずれも医師の反対で医薬分業は進みませんでした。

日本薬剤師会の石館守三会長と、日本医師会の武見太郎会長との間で、処方箋発行の話し合いがつき、厚生省も処方箋料を大幅に引き上げたことが契機となり、医薬分業が動き出したのは、「分業元年」といわれる1974(昭和49)年以降のことです。

シーボルトとビュルガーによる医薬分業体制を日本に初めて紹介したのが、1825年のことなので、実に150年もかかったことになります。

ここまで長くかかったのは、「儒教」の影響です。
医療政策を展開する上で、「人文知」は大事です。



いいなと思ったら応援しよう!