指標の本質
最初に2つほど、免責とお願いを書く。
まず、この記事は少しばかり長い。
全て読むには少し時間が掛かるだろう(1.7万字ある)。すぐに読む時間がなければ、noteのスキや、SNSでのシェアなどをしておいて頂れば、後で読むことができるし、筆者も喜ぶので、かような反応を是非お願いしたい。
次に、これは、ハウツー記事ではない。
何かについての短絡的な答えや、必ず上手くいくノウハウ、の類は出てこない。しかし、多くの人にとって、長く役に立つ記事であると信じている。自分の経験と思考を振り返り、多くの洞察を込めて書いた。長文ではあるが、是非読んでみてほしい。
イントロ|はじめに
『測りすぎーなぜパフォーマンス評価は失敗するのか』という本を読んだ。
2025年に読んだ本の中でも、特に印象に残った一冊だった。 私は、社会人になってから、データや指標に関わる仕事を多く経験している。新卒で入った戦略コンサルティングファーム、メルカリというスタートアップのデータ分析責任者などを経て、現在(2026年, 本記事執筆時点)は日本政府で政策の進捗や効果の数値化・見える化のプロジェクト(*1, *2)をリードしている。
『測り過ぎ』は指標についての本である。指標を歴史的・時代的文脈から紐解く考古学であり、また、営利企業、軍部、医療や教育などのの広範な組織の(多くは失敗の)事例から考察する解剖学でもある。私には強く刺さるものがあった。実際にところ、これは『指標』という単純な射程を越えて、組織とデータの本質そのものを根源から理解し直すための、強いインスピレーションをもたらした。経営や管理、データ分析やKPI、公共政策、パーパスやビジョンなどに関わる、多くの人に、是非この本を読んでみてほしいという気持ちを持った。
そこで、本から得た洞察と刺激に、自分のこれまでの実経験を併せ、『指標』とは一体何者であるのか、その本質について、思索し、包括的な記事としてまとめてみた。そして、『指標』について、その正体に迫った上で、最後に、私なりの向き合い方について、小さな提案を少し書いてみることにする。
これは、『データと指標』にそれなりの期間関わってきた、私なりの、一つの体系的な結論と思想である。書籍『測りすぎ』と本記事が、(時には指標を用いることによる)健全な形での世界の統治に興味がある方々に、広く届くことを期待している。
エートス|指標の倫理
ー 測りすぎという本と、歴史的観点
表題:測りすぎ、が示す通り、この本の主題は、あるものを測ること、つまり『指標』に対する懸念として読むことができる。原題は The Tyranny of Metrics(数字の専制) とあるが、しかし、本書は指標測定を否定・断罪するものではない。むしろ、指標がどのような場面で力を持ち、どのような条件で誤作動を起こすのかを理解することで、指標の力を健全に制御し、使いこなすための視座を与えてくれる。その意味でも、仕事で指標に多少でも関わる人にとっては、必読書だと思う。
巷に存在するデータや指標に関する書籍は、多くの場合、「何をどう測ればよいか」に関心が向けられている。一方で、この本は、その前段となる、そもそも論の部分を主軸に据えている。指標は人類に何をもたらすのか、なぜ私たちは、指標による把握を避けられなくなったのか、といった土台の構造。こういった角度の視点から書かれた本は希少である。
この本は『指標が生み出す問題』を、ある時代や場所に固有の偶発的な失敗、もしくは特定の組織の不祥事として捉えてはいない。むしろ、それは人類の普遍的な課題である、著者Mullerの観点は透徹している。Mullerは、歴史の研究者である(企業人でもなければ、経営学の研究者でもない)。歴史家が指標についての研究をしているというのは不思議に感じるが、ある「点」でなく、歴史という「線」の視点を導入することで、指標というツールが人類の活動に及ぼす本源的な意味、その誕生と隆盛の必然性、そして、その危険性を理解することができる。
それは『指標』という様式が持つ、構造的なパターンであり、そこに必要とされる倫理(Ethos, エートス)の物語である。企業に限らず、国家・軍・公共部門と分野横断で指標が起こす歪みの相似形の提示により、指標という存在が、近代化という環境変化に対する、我々人類の本能的・必然的な抗体反応であることを理解させられる。同時に、これは、実は極めて人間的なテーマを扱っている本であると思う。表面的には、数値という無機質なものを主題としているように見えるが、その背後には、信頼・不安・責任・保身・倫理・逃避、といった人間の本性にまつわる物語が潜んでいる。歴史と構造、人間と本能の物語として読むと、指標という存在に対して、新しい洞察を得ることができる。
オリジン|指標の源流
ーなぜ、指標は「偶然」ではないのか
指標測定は、『世界の歴史・構造』の物語である、と書いた。まず、その点に触れておく。それは、近代社会が生み出した固有の困難、つまり『大きな組織と小さな個人』をどう接続し駆動させるかという、人類の新しい課題と深い関係にある。
指標という方法論が広く普及をしたのは、人類の長い歴史の中では、比較的最近のことである。指標などは抜きにして、人や組織が動いていた時代は、いまと何が異なっていたのだろうか。それは一言で言えば、『相互の顔が見える』世界であったことだと言える。すべての行為について、判断と責任が、顔の見える個人に紐づき、誰が何を決め、誰が何を引き受けているのかが明確な環境。そこでは、成果や失敗も、数値ではなく、文脈や経緯とともに理解される。この前提が成り立つ環境では、指標という、抽象的・俯瞰的・縮減的という、不完全な道具の出番は少ない。専門性に支えられた仕事は、数値化される対象というよりも、経験や評判、同業者からの信頼によって成立していた。
しかし、この前提は時代と共に大きな転換を経験する。社会の近代化は、社会や組織の拡大・分業の徹底・人と雇用の流動化を加速することになる。組織が大きくなり、人同士の距離は離れ、個々人の顔は見えにくくなり、信頼は蓄積され難い。労働は細分化された役割や機能へと切り分けられるようになる。意味や判断が個人から切り離され、全体を統一的に把握することが難しくなっていく(こうした近代社会像は、マルクスの労働疎外、ヴェーバーの官僚制、リオタールの「大きな物語の喪失」などに見ることができる)。
社会や組織が肥大化するに従い、私たちは個別と全体の間に生まれる軋轢に直面する。個々の持つ専門性・個性・倫理、そこから来る判断は尊重されるべきでありつつ、それらを考慮して全体を動かすことが難しくなっていき、抽象と具体、上部構造と下部構造、管理と実践、が、分裂していく。指標測定は、この断絶を埋めるための代替装置として登場した。顔の代わりに数値を、信頼の代わりに基準を、物語の代わりに達成率を。そうしてはじめて、巨大な世界を遠くからでも効率的に動かせるようにする。これは、近代社会が生み出した合理的な発明であった。
近代社会を円滑に駆動させるという困難なプロジェクトにおいて、全体と個の橋渡しとするという重要なミッションが、指標には負わされている。そして、人類は何度もこのプロジェクトに躓き、指標測定は課されたミッションに幾度となく失敗をし続けてきた。Mullerは、この様子を繰り返し描いている。
パトロン|指標の後援
ー近代化の不安と指標という処方薬
人々が指標に頼るようになった大きな動機は、『不安』にある。近代化は、人々に不安ーあるいは、分からなさーをもたらし、これが指標が人類と深い共犯関係を形勢するうえでの、強力なパトロン(後援者)となった。具体的に見てみれば、そこには3通りの後援者がいる。
1. 人に対する不安(信じきれない)、2. 行為に対する不安(仕事の中身が見えない)、 3. 構造に対する不安(全体がわからない)である。
トマス・ホッブズが「Fear of violent death is the foundation of political order.(人は死への恐怖によって、国家を作った)」と書いた通り、人工的な制度の裏には、人間の畏れが潜んでいる。
信じきれない - 不信感
知らない会社に融資するなら、現預金と事業・財務の指標を提出させる。信頼できない相手に買い出しを頼むなら、必ずレシートを見せるように言いたくもなる。顔が見える社会から、相手が匿名的・知らない他人、が当たり前の社会になると、人々は客観的・定量的な判断基準に依存するようになる。「わからない」相手に対する警戒心、人間の本能的な反応である。
組織が一定規模を超えると、経営者は現場の仕事を直接見ることができなくなる。大きな国家では、市民は政治家が正しく仕事をしているか、絶えず不信感を持っている。経営者は、個々の善意・信頼だけを前提に、大きな意思決定をすることに恐怖を感じることになる。市民は、より信頼できる方法で政治家の仕事ぶりを証明してほしいと言う。その結果、「仕事の成果は誰でも明白に確認できる形で提示すべし」というプロトコルと社会コンセンサスが生まれる。指標はこのニーズ埋めるために、最高の装置である。
その結果、世界はどんな小さな買い出しにも、『指標』という名のレシートの提出を求めるようになった。
仕事の中身が見えない - 責任の解体
1776年、アダム・スミスは「国富論」の中で分業の有効性を問いた。スミスによると、かつて職人がひとりで行っていたピンの生産は、18の工程に分解し、10名程度で分業することで、生産性を飛躍的に向上できるという。
1910年初頭、フォード社でフレデリック・テイラーの科学的管理法による徹底を実施したのを皮切りに、世の中は加速度的に分業化が進んでいる。
組織内で、仕事が高度に専門化・細分化されていくと、上司や経営者は各担当者の活動の実体が、日増しに見えづらくなる。管理者は、分化した専門性を充分に理解できないこともあり、分業が進むに連れ、不透明は尚のこと強まる。同時に、全体の一部品に過ぎなくなった各作業者は、最終的な成果物には責任を持て(持た)なくなる。見知らぬ10名の作業員の、良識だけに頼って生産されたピンの品質を信用できるだろうか。少なくとも、その工場には、銀行から借金をして集めた、多額のお金を投資する気にはなれないのではないだろうか。
指標管理は、こういった状況を客観的に把握する助けとなる。指標は分業によって失われた可視性と責任負担を回復させ、不安を和らげてくれる。
全体がわからない - 俯瞰図の喪失
経営者は、その企業の全てを直接体験することはできない。社員が5名の工場(こうば)であれば話は別だが、近代化は何千人という巨大な組織の形成を可能にした。結果、管理者にとって、実感を伴って見えるものは全体の僅かな断片になり、それ以外については、実体験以外の圧縮された何らかの情報で補う必要が生じる。やがて、会社はいまどうなっているのか、という問いに、確信を持って答えることが難しくなる。しかし、全体像を把握をせずに会社の舵取りなど考えられない。そこに大きな不安がつきまとう。
不安への対抗手段として、指標や、その集合である経営ダッシュボード等が整備されていく。指標とは、複雑で巨大な現実を、経営者の机の上に乗せるためのミニチュア模型だ。世界を売上・利益率・成長率といった単純な数値に圧縮し、誰でも把握が可能なビット値に押し込める。
しかし、地図を見ただけでその街のことを本当に理解していると言えるだろうか。Google Street Viewであれば(地図よりは現実に近い情報が多く載っている)、それを以って街の現実を把握できたと、言っていいのだろうか。
プロミス|指標の約束
ー指標という薬のパッケージに書いてあること
指標は、近代社会の不安への処方薬の役割を期待されている。しかし、何故にこの薬は、社会の広くから支持されるようになったのだろうか。
世に広く愛される多くのサービスブランドは、「ブランドプロミス」を持っている。マクドナルドであればーーおいしさと笑顔 快適なひとときを すべてのお客様に、だ。
プロミスとは、その言葉通りブランドがその対象顧客に提供する価値についての「約束事」である。この約束事が、消費者の求める価値観と一致しているからこそ、そのブランドは広く愛される。
『指標』という流行りのブランドには、どのようなブランドプロミスが刻まれていたのだろうか?見たところ、その約束は次の5つに集約して整理できそうである。
経済学理論のお墨付きである
指標測定は、理論的な後ろ盾を持っている。1970年代に経済学者のスティーブン・ロスらが理論化したPrinciple=Agentモデル(The Economic Theory of Agency: The Principal’s Problem.)は「なぜ測定が必要か」を、合理の帰結として理論化し、経済学・経営学の中で広く受け入れられてきた。このモデルでは、組織における上司(Principle)が、実務者(Agent)の行動を直接観察できないとき、観察可能な成果を測定し、それに報酬や評価を結びつけて管理することが合理的であるということを、理論的なひとつの解として説明する。
専門家より信頼できる
Mullerによれば、測定主義の隆盛の裏には専門家への不信があるという。医療や教育などの分野では、部外者からは客観的には見えづらい、現場の個別の判断が要されることが多く存在する。しかしながら、それは外部から見ると、標準的な基準のなさ、合理性の欠如に映ってしまう。やがて、専門家の良心に依拠した個別判断よりも、客観的な存在=指標を頼りにしようとなっていく。その背景には、消費者が自身の判断で物事を選択できるべき、という時代的なイデオロギーがあることを、Mullerは添えている。
測定すれば改善できる
測定と改善は、極めて近い関係にあるとされることが多い。Mullerは、『測定できるものは改善できる』という妄信が現代にはあるという。これは、物理学者ケルヴィン(実際は誤り)の「測定できないものは改善できない」と、経営者トム・ピーターズの「測定できるものは実行される」という信条が結合・発展した結果だと言う。
数値を測ることは、状況を把握し、手を打とういう証左だと見做される。これは、経営者等の管理の立場の人間にはありがたい話である。少なくとも、「放置しているわけではない、無策ではない」と言うことができる。不安に直面したとき、「まず測ろう」と言えること自体が、あたかも前向きで責任ある態度と同一視されるという、トリックがある。
説明責任を果たしていると主張できる
近い話だが、指標は「説明責任」とも蜜月関係にあるようだ。Mullerは1970年代のアメリカを参照し、ベトナム戦争とウォーターゲート事件後の政治不信の世論環境が、政策の正当性を数値や指標で示すことで「説明」を補強する動きが強まったとしている。数値は便利な役割を果たす。政策を指標で公表することで、市民の不安を和らげると同時に、政治家自身の信頼を守る。価値判断を伴う政策の意味と是非を語る代わりに、達成率や成果指標を提示する。我々は透明だ、すべてを公開している、説明責任を果たしているー。
意思も専門性もなくても決定できる
指標は、「判断の重さ」から人を解放してくれる。数値は客観的で、中立で、公平であると見做されがちだ。つまり、「私が決めた」のではなく、数字が示している、これはフェアな判断だ、言うことができる。自身の意思を込めたポジション、それに伴う対立・責任を回避し、判断の理由を外部化する。Mullerはこれを「客観性の幻想」と呼んでいる。特に米国では、企業が本業の分野のプロではなく、管理の専門家としてのプロ経営者がメインストリートにいることから、彼らの、マッキンゼー等の経営コンサルタントの重用もあいまって、指標測定が専門知を補完するものから、専門知を置き換えていくという転回を示している。
トラップ|指標の警告と罠
ー それは思ったとおりには動かない
以上に挙げたプロミスは、不安という敵を抱えた近代人にとって、よく刺さりそうに思える。これらのしかし、指標測定という方法論は社会や企業を運営する上で決して万能でない(読者の多くは承知の通り)。それどころか、誤った認識のされ方、誤った使われ方によって、望まぬ結果を産んでいることも多い。指標に関しては、有名な2つの法則がある。
指標が目標になった瞬間、その指標は良い指標でなくなる
When a measure becomes a target, it ceases to be a good measure.
測定が意思決定に使われるほど、それは測ろうとしていた現実そのものを歪めていく
The more a quantitative indicator is used for decision-making, the more it distorts the process it is meant to monitor.
既に確認した通り、指標には「現実の縮減」という役割を期待されている。それは、多くを統べる必要のある、政策や事業の責任者が、自分では把握しきれない現実を消化可能なように切り取るための技術である。そして、彼らが行いたいのは、その把握の先にある「意思決定や実行」であるはず。しかしながら、それらを行おうとすると指標は過ちをもたらすという。なぜそのようなことが起こってしまうのだろうか。
バイアス|指標の歪み
ー 模型だったはず指標が現実を歪める
指標が生み出す問題について考える。指標は、集団の複数のOSレイヤーに巧みに、順番に入り込み、組織の動作原理そのものを書き換えていく力を持っている。そのレイヤーを、認識→判断→行動→責任→意味と分け、それぞれに指標がどのような歪みを与えるかを考察する(しかしながら、この認識→判断→...は相互に連なっており、完全に分離できるものではない。そのため、このあとの記述では、あるレイヤーについての説明は、その前後のレイヤーの事象と不可分であり、区切って読むよりは連続的な流れとして理解してほしい)。
認識の歪み
指標による制御が導入されることで、組織の構成員の関心は自然と『測れるもの』に集中し、その代償に、測定しづらいものは脇に置かれる。問題となるのは、測れることは、それが必ずしも価値あるものとイコールではなく、むしろ、本質的で長期的な価値を生むものほど、測定が難しいというジレンマである。監視できる・比較できる・他人に説明できる、という長所ゆえに、測れるものは非常に魅了的である。測れないものを扱いたい場合は、その逆ーー監視が難しく・説明に時間がかかり・責任を求めづらい...等といった各種の困難を乗り越える努力が必要になる。これは容易ではない。
街灯の下で何かを探している人がいるー通りがかりの人が尋ねる。「ここで落としたのですか?」と。すると、当人はこう答える。ーー「いいえ。でも、ここが一番明るいので」
人は見えやすいという理由で、そこへの執着を強める。
これは『認識の歪み』である。
GDPと認識の歪み
国内総生産(GDP)は、1930年代に、国の経済活動を把握するために開発された、世界的にも有名な指標である。GDPは、ある国で、一定期間に生み出された財やサービスの付加価値を足し上げて計算する。しかし、何を合計の対象に含めるかについては、測定の実現性が設計時に加味されているため、家庭内の家事(育児や介護、掃除)・地域での助け合い・無償のケア労働といった活動が含まれず、また環境や資源への影響・不健康をもたらす経済活動などへの配慮もされていない。仮にそれらが社会にとってどれだけ重要であったとしても、国家がGDPを重んじて運営する限り、社会はそこから目を背ける可能性が高くなる。その時、指標は世界の正しい認識を歪めている。
拙稿:その指標は何を見逃しているか?ーBeyond GDP
判断の歪み
指標が、組織の認識の歪みを生むと、次に『判断』 が影響を受ける。指標は本来、定式化・言語化が難しい専門的判断を支える、補完的ツールとして使われることが望ましい。現代社会で多くの専門性が高度に絡む判断は、単純な数値で完全代替できるものではないからである。しかし、指標が「認識という、組織にとっての地図」を握ってしまうと、徐々に専門家の補完材料という座に大人しく座っていることが難しくなる。判断の重心が指標に移っていくと、専門性や暗黙知に基づく現場の判断は、軽んじられるようになり規格化・標準化・共有できない、ブラックボックスとして、指標至上主義の前で批判の対象とまでなりえるのである。やがて、専門知+指標(データ)でなされていた判断が、データによる判断に変わる。Mullerが呼んだ通り、The Tyranny of Metrics(指標の専制)である。
行動の歪み
判断の基準が指標への適合に置き換えられると、組織の行動もまた、その基準に合わせて変化する。数値が持つ明確な基準が人を駆り立てられ、組織はそこに資源と時間を集中させるようになる。言うまでもなく、指標とは何らかの目的を達成するためのツールに過ぎないはずである。しかしながら、指標は次第にそれ自体が自己目的化していく性質を持っている。
健康で美しくありたかったはずの人が拒食症になるところを想像してみればよい。体重という指標に執着し、その数値は順調に下がっていったが、とうに適正体重を割っても食事を口にせず、食べたものは嘔吐するという行動は、明らかに当初の目的を大きく逸脱している。そこには、単に認識と判断が歪んだだけでなく、『現実の行動が歪んだ』ゆえの帰結がある。
ウェルズ・ファーゴと行動の歪み
アメリカの大手銀行ウェルズ・ファーゴでは、長年、「顧客一人あたりの口座数」を重要な業績指標として用いていた。多様な商品を提供することで、顧客満足度と収益性の双方を高めると考えられていたからである。問題は、行員が徹底的にこの指標によって評価され、昇進や雇用の安定を握られていたことである。やがて一部の行員は、顧客の同意なく口座やクレジットカードを開設するという、不正行為に手を染めるようになる(この行動は後に大きな社会問題に発展し、CEOは辞任に追い込まれる...)。
不正行為を用いるという倫理の欠乏はあったものの、骨組みだけを見てみれば、経営陣は顧客に自社を愛してほしかっただけであり、行員は与えられた指標を最大化するために合理的な方法を取っただけである。全ての登場者が自分なりに最大限の合理性を持って行動し、その総体として大きな失敗をした。
責任と意味の歪み
次に『責任』の問題が浮上する。誰が、どの判断を下し、その結果を引き受けるのか。指標測定は、しばしば説明責任(=Accountability, 奇しくも数えられること、から来ている)や透明性と結びつけて語られる。達成状況を数値で示すことは、誠実に責任を果たす態度として捉えられる。しかし、指標が説明の中心に据えられると、説明は行われているのに、判断を引き受ける主体が見えなくなるという問題が生じる。その結果、人は元々の『意味』を見失うことになる。指標は、行為の結果を確認する道具ではなく、攻略すべき条件を示すルールブックへと変わる。
ゴスプランと責任・意味の歪み
1920年代のソビエト社会主義共和国連邦では、国家計画委員会ゴスプランによって生産・配分が完全に計画され、その計画達成を目的として国家を運営する、計画経済が実施された。しかし、ゴスプランが注視し続ける数値は、現実の縮小版としては機能しなかった。釘の生産に「総重量」という目標を課せば、巨大すぎて実用性のない釘が量産される。指標が「総本数」に切り替えられれば、極端に小さく、これまた実用に耐えない釘が作られる。どちらも紙上で数値だけ見れば、計画は達成されたが、誰ひとり、何のために釘を作っているのかは考えていない。
サマリー|小括
ここまで、大きく5つのことを確認してきた。
1 指標の測定という技術(あるいは思想)は社会の近代化という構造から生まれた。誰かが思いつき、偶然広がった一時的なミームではなく、世界の変化に対する必然として要請された、近代社会への対抗手段である。
2 指標は近代社会が持ち込んだ『不安』への応答として現れてきた。社会の規模の拡大・匿名化・分業化は、人々から現実的な・身体性を伴った世界の理解を不可能にし、それは不安をもたらした。
3 それに対する対応策として、指標測定は、現実世界を単純化した、縮尺模型としての役割を期待されている。それは、世界の複雑さ・豊かさ・文脈を切り捨て、扱える形に縮減し、現実との距離がある人間に対しても、管理可能性を与える技法である。
4 指標という薬のパッケージには魅惑的な文言が並んでいる。
5 複雑で豊かな世界を単純化するという強力な効能の代償に、指標が組織の中で、認識・判断・行動・責任・意味を歪ませ、数々の望まぬ帰結を産んでいる。
この記事ではごく一部のみを紹介したが、その他、教育・医療から、軍部・国家、企業、NPOにいたるまで、指標を使った過ちのケーススタディは、『測りすぎ』の中にところ狭しと並んでいる。キャンベルとグッドハートの「だから言っているだろう」という声が聞こえてきそうである。
スタンス|指標の姿勢
ー指標に失望する前に
ではどうすればよいのだろう?
まず、最も重要な点に触れたい。指標がうまく機能しないのは、ごく自然なことである、ということを押さえて必要がある。経営者やデータ関係者では、指標との付き合い方に悩んでいる方も多いと思うが、それは大部分があなたの力量だけの過失ではない(データ界隈の一員としてのポジショントークを抜きにしても)。
ここまで読んだ方は、それは、人類が必然的に悩まざるを得ない、構造的で困難なイシューであるということを、多少なりとも確認できたと思う。あなたは、全体と個をつなぎ機能させるという、人類が未だ解決策を出せていない、偉大なプロジェクトの最先端で途方に暮れている。
測りすぎという名著を読み、この記事を書くことで、指標という存在への構造的な理解は深まったという確信がある。また、指標というものについて、私自身には現実の身体性を伴った、数多くの経験がある。それらの背景を動員し、指標という方法論が失意のバケツに完全に投げ込まれる前に、指標が真に世界を良くするという希望と、そのために我々に必要とされる態度について、少しばかり、散漫な展望を書いてみたいと思う。
不安を認める
スタートとして、この記事で見てきた、指標が持つ"構造"を受け入れることは極めて重要である。繰り返し言及してきた通り、指標の存在の裏側には『不安』という、人間らしい要因がある。この事実を正面から受け止める必要がある。
指標を「使われる」側は、なぜ自分たちが数値で管理されなければならないのか、不満があるだろう。指標の裏をかいて、不正やハックによって、見せかけの数値を操作したくなるかも知れない。ここまで読んでくれた方はそれが、倫理観の欠如ではなく、人間のごく自然な反応であることを理解しているはずだ。管理者ーー指標を使ってくる種族が、社会の構造によって『不安』という怪物と、不本意に対峙させられていることを忘れてはならない。彼らが指標という無機質な装置を介したコミュニケーションだけに頼らないにするために、できることはないだろうか。自分たちの専門性と現場の判断を認めさせるために、足りていないものはないだろうか、信頼がないのは管理者だけのせいだろうか。
指標を使う側は、自分がどのような不安に駆動されているかを、理解し、認めること。指標は現実を正しく見つめるものとして設計されているだろうか。忙しさを言い訳にして、紙の上だけで考えていないか?数値の洞察と現場の意見が食い違う場合、後者を軽んじていないだろうか。それは現実の世界を理解する上で、果たして正しい態度だろうか。不安に負けて、指標の魔力に操られていないだろうか。
指標は、人間と集団の調和のために生まれた。どこどこまでも、「人間」という守護を見失わないことが重要だ。数値という無機物ではなくー。
場を見極める
自分自身の経験から、力を込めて補足しておきたいのは、指標に対する反応は、組織によって大きく異なるということだ。左辺には、指標を丸呑みしてしまう指標至上主義の組織が位置する。事業特性によっては、こういった方針がうまくいく場合もあるが、『5つの歪み』で見てきたように、指標の罠にとらわれる危険性がある。一方の右辺には、指標に対して強い警戒心を持つ組織がある。指標やデータに対して極端に距離を取り、警戒心を剥き出しにする。
私の経験した環境では、日本政府は圧倒的に右辺であり、株式会社メルカリは、右辺と左辺の中間に位置する。指標が本当に意味で機能するのは、(メルカリのように)ちょうど中間にいる組織だろう。
拙稿:データをどう使うか?ーメルカリでの学び, デジタル庁の挑戦
この位置取りは、営む事業の特性によって、その大部分が規定される。日本政府が指標に対して警戒心が強いのは、その事業の特性(国民幸福などの定量化できないものを見据えている、事業変数が多すぎる、市場原理がない環境で、現場の力が強い 等)が強く影響している。決して官僚が怠慢というわけではない。その証左として、組織が垂直統合的で定量的な目的が明確である国税庁などはデータに強い文化を持っている。一方で、統制が水平分散的で、現場(団体)の専門性がものをいう医療分野=厚生労働省、成績等の定量化しやすい指標のみを追うことで本質を失うことの違和感が強い教育分野=文部科学省などは、指標管理に対する警戒心が比較的強い(ただし、医療分野は元々EBMなど実証文化が強く、また理系の職員も多いため、厚生労働省は指標への興味は強い)。
メルカリはCtoCビジネスで、事業構造がシンプルであり、また、ネットワーク外部性が他のビジネスであるため、ある程度規模の拡大を愚直に追ったとしても、さほどセンターピンを外していない。しかし、グループ会社でも、toBの要素が絡むメルペイにおける指標策定の戦略は、また大きく異なる。
翻って考えるに、指標が正しくワークしうるかどうかは、指標を根付かせようとする個人の努力よりも、どういった事業であるか、のファクターのほうが大きい。指標の設計や普及戦略について研鑽するよりも、自分が関わる事業と指標測定のフィッティングについて、まず、深く洞察する必要がある。これは私自身の経験から、断言できることの重要なことの一つである。指標策定や管理方法の巧拙以前に、ここを外していれば、九分九厘うまくいくことはない。
指標と相性が良くない組織では、努力が報われないことが多く、また、忍耐の結果成果が出るとしても時間が掛かる。自身が、どのような特性を持った事業組織に座し、どの程度の時間軸で挑んでいくのか、冷静に確認することを忘れてはいけない。
精緻でシンプルな縮尺模型を目指す
指標を使うのであれば、その指標が、当初のその目的である通り、できる限り正しく『現実世界の縮尺模型である』ことを志す必要がある。これを達成するためには、2つの基準のトレードオフの中で針の穴を通すような最適点を見つけ出す必要がある。それは、①現実をなるべく保つ ②可能な限り情報を削ぎシンプルにする、の相反する2要素だ。①を重んじ過ぎれば、指標は複雑に多数になっていき、やがて管理を放棄されることになる。この①②のバランスを取ることは決して簡単ではないが、しかし、それは可能であると考えている。
似顔絵を描くことを考えてみてほしい。少ない線の数でも、本人の特徴をよく捉え、その人にしか見えない似顔絵を書ける人がいる。一方で、同じ線の数を使っても、単に目と鼻と口があるという、一般的な人の顔以上のものにならない絵しか描けない人も多い。むかし、hydeがミュージックステーションに出た時に、タモリの似顔絵を書いていたことがある(私は中学生時代、ラルクの大ファンだった)が、最低限の線を使った極めてシンプルな描画にも関わらず、それはどう見てもタモリだった。なぜそんなにうまく書けるのか、と訊かれたhydeは「才能ですかねぇ..」と言ってスタジオを白けさせていたが、才能の要素があるにせよ、それは魔法ではなく、技術であることには間違いない。
拙稿:戦略と実行をつなぐデータ
おそらく、hydeをはじめ、似顔絵の上手い人は『観察眼と抽象化力』に優れていると推察できる。ビジネスや政策も同じである。良い指標は、現実の観察と、研ぎ澄まされた抽象化から生まれる。つまり、良い指標を創るためには、最低限、二種類の訓練が必要である。現実(現場)を観察し、理解するための、熱意と関心と忍耐力とコミュニケーション、そして、適切な抽象化を行うための繰り返しの訓練が必要である。
ここまでの長文を読んできた方は少ないだろうと油断して悪態をつくが、データや管理企画、コンサルタントといった指標を生業とする界隈には、抽象化能力は多少高いが、現場と現実世界の観察力(もしくは興味、観察の必要性の理解)が極端に低い、といった程度の人材が多いように思う。そして、現実を知るための努力に対して無頓着であれば、こういった人々はきれいなレポートや、ややこしい計算モデルを作ること以外に、特段、役に立つことはない。そこに、指標という市場の闇がある。
指標を扱いたいのであれば、現実に関心を持ち、理解するため、そしてそれを適切なレベル・最小公約の切面で抽象化するための、訓練を常に怠ってはならない。
一緒に作る
外部から観察するだけでなく、指標を「一緒に作る」ことも失敗を避けるために有効である。指標は、対立するAとBーー経営と現場、管理者と専門家、抽象と具体、組織と個 などーーの間に発生する。よく見られる失敗は、Aが指標を密室の机の上で勝手に作り、それをBに押し付けることだ。すなわち、現実から極端に切り離された場所で、分析者や管理部門が数値を設計し、現場に降ろす構図である。このとき、指標は現実の縮尺模型ではなく、現実を矯正するための非現実的な鋳型になりやすい。現場は、なぜこの数値なのか、に反発し、管理者は、数値が示した通りに動かない現場に苛立つ。結果、認識の断絶が生まれる。
一方で、事業解像度の高い担当者と分析者が同じテーブルにつき、同じ問いを共有しながら指標を作れば、状況は好転する。
現場の担当者(専門家)の現実的な知見に基づいて、より現実世界を正しくキャプチャした指標を検討することが可能になる。共創することで、測定可能な現実と、測れないものを区別し、数値が持つ意味と限界を関係者が相互に理解した、共通の地面から始めることができる。指標は命令ではなく、対話の媒介物として機能するはずだ。とはいえ、控えめに言ってもこの手の作業は面倒で、迂遠に感じられるだろう。私もそうした作業に従事し(むしろ、デジタル庁ではそれこそが主たる仕事とまで言えそうだ)、議論の進まなさや手戻りに憔悴することは多々ある。しかし、そうして予め汗をかいたことが、後々の自分たちを救う。
拙稿:Simple Data Analyticsで成果を出す
指標は、マーシャル・マクルーハンの定義する『熱いメディア(情報密度が高く、受け手の参加余地がない、一方的)』になりがちである。指標は、現実を理解するための共同制作物であるべきだ。異なる専門性と視点を持つ人間が、同じ現実を別の角度から眺め、そのずれを擦り合わせるプロセスそのものが、指標の質を高める。
ビヨンド|指標のその先
ー 幾分抽象的で、大事な余談
指標をどこで使うか
書籍「測りすぎ」に登場する数多くの事例では、主に管理・評価・正当化を目的とするための道具としての指標が描かれている。それは妥当である。以前に専門職のプロダクト・マーケット・フィットという論考で書いたように、数値やデータの使い道の多くが、『監視, モニタリング』に重点を置いている(経済学がその知見から、Principle=Agentモデルで描き出したものだ)。
だが、もっと別の使い道も展望できるかも知れない。
私が注目しているのは、課題設定(アジェンダ・セッティング, Agenda Setting)に果たす指標やデータの役割である。私が就職活動期を過ごした2000年代の初頭は、ロジカル・シンキングが流行し、ロジックツリーとデータを用いた、課題整理と課題発見のスキルの重要性が謳われていた時代だった。その後、エンジニアリングやデザインシンキングの隆盛によって、課題解決(DTは課題発見の方法論でもあるが)の領域の発展が現れる。これらの時代を通した、課題発見と課題解決のスキルの普及、関連する知識と人材の陳腐化、またArtificial Intelligenceの台頭などもあり、今後、人類が担う役割の価値の重心は、『課題を定めること、その課題を組織に浸透させること』により移っていくと予想する。この営みと指標とは非常に相性が良いと考えている。

指標という道具は、アジェンダ・セッティングと明確に相性が良い。真に目を向けるべき課題を指し示すだけでなく、集団の認識を統一し、結束を固める。在籍していた株式会社メルカリでは、幸運にもそういった光景を幾度か目にすることができた。指標を上手く設計し、組織に伝播させることで、組織が向かうべき課題を共通の目標として定め、推進力を強く持てた。いま挑戦しているのは、日本政府というフィールドだが、政策や社会の指標が国のアジェンダ・セッティングに関わるポテンシャルを持つことに、強い確信を持っている。
このパースペクティヴに興味がある方は、本気で解かれるべき課題を創るーあるいは、アジェンダ・セッティング を参照してほしい。
ソフトなビジョン、ハードなビジョン
漫画「キングダム」で、法律の専門家の李氏は『法とは願いであり、国家がその国民に臨む人間の在り方の理想を形にしたものである』と云い放った。この台詞は働き方改革の真髄である、と云った記事もあったが、私は李氏の考えに賛同する。法という言葉と願いという言葉は、一見遠いように感じられるが、この思想は的を射ている。法とは、集団のありたい姿をルールとして表現した、冷静な顔付きをした「願い」である。
指標も同様である。
指標や法とは、集団のビジョンの、ある側面の断片であり、凝縮された結晶であり、具体的な実装方法である。
拙稿:よいKPIを考えるうえで重要なこと
近年、企業や組織がミッション、パーパス、カルチャーといった概念を改めて強調する潮流を感じる。本記事の議論と接続して考察すれば、これらの運動は、(指標がその破壊に加担している)組織内で失われがちな『意味』を、回復するための方法論と読むこともできる。
しかしながら、指標・法・パーパス・ミッション、どれをとっても、究極的な目的は同じである。全体と個の間に橋を渡し、集団をうまく動かし、全体を幸福にすることだ。私は、データや指標を長年扱い、これらの仕事を愛しているが、同時に、昔から組織のミッションやビジョンにも強い関心があった(一番好きなミッションは Make a simpler world. ーよりシンプルな世界をつくる, 過去のDropboxのもの)。このふたつは全く別のものではなく、どちらも集団にとってのビジョンの異なる断面であることに、気付くまでには少し時間がかかった。ただ、それらはその特徴や機能から、2つに分けて考えた方が良さそうだ。
逆に、指標(、法など)は、定量的・客観的で、地面のように形を持ち、固く、具体的な、『ハードなビジョン』である。故に具体的で強い影響力を持つが、ここまで見てきた通り、その力ゆえに、執行レイヤーで具体の歪みを起こしやすく、気を付けなければ制御が難しい。
Purpose / Mission / Cultureなどは定性的・主観的で、空気のように柔らかく、抽象的な、『ソフトなビジョン』である。普遍的で、包容力を持つ一方で、具体性と厳密性を押し付ける力に欠け、統率力の強さにはムラがある。
このふたつは、集団を統治する上で、補完関係にありそうだ。指標やルールは、具体性が強いがゆえに、強制力が強く、統制的で、反感をもたれるとハックされやすく、歪みを生む。ソフトなビジョンは、幅があり、柔らかく、自発性と共感を促す。現代では、集団には、ソフト/ハードの双方のビジョンが必要である、と考える。子には、母と父の両方の役割が必要である(ソフトなビジョンはより母性的で、ハードなビジョンはより父性的であるかもしれない)。
指標を扱うものに要求されるのは、数値を扱うための技術以上に、「そこに集団のいかなる願いを込めるか」を問う態度である。その意味では、指標を考えるものは、併せてソフトなビジョンにも思いを馳せるだけのリテラシーが必要であろう。同時に、「数値にどう正しく現実を込めるか」を追求する必要がある。そのためには、人間の不安を理解し、周囲の人と対話しながら進める姿勢が欠かせない。
集団と不安、そして、願い。平板な数値やモデルではなく、これらの極めて人間的な要素に想いを巡らせるだけの想像力と優しさ、ビジョナリーとしての目線、これらこそが近代の集団で指標を扱うものに課された倫理である。
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