小局歴史探訪-6〜権左衛門文書〜
権左衛門文書
専念寺と小局村に関する史料として、「権左衛門文書」として伝わる文書の口語訳を紹介します。これもChatGPTで現代語に翻訳しました。「権左衛門文書」は専念寺の持ち物ではなく、宝永三年(1706)に小局村の庄屋、権左衛門が書写したものと言われています。
専念寺の縁起書とは別の、堀川の系譜が書かれています。また、この文書は慶楽寺(専念寺の分寺)の由緒書と言えるかもしれません。
口語訳
さて、堀川家の系図を拝見すると、昔、嘉応年間(1169〜1172)の高倉院の御代に、堀川大納言・政稙(まさたね)が一族の当主であったが、流罪となり、伊賀国・岩瀬の山中に身を隠して侘び住まいを続け、月日を送ったという。
その後、政稙から二代目の政氏には三人の息子がいた。長男は法然上人に帰依し、承元元年(1207)に上人が讃岐へ流されたときお供して、讃岐の地で亡くなった。次男は武士を志して源頼家公に従い、三男の政澄は老いた父に付き従って山中でつつましく暮らし、雪や霜をしのいで日を送った。
それから百六十年以上が過ぎて、四代目の堀川三郎・包(かね)には二人の息子がいた。父子ともに将軍・足利尊氏に従って仕え、恩賞として五百五十石を賜り、(家の名も)堀川志摩守・政友(まさとも)と改めて忠勤に励んだ。
しかしその後、大永年間(1521〜1527)、将軍・足利義晴の時代になると、再び浪人となり、播州の尼ヶ崎に蟄居した。
それから五十余年が過ぎ、天正年間(1573〜1591)、播州・大坂の本願寺が武将・織田信長と戦った折、堀川権九郎・政一は、妻子を尼ヶ崎に残して自らは本願寺に参じ、上人の信任を受けて軍功をあらわした。
のちに本願寺が大坂を退去するとき、上人に暇乞いをしたところ、上人はこれを惜しみ、「六字の名号(南無阿弥陀仏)」の他、さまざまな品を下賜した。
その後、政一は尼ヶ崎に戻って妻子と合流し、信州・上田庄の在に身を寄せて隠棲し、念仏三昧の日々を送った。
そののち、信州から越後へと移り、(信州と越後の)境の山中に身を隠し、親子ともに薪などを商って暮らしを立てた。
さらに、信州にあった寺々を越後へ移し、専念寺は小局村へやって来た。堀川権三郎の世話を受け、山中に一つの庵を結んで、しばらく腰を落ち着けた。
その後、西条村という所へ移り、改めて庵を構え、人々の助力も得て、日々の暮らしも安定し、ついには一寺を営むまでになった。
当時、小局村には次第に浪人が移り住み、また分家も出て三、四軒の家ができたが、山中ゆえの不便さもあり、堀川権三郎の孫である志賀蔵という長男が「出家したい」と願い出て、専念寺に頼み、剃髪して「白円(はくえん)」と名を改め、ひたすら念仏に励む行者となった。
それでもなお「きちんと一寺を建立したい」という願いは止まず、そこで延宝年間(1673〜1681)に本山へ願い出て、寺号とご本尊(尊像)の許可を得た。小屋敷に小さな庵を建てて、寺を「慶楽寺(原文:きょ楽寺)」と名乗った。
この寺は専念寺から分かれた寺であるため、門徒(檀家)は互いに寄り合って支え合い、何事も一寺と同様に相談して決め、いまも仏祖へのお給仕(法要・護持)を滞りなく勤めている――そのように申し伝えられている。
原文:「勇猛山専念寺の由来と小局村の今昔」より
抑、堀川之系図を奉クワンするに、昔年嘉応年中(1169-1172)高倉院之御宇、堀川大納言政稙当主宮、流人と相成、伊賀国岩瀬之山中二引篭佗住居、月日を送りける。然るに政稙より二代、政氏に三男の公達あり、長男は法然上人に帰依し、承元元年(1207)上人讃岐へ流人となり玉へし時、御供致し、讃岐にて相果て、次男は武家に志ざし頼家公に隨ひ、三男政澄は老父に隴い山焼となりて雪霜を送りける。其後百六十年余過ぎ、四代目堀河三郎包に弐人の公達有り。 親子諸共武將尊氏將軍に随ひ、恩禄五百五十石給はり、堀川志摩守政友と相改、忠勤相働きけり。其後大永年中(1521~1527)、義晴將軍時代又浪人と相成、播州尼ヶ崎に蟄居す。夫後五十余年過し天正年中(1573~1591)播州大坂本願寺、武將信長合戦の砌、堀川権九郎政一、妻子は尼ヶ崎に残して其身は本願寺詣で、上人の多め軍功を顯しける。其后、大坂退去の時分、上人へ御暇乞申上れば、上人惜み玉へ、六字の御名号其外品々引出物を下しける。夫後尼ヶ崎に帰り妻子同道し、信州上田庄在に引篭り、念佛三昧ぞ相成ける。其后信州立越し越後に移り、信州堺の山中に引篭、親子諸共、薪抔商ひ渡世致しける。 其后信州より寺々越後に引越、専念寺は小局村に来り、権三郎の世話に相成、山中に一庵を結び暫く足を止ける。夫後西條村と言処に引越、一庵を構へ他人の助力を受け、日内福に相成、終に一寺を志つらへけるに、小局村は追々浪人来り、又者分家して、家三・四軒も出来れども山中不自由の事故、堀川権三郎の孫、志賀藏と申す長男、出家に相成度申すによって専念寺へ相願ひ髪卸し、白圓と相改め一向専念の行者と相成ける。然るに、一寺建立の望止む事なし、依て延宝年中(1673~1681)、本山へ願ひ、寺号并尊像御免と相成、小屋敷に一小廬を構ひ、きょ楽寺と名乗ける。 専念寺の分地の事なれば、門流は互ひ寄合持と致し、何事も一寺同様に相談致、未に佛祖の御給仕無事総相寺可申候。
