「別にいつでも」

今晩、永遠の眠りについても、後悔は無いか。


この手の問いは、
一般的にはポジティブな自問自答であると思う。

悔いなく今日一日を過ごすことができたか。

あるいは、
これまでの人生を過ごすことができたか。

自己啓発本の類にも、
仮に今日、突然人生が終わりを迎えたとしても、
悔いが残らないような生き方をしよう、
といった意味合いでこうした問いがなされている、
ように思う。


一方で私は、
そこに一般的な意味合いを見出すことは難しく、
過去にも記してきたように単に「死ねないから生きている」という感覚に包含される形で、
仮に明日の朝、目が覚めなくとも、
これといって悔いが残るようなものが見当たらない、
という意味合いでこうした自問自答をしている、
ふとした時に。

「大きな秘密」に「ケリ」がつけば、
多少なりともこの意味合いが変わるだろうかと思ったのだが、
今のところその気配はなく、
兄から受けた多大なる恩を返していかなければとは思いつつ、
一方で最低限の義務は果たしたという感覚もあり、
それが逆に「別にいつでも」という感覚に拍車を掛けている気配さえある。

むしろ、
兄から受けた多大なる恩を返すことができる可能性よりも、
再び兄に何かしらの迷惑を掛けてしまう可能性の方が高く、
であればこそ最低限の義務を果たしたからこそ、
「別にいつでも」とすら思う瞬間がある。


とはいえ、
それは決して能動的に何か事を起こしたいと思っているということではなく、
死神の一振りで痛みや苦しみを感じないのであれば、
文字通り眠るような成り行きなのであれば、
それはそれで別に構わないと。

たとえば、
頭の中で天秤を想像したときに、
「明日」という秤に傾く絶対的な何かが、
無い。

それは、昨年に、あるいは昨年末に至るこの10年弱の間に、
さまざまな物事を経験したことによって、
最終的には「持たざる者」となったことによって、
より顕著になった気がする。

今日一日が穏便に終わればそれで結構。

明日への期待も特に無い。


一方で、
これはただの強がりなのではないかとも思い始めた。

「持たざる者」になったと言いながら、
「別にいつでも」という新たな外套を纏い、
それを脱げずにいるだけなのではないかと。

つまるところ、
単なる自己陶酔なのではないかと。

そもそも、住む家と、眼の前のPCやモニターと、
幾許かの現金と、
そして私を支えてくれる兄という存在がある時点で、
「持たざる者」という言葉がそもそも嘘であり、
誇張表現であり、
過度な自己憐憫ではないかと。

またあるいは、
臆病風に吹かれているだけなのではないかと。

傷つくのが嫌だから、
期待しない、希望を持たない、
と思い込もうとしているだけの弱虫なのではないかと。


「別にいつでも」

それでも少なくとも今の私は、
内側にあるこの感覚を、
自分自身に対する虚言であると、
真正面から否定しきれない。

そしてきっと、
今日と同じように明日の朝もまた、
当たり前のように目を覚ます。



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堀内 経羅流渡 読んでくださりありがとうございます。 もし、私の言葉のどこかに「居場所」を感じていただけたなら、チップを通して応援していただけると大きな励みになります。 頂いたチップは、創作の励みとして大切に使わせていただきます。