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本好きのためのnote。読後の余韻を愉しむ本とは?全22選❶上巻

極上のワインがあるなら、「とっておきの読書」「極上の読書」「読後の余韻を愉しむ読書」があってもいいんじゃないかと思いませんか。
 
飛び切りの時間に読む「読書の余韻」には、どんな本が似合うでしょう。
 
そんな書籍の一節を読めば、時空を超えてその時代、その空間へと誘ってくれてるものです。読書の世界に包まれてみませんか。
 
本は不思議なものです。
 
高価な本が価値あるものでもなく、古本屋の店頭に並べられた100円均一の中にも、
人生を変えて呉れる、ヒントになる本があることだってあるからです。
 
そして、長く読み継がれて来た本には、多くの人を引き付ける魅力があります。
 
とっておきの時間に「読書の余韻」を味わってみましょう。
 
《目次 22選》
(上巻❶)
『吾輩は猫である』夏目漱石
『徒然草』吉田兼好
『おくのほそ道』松尾芭蕉
『学問のすゝめ』福沢諭吉
『遠野物語 山の人生』柳田国男
『古寺巡礼』和辻哲郎
『論語』
『舞姫』森鴎外
『こころ』夏目漱石
『銀の匙』中勘助
『蜘蛛の糸』芥川龍之介
 
(下巻❷)
『銀河鉄道の夜』宮沢賢治
『風立ちぬ・美しい村』 堀辰雄
『人間失格/グッド・バイ』太宰治
『葉桜と魔笛』太宰治
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎
『ガリア戦記』カエサル
『読書について』ショウペンハウエル
『幸福論』アラン
『プロテスタンティズムの倫理と…
『ロミオとジューリエット』
『ファウスト』ゲーテ


『吾輩は猫である』夏目漱石/「樽金王の話」

夏目漱石の『吾輩は猫である』の中に「樽金王の話」と言う大変興味深い話があります。それを教えて呉れたのは、作家の森本哲郎さんの著書でした。

なんでも昔、羅馬に樽金(たるきん)とか云う王様があって……」 「その王様の所へ一人の女が本を九冊持って来て、買ってくれないかと言ったんだそうです」 「王様がいくらなら売ると云って聞いたら大変な高い事を云ったというんです。あまり高いもんだから少し負けないかと云うと、その女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて焼いてしまったそうです」

「王様は九冊が六冊になったから少しは値も減ったろうと思って、六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです。それは乱暴だと云うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。
 
王様はまだ未練があったとみえて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分の値段をくれと云うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても、代価は元の通り一厘も引かない。
 
それを引かせようとすると、残ってる三冊も火にくべるかもしれないので、王様はとうとう高い御金を出して、焼け余りの三冊を買ったんですって……」

夏目漱石『吾輩は猫である』

数年前、漱石の『吾輩は猫である』を、何十年か振りに読んでいたら、このシーンの話が出て来て、それは主人が迷亭と話している場面でした。
 
その瞬間、長年、僕の頭の中で、モヤモヤしていた「樽金王の話」が、漱石と森本哲郎で繋がったのでした。
 
そして、一説によると、この「焼け余りの三冊」、この3冊に、ローマの運命が書かれていたと言います。


『徒然草』吉田兼好 

『徒然草』の作者は、鎌倉時代末期に朝廷に仕えていた吉田兼好。後に出家し、『徒然草』を書いたと言われています。
 
その執筆の経緯は、以前から書き溜めていた、日常生活の中で見聞した出来事について、気の向くままに書いた原稿を、出家後にまとめたという説もあるなど、『徒然草』が完成するまでの経緯は分かっていません。
 
タイトルの「徒然」は、特にやるべきことがなく、手持ち無沙汰な様子を表していて、「草」は植物ではなく、「草子(そうし、ノートのように綴じてある冊子)」のことです。
 
『徒然草』は、「つれづれなるままに」で有名な序段を含む、全244段で構成されていて、各段のテーマは、人の生き方や人間関係、信仰など多岐にわたっています。
 
皮肉やユーモアを交えて書かれたストーリーは人間味にあふれていて、現代社会に通用する教訓的な内容も少なくありません。
 
ある時、高校の古文の授業で、兼好法師の『徒然草』72段を学習した時です。
そこは「賤しげなる物」の段で、

「下品に見える物は、調度品の多さ、硯に筆の多さ、持仏堂の多さ、庭の石や草木の多さ、家のなかの子・子孫の多さ、人に会った時の言葉の多さ、善行を行う方法の多さ」、
「多くても見苦しからぬは、文庫の文、塵塚の塵」

吉田兼好『徒然草』

と記されていて、現代訳だと、
 
「多くても見苦しくない物は、室内で書籍を運搬する、文車に積んだ書籍と、ゴミ捨て場のゴミ」となるようです。
 
何で兼好法師がゴミが見苦しく無いと、言ったかは分かりませんが、本はいくら多くても良いんだと、自分なりに解釈して、本を集めだしたのです。

『おくのほそ道』松尾芭蕉


夏草や つわものどもが 夢の跡


「つわもの」とは、とても強い武士たちのことを言います。
 
この句は、松尾芭蕉が平泉で5月13日(新暦6月29日)に詠んだ俳句です。
 
江戸を出発しておよそ1ヵ月半、平泉の高館(たかだち)に立ち、夏草が生い茂る風景を目の当たりにして、奥州藤原氏の栄華の儚さを、芭蕉はどう思ったのでしょう。


旅に病(や)んで 夢は枯(か)れ野を かけめぐる


枯野とは、霜が降り草木もすっかり枯れ果てた、冬の野原で、寒風にさらされ荒涼とした情景は郷愁を誘います。
 
この句は亡くなる4日前に詠んだもので、芭蕉が残した生前最期の句となりました。
 
死の直前にあっても、旅や俳句を思う情念を素直に表現しており、辞世の句だとも言われています。
 
松尾芭蕉(1644~1694年)は、江戸時代の前期を生きた俳諧師です。伊賀国(現在の三重県)に生まれ、名を宗房と言いました。
 
松尾家は平家の末流を名乗る一族で、苗字・帯刀を許されてはいましたが、武士ではなく農民の身分でした。
 
13歳の時に父が死んでしまい、兄が家督を継ぎましたが、生活は苦しく、芭蕉は伊賀国上野の侍大将の息子である、藤堂良忠に仕えることになります。
 
この藤堂良忠との出会いが、松尾芭蕉と俳諧とを結び付けることになったのです。


『学問のすゝめ』福沢諭吉

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。
されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、
もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

福沢諭吉『学問のすゝめ』


『学問のすゝめ』の冒頭は、言わずと知れたこの名文によって始まります。
 
すべての人は平等で、生まれながらにして貴いとか卑しいとかいう違いはありません。
 
しかし世の中には、お金持ちもいれば貧しい人もいます。あるいは、地位の高い人もいれば地位の低い人もいます。
 
なぜ平等に生まれたはずの人間に、このような差が出来てしまうのでしょうか。
 
江戸時代に寺子屋の教材として使われた『実語教』には、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」という一節があります。
 
賢い人と愚かな人の差が出来てしまうのは、その人がしっかり学問を学んでいるか、学んでいないかによって決まってしまうのです。
 
世間には、医者や学者、政府の役人、経営者などの頭を使う難しい仕事もあれば、単純な力仕事のように、頭よりも身体を使う仕事もあります。
 
頭を使う難しい仕事には、どうしても学んでいる人が就くことになるため、身分は高く、収入も多くなりがちです。
 
一方、学問を学んでいない人には、身体を使うだけの簡単な仕事しか回って来ません。
 
なので、しっかりした仕事に就きたいのならば、学問を学ぶ必要があるのです。
 
学問を学ぶことで、身分や職業に関係なく、それぞれ自分の務めを果たし、一人一人の独立が、一家の独立、ひいては国家の独立にも繋がっていくと説いています。
 
『学問のすゝめ』は、1872年(明治5年2月)に初編出版しました。明治維新直後の日本人は、数百年変わらず続いた、封建社会と儒教思想の中にいました。
 
そんな国民に対して、日本が中世的な封建社会から、近代民主主義国家に新しく転換したことを諭し、
 
欧米の近代的政治思想、民主主義を構成する理念、市民国家の概念を平易に説明して、民主主義国家の主権者となるべき、自覚ある国民に意識改革することを説いています。


『遠野物語 山の人生』柳田国男

昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上には町町三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。
人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚し。或いは新道なるが故に民居の来たり就つける者少なきか。
遠野の城下はすなわち煙花の街なり

柳田国男『遠野物語 山の人生』

『遠野物語 山の人生』の巻頭部分には、こんな一文があって、柳田国男が岩手県遠野を訪れた情景から始まります。
 
そして、この物語の中で、柳田国男はこんな名文を残しているのです。


我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。


見過ごされている現実に光を当て、そこにある価値観に、市井の人々の足跡が残されていてることを教えてくれているようです。
 
柳田国男が記した『遠野物語』は、明治43年(1910年)に発表されます。
 
これは岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集で、日本の民俗学の先駆けとも称される作品です。
 
遠野物語における遠野、あるいは遠野郷とは、狭義には藩政時代の旧村が、明治の町村制によって編制された遠野、松崎、綾織、土淵、附馬牛、上郷、を指し、その地で起きたとされる出来事なども取り上げられています。
 
その内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、あるいは祀られる神と、それを奉る行事や風習に関するものなど多岐に渡っています。


『古寺巡礼』和辻哲郎

三月堂の外観は以前から奈良で最も好きなものの一つであったが、しかし本尊の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)をさほどいいものとは思っていなかった。
しかるに今日は、あの美しい堂内に歩み入って静かに本尊を見上げた時、思わずはっとした。全くそこには後光がさしているようであった。

和辻哲郎『古寺巡礼』

これは、『古寺巡礼』六 浄瑠璃寺への道―浄瑠璃寺―戒壇院―戒壇院四天王―三月堂本尊―三月堂諸像の、戒壇院から、三月堂へまわった。の一節です。
 
そこには以前感じられなかった、仏像の美を発見した新鮮さが表れていました。
 
そして、哲学者の谷川徹三はこんな言葉を残しています。
 
「大正7年の5月、20代の和辻哲郎は、唐招提寺・薬師寺・法隆寺・中宮寺など、奈良付近の寺々に足を運んだ際に、飛鳥・奈良の古建築・古美術に相対し、その印象を、若さと情熱をこめて書き留めた。
 
鋭く繊細な直観、自由な想像力の飛翔、東西両文化にわたる該博な知識が一体となった、みごとな美の世界がここにはあると」。
 
和辻哲郎は、西田幾多郎やハイデッガーなど、同時代の哲学者とも干渉しあいながら、その終生をかけてした仕事は倫理学の構築でした。
 
「人」ではなく、「人」と「人」の間、すなわち「人間=じんかん」の学として、倫理学を打ち立てようとしたのです。


『論語』

子曰く、学びて思わざれば罔(くら)し。思いて学ばざれば殆(あやう)し。

『論語』

〈現代語訳〉
先生は言われた。読書や先生から学ぶだけで、自分で考えることを怠ると、知識が身につかない。しかし、考えることばかりで読書を怠ると、独断的になって危険である。

子曰く、学は及ばざるが如くせよ。猶(なお)之を失わんことを恐れよ。 

『論語』

〈現代語訳〉
先生が言われた。まだまだ自分は十分ではないという思いを持ち続けるのが学ぶということだ。のみならず、学んだことは失わないよう注意しなさい。
 
『論語』とは、孔子と彼の高弟の言行を、孔子の死後に弟子達が記録した書物です。
 
『孟子』『大学』『中庸』と併せて、朱子学における「四書」の1つに数えられています。
 
紀元前5世紀頃、中国の思想家であり、儒教の祖である孔子の言行を、孔子の死後に弟子たちが編纂した『論語』は、孔子自身が執筆したものではありません。
 
今に伝わる論語が編纂されたのは、孔子の死後、かなり時間が経ってのことでした。
 
そして、『論語』は、『孟子』『大学』『中庸』とともに儒教における「四書」の一つに数えられていて、官僚の登用試験である、科挙の出題科目になるなど、中国思想の根幹をなしていたのです。


『舞姫』森鴎外

石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒なり。
今宵は夜毎にこゝに集ひ來る骨牌(かるた)仲間も「ホテル」に宿りて、舟に殘れるは余一人のみなれば。

森鷗外『舞姫』

《現代語訳〉
「石炭を早くも積み終えた。中等室の机のあたりはたいへん静かで、電燈の光が晴ればれとしているのもむなしい。
今夜は、毎晩ここに集まってくるカルタ仲間も「ホテル」に宿泊しており、船内に残っているのは私ひとりのみだからだ。」

主人公の太田豊太郎は、イタリアのブリンヂイシイの港で乗船し、日本に向かう客船内にいました。
 
当時ヨーロッパ航路と言うのは、東南アジア、インド、スエズ運河を経由し、地中海へ抜けて行きました。帰りはその逆です。
 
帰路ではサイゴンを出ると、次は日本の横浜です。

つまり、もしもう一度、ヨーロッパのエリスの元へ帰りたいと思ったら、サイゴンで下りて、ヨーロッパ行きの船へ乗り換えればよいのですから、ここが最後のチャンスだったのです。
 
しかし主人公はそうしませんでした。
 
そして、石炭が積み終わります。いよいよ出港です。
 
船から下りない、と言う決断を主人公は、愛したエリスとの、最後の別れだと言う意味だったのです。


『こころ』夏目漱石

私(わたくし)は其人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書く丈で本名は打ち明けない。
是は世間を憚かる遠慮というよりも、其方が私にとって自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。
筆をとっても心得は同じ事である。余所々々しい頭文字抔(など)はとても使う気にならない。
私が先生と知り合になったのは鎌倉である。其時私はまだ若々しい書生であった。

夏目漱石『こころ』

 主人公の私が、暑中休暇を利用して海水浴に行った鎌倉で、先生に出会い物語が始まります。
 
先生と言っても、単に主人公の私が、そう呼んでいるだけであって、実際は海で偶然に出会った無職の人でした。
 
最初は出会った海で、世間話をする程度の仲でしたが、徐々に主人公の私は、先生だけではなく先生の奥さんとも、交流を深めて行くことになったのです。
 
先生は近づきがたい雰囲気を放っていましたが、主人公の私は、先生の学問の知識や思想に惹かれ、月2~3回ほど、家を訪ねるようになり、次第に先生に傾倒して行ったのです。
 
そして私は、先生の心の闇を知ることになるのでした。


『銀の匙』中勘助

そら豆の葉をすうと 雨蛙の腹みたいにふくれるのが おもしろくて畑のをちぎってはしかられた。山茶花の花びらを舌にのせて息をひけば 篳篥ににた音がする。

中勘助『銀の匙』

【注】篳篥(ひちりき)とは、雅楽で主旋律を担当する二枚リード式の縦笛状の管楽器で、竹の管に葦のリードを差し込み、9つの指孔で音程を変える日本の伝統楽器。

古い茶箪笥の抽匣(ひきだし)から見つかった銀の匙。
 
忘れられていたこの小さな匙は、病弱だった私の口に薬を入れるため、伯母さんがどこからか探してきたものでした。
 
その愛情に包まれた幼少期、初めての友達・お国さんとの平和な日々、腕白坊主達が待つ小学校への入学、隣に引っ越してきたおけいちゃんに対する淡い恋心、そして、少年から青年に成長するまでを、細やかに回想する自伝的作品です。
 
中勘助は、明治18年に東京神田で生れ。一高をへて東京帝国大学英文科入学、その後、国文科に転じます。
 
高校、大学時代に、漱石の教えを受けました。
 
信州野尻湖畔で孤高の生活を送っていましたが、父の死と兄の重病という家族の危機に瀕し、1912年、処女作『銀の匙』を執筆、漱石の強い推薦で「東京朝日新聞」に連載していたのです。
 
どこをとっても美しい文章で、語り手である主人公が見た、繊細な美の世界を描いる、中勘助の自伝的小説です。
 
純粋な少年が自らの感性、信じる美のため、しなやかに強く生きてゆく、その語り手の姿勢が美しい文章に表れています。


『蜘蛛の糸』芥川龍之介

ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。
極楽は丁度朝なのでございましょう。

芥川龍之介『蜘蛛の糸』

ある朝、お釈迦さまは極楽の蓮池のほとりを散歩していると、はるか下には地獄があり、犍陀多(かんだた)と言う男が、血の池で、もがいているのが見えます。
 
犍陀多は生前、殺人や放火など、多くの凶悪な罪を犯した大泥棒。しかしそんな彼でも、一度だけ良いことをしていたのです。
 
それは道端の小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けてやった事でした。
 
そのことを思い出したお釈迦さまは、彼を地獄から救い出してやろうと考え、地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らします。
 
血の池で溺れていた犍陀多が顔を上げると、一筋の銀色の糸が、するすると垂れて来ました。
 
これで地獄から抜け出せると思った彼は、その蜘蛛の糸を掴んで、一生懸命に上へ上へと登るのでした。
 
地獄と極楽との間には、とてつもない距離があるため、登ることに疲れた犍陀多は、糸の途中にぶらさがって休憩します。
 
しかし下を見ると、まっ暗な血の池から這い上がり、蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって近づいて来るではありませんか。
 
このままでは、重みに耐えきれずに、蜘蛛の糸が切れてしまうと考えた犍陀多は、
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだのです。
 
すると突然、蜘蛛の糸は、犍陀多がいる部分で、ぷつりと切れてしまい、彼は罪人たちと一緒に、暗闇へと、まっさかさまに落ちていったのです。
 
一部始終を、上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池を立ち去りました。
 
時刻は昼になろうとしていたのです。


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