製薬マーケティングとは——医師が薬を処方するには何が必要なのか #23
このシリーズのラインナップは→ 第1回の記事でご確認いただけます。
ここまでのシリーズで、薬は価値を測られ(記事19)、価格がつき(記事20・記事22)、保険でカバーされて「使える薬」になった(記事21)。
だが、もう一つ関門が残っている。処方だ。
承認も、価格も、アクセスも越えた。それでも、医師が「この患者に、この薬を」と判断して処方しなければ、薬は売上につながらない。最後の分かれ目は、処方の現場にある。
この処方判断を支え、自社の薬が治療選択肢となる理由を医療現場に伝えるのが、製薬マーケティングである。
ただし実際には、価格・アクセス・処方判断は互いに影響し合う。ここでは理解のために、最後の関門——医師の処方判断——に絞って見ていく。
医療用医薬品では、薬を使うのは患者だが、処方を判断するのは医師である。
さらに、費用の多くを負担するのは保険者であり、医療機関の採用方針も使用に影響する。
つまり、医療用医薬品は、薬を使う人、選ぶ人、費用を負担する人が同じではない。
ここに、一般消費財とは違う製薬マーケティングの難しさがある。

製薬マーケティングは、単に薬の名前を広める活動ではない。
それは、自社製品が選ばれる理由を整理する商業活動であると同時に、厳しい規制のもとで、薬の価値・対象患者・使いどころ・限界を、科学的根拠に基づいて医療現場に伝える活動でもある。そのうえで、適切な患者に届く状態を作る。
まずは、このように捉えるとわかりやすい。
製薬マーケティングは「使いどころ」を伝える仕事
マーケティングというと、製品、価格、流通、プロモーションといった枠組みで考えることが多い。
しかし、医薬品では、企業が自由に設計できる範囲は限られている。
企業がプロモーションで訴求できる内容は、承認された効能・効果や用法・用量、科学的に裏づけられたデータに制約される(承認時に十分に示せていなかった価値が、市販後の研究で後から明らかになることもある)。
価格は、薬価制度、保険償還、費用対効果、保険者との交渉に左右される。
プロモーションも、承認された範囲内でしか行えない。
言えることは、基本的にエビデンスに基づいていなければならない。
医療現場に必要な情報を届けながらも、未承認の効能や承認範囲外の使用を促すような伝え方は避けなければならない。
なお、誰に向けて情報提供できるかも国によって異なる。米国では、患者に直接訴えるDTC広告(Direct-to-Consumer)が、Fair Balance(有効性とリスクを公平に示す)などの規制のもとで認められ、処方薬の需要喚起の一手段になっている。
一方、日本では、医療用医薬品の一般消費者向け広告は原則として認められておらず、情報提供の相手は医師など医療関係者が中心になる。ただし、疾患そのものを知ってもらい受診を促す疾患啓発まで一律に禁止されているわけではない。もっとも、特定製品の販売促進を期待して行う場合は、販売情報提供活動として規制の対象になりうる。
そのため、製薬マーケティングで中心になるのは、「どう売るか」よりも、次の問いである。
この薬は、どの患者に、どの根拠で、どのタイミングで使うべき薬なのか。
その答えを、承認された範囲と科学的根拠に基づいて一貫して整理したものが、製品のブランドメッセージである。
そして、医師や医療関係者が、その情報をもとに適切に判断できる状態を作る。
それが、製薬マーケティングの中心的な役割である。

事例:ハーセプチンとHER2検査
製薬マーケティングの役割を考えるうえで、わかりやすい例がハーセプチンである。
ハーセプチンは、すべての乳がん患者に使う薬ではない。
対象となるのは、検査でHER2タンパクの過剰発現またはHER2遺伝子の増幅が確認された、HER2陽性の乳がん患者である。
つまり、この薬の価値を届けるには、単に「乳がんに効く薬です」と伝えるだけでは足りない。
必要になるのは、
HER2陽性という患者集団を理解してもらうこと
検査やコンパニオン診断によって対象患者を見つけること
どの治療段階で、どの患者に使うべきかを示すこと
有効性だけでなく、安全性や限界も伝えること
である。
ここに、薬だけでなく、検査と診療体制まで含めて価値を届ける製薬ビジネスの特徴がある。
その薬が価値を発揮する患者を見つけ、医師が科学的根拠に基づいて使いどころを判断できる状態を作る。
ハーセプチンは、そのわかりやすい例である。
個別化医療が進むほど、この視点は重要になる。
薬そのものだけでなく、バイオマーカー、検査、治療ライン、既存治療との違いまで含めて、価値を伝える必要があるからだ。
医師が新薬を受け入れるまで
薬の価値が臨床試験で示されても、それだけで処方が広がるわけではない。
医師が新薬を使うまでには、いくつかの段階がある。

認知:その薬や治療概念の存在を知る
例:HER2陽性乳がんのように、「どの患者群を対象にする薬なのか」という考え方が医療現場に広がっていく。理解:製品の特徴と、臨床試験で示された科学的データを理解する
例:PFS(病気が悪化せず生存している期間。進行または死亡までを見る)の中央値が既存治療と比べてどれだけ長かったのか、安全性上どのような注意点があるのかを読み解く。指標の読み方は番外記事で詳しく扱った。信頼:データの質や安全性を確認し、専門家の評価も踏まえる
例:主要学会や論文での評価、専門医の解釈を踏まえ、臨床現場で使えるデータかを見極める。判断:既存治療や患者背景を踏まえ、目の前の患者に使うべきかを判断する
例:この患者では、既存治療を続けるべきか、新薬に切り替える理由があるかを考える。
この流れを、企業のマーケティング、営業、メディカルアフェアーズが、それぞれ異なる立場から支えている。
情報を届けるだけでは足りない
新しい薬や治療概念は、学会、論文、診療ガイドライン、専門医コミュニティを通じて、少しずつ医療現場に広がっていく。
その過程では、専門領域で影響力を持つ医師や研究者、いわゆるKOLの解釈が参考にされることもある。
また、承認前後には疾患啓発も重要になる。
まだ診断されていない患者が医療につながる。
医師が疾患や治療選択肢を理解する。
必要な検査や診療導線が整う。
特にバイオマーカーに基づいて使う薬では、対象患者を見つけるための検査体制も欠かせない。
医師が薬の価値を理解していても、必要な検査が行われなければ、その薬が合う患者を見つけることはできない。
製薬企業の活動は、情報を届けるだけではない。マーケティング、メディカルアフェアーズ、市場アクセスなどが連携し、対象となる患者が見逃されず、必要な検査と診療につながる環境を整えていく。
コマーシャルとメディカル——MRとMSLの役割分担
医師への情報提供は、一つの部門だけで行われているのではない。製薬企業の中でも、目的とルールの異なる役割に分かれている。
MR(医薬情報担当者)は、主に営業・コマーシャル部門に属し、医師や薬剤師などに対して、承認された範囲内で製品情報や適正使用情報を提供する。
MSL(メディカルサイエンスリエゾン)は、専門医や研究者と科学的・医学的な情報交換を行うメディカルアフェアーズの役割だ。営業部門から独立し、販売促進を目的とせず、売上目標で評価されない——これが業界の基本的な考え方とされている。MRとMSLを混同しないことが重要だ。
なお、薬が採用・償還され、実際に患者へ届くまでには、医師個人だけでなく、医療機関や払い手との関係も効いてくる。ただしこの「払い手を動かす」仕事は、本シリーズでは市場アクセス(記事21)として別に扱った。本記事のマーケティングが相手にするのは、あくまで処方を判断する医師・医療現場である。
このように、薬の価値を届ける活動は、MRだけで完結しない。マーケティング・営業・メディカルアフェアーズが、それぞれ異なる目的とルールのもとで医療現場を支えている。
情報の「届け方」が変わる——デジタルとAI
製薬マーケティングの中心にある「適切な患者に、薬の価値と使いどころを伝える」という目的は変わらない。一方、その届け方は大きく変わっている。
かつてはMRの対面訪問が中心だった。いまはWeb講演会・医療者向けサイト・オンライン面談・eメールを組み合わせ、医師ごとに最適なチャネルで届けるオムニチャネルが主流になりつつある。
ここは、投資家にとってはコスト構造の話でもある。大規模なMR部隊は、販管費の重い固定費だ。デジタル中心へ移せれば、同じ到達をより低コストで実現しうる。決算で「MR数の動向」や「デジタル投資」に触れる企業は、コマーシャルモデルを変えているサインと読める。ただしMR削減は、単なるコスト削減や特許切れ対応のこともあり、それだけで効率化に成功したとは判断できない。
そして次の波が、医師側のAI活用である。文献検索や要約にAIが使われるようになると、自社の添付文書や臨床データが、AIに正確に参照されるかが新たな論点になる。SEOが、いわば「AIに正しく引用されるための対策」へ広がる可能性もある。
一方、誤要約や適応外使用の示唆、ハルシネーションは新たなリスクだ。企業が提供するAIは既存の情報提供規制の対象になりうるが、第三者AIの誤回答に企業がどこまで責任を負うかは、まだ整理されていない。
今後はMRの訪問回数だけでなく、医師が使う人・サイト・AIの中で、正確なエビデンスがどれだけ参照されるかも重要になっていくだろう。
投資家が見るポイント
ここまでの話は、投資家にとっても重要である。
新薬が承認されても、医師に使う理由が伝わらず、保険者や医療機関の壁を越えられなければ、売上にはつながりにくい。
そのため決算説明会では、上市後の浸透状況、アクセス、処方拡大などに注目したい。
売上を「掛け算」で分解する
上市後の売上は、ざっくり次のように分解すると、どの活動がどこに効くのかが見えてくる。
売上 ≒ 対象患者数 × 診断・検査率 × 治療開始率 × 自社薬の選択率 × 治療継続期間 × 期間当たり実質価格
厳密な会計式ではないが、各項目を「誰が動かすか」で見ると、組織の役割が整理できる。
対象患者数:適応の広さ(開発・適応拡大)で決まる土台
診断・検査率:疾患啓発・検査体制の整備(複数部門・関係者の連携)
治療開始率:診断された患者が実際に治療に入る割合。症状の有無・治療ガイドラインの基準・有効な治療の有無で大きく決まり、そこに患者の費用負担や診療体制が加わる。
自社薬の選択率:薬そのものの有効性・安全性・利便性+マーケティングによる承認範囲内の価値提示+競合状況
治療継続期間:薬の効果・安全性・忍容性+患者負担の小ささ(アドヒアランス)
期間当たり実質価格:市場アクセス(保険カバー・薬価・払い手交渉。患者負担も左右する)
なお、メディカルアフェアーズは、この式のどれか一項を直接「上げる」販売部門ではない。アンメット・メディカル・ニーズの把握、エビデンス創出、医学的情報交換を通じて、医療現場が科学的に判断するための基盤を、式全体の背後で支える役割である。
だからこそ、総売上だけでなく、どの項目が効いている(あるいは詰まっている)かを示す内訳に注目したい。継続率や保険カバー率、処方医数といった数字は、式のどこが動いているかのヒントになる。
特に、以下のような薬は慎重に見る必要がある。
既存治療との差が小さい薬
投与や検査の導線が複雑な薬
医師の治療習慣を変える必要が大きい薬
競合薬がすでに強いポジションを取っている領域
逆に、対象患者が明確で、既存治療との差別化があり、処方数や患者アクセスが伸びている場合は、マーケティングとMarket Access(市場アクセス)がうまく機能し始めているサインと見ることができる。
投資家としては、その薬に、医師・医療機関・保険者が受け入れるだけの理由があるかを見極めたいところである。
まとめ
製薬マーケティングは、一般消費財のマーケティングとは大きく異なる。
どの患者に、どの根拠で、どのタイミングで使うべき薬なのか。
その判断に必要な情報を、科学的根拠に基づいて医療現場に届ける活動である。
一方で、現代の製薬マーケティングは、医師への情報提供だけでは完結しない。
医師が処方しても、価格や保険のカバー——記事20・記事21で見た市場アクセス(Market Access)——を通らなければ、患者には届きにくい。マーケティング(医師に価値を伝える)と市場アクセス(払い手に認めさせる)は、薬を患者に届ける両輪である。
ここまでで、薬は開発され、承認され、価格がつき、保険でカバーされ、医師に処方される——市場に出て、売上につながる状態が整った。
だが、薬の一生はここで終わらない。独占には期限がある。次回は、特許が切れたときに何が起きるのか——特許の崖(パテントクリフ)を見ていく。
参考資料
FDA "Promoting Medical Products" — 医療用医薬品プロモーション規制とOPDPの役割
FDA "Direct-to-Consumer Advertising" — 米国における患者向け広告規制とFair Balance原則
FDA "Herceptin Prescribing Information" — HER2陽性乳がんとコンパニオン診断に関する記載
厚生労働省「医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン」— 日本における販売情報提供活動の適正化
日本製薬工業協会「製薬協コード・オブ・プラクティス」— 医療関係者等との交流・情報提供活動に関する自主規範
日本製薬工業協会「メディカルアフェアーズ活動の基本的考え方」— MSLの独立性・販売促進非該当に関する整理
今回の内容はいかがでしたか?
もしこの記事が役に立ったと思っていただけたら、スキやフォローで応援いただけると励みになります。
それでは、また次回の記事で。
