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想像で語られる「令和人文主義」——あるいは、飲茶さんの「世界一わかりやすい入門」を、提唱者が7000字かけて訂正する話

ネット上で、飲茶さんという作家・経営者の方が書かれた「世界一わかりやすい『令和人文主義』入門〜わーい、“知”って楽しいー」という記事を拝見しました。

私が「令和人文主義という時代の兆候があるんじゃないか」という話をし始めた張本人なのですが、「令和人文主義」という言葉が、私の手の届かないところでも話題にのぼっていることに、ある種の感慨深さがあります(婉曲表現)。

ただ、飲茶さんの記事は、全体として首をかしげるところばかりでした。というのも、全体的に「言っていないこと」ばかりだからです。

さらに、そこでは、元の記事がいっさい参照されていないどころか、まるで自然発生した現象に誰かが仮のラベルを貼ったものであるかのように扱われています。

しかも、飲茶さんが論じる事柄や人名は、私が書いた有料記事の無料部分か、令和人文主義を批判した小峰ひずみさんの議論(こちらは全文公開)に基づいているようです。さすがに、その雑さにはびっくりしました。もしかすると有料部分まで読まれたのかもしれませんが、それなら一層議論が雑すぎます。

私も一介の研究者です。そういう身からすると、飲茶さんが「哲学の紹介者」(哲学作家)という立場で語りながら、先行する議論や出典にあたることなく、ネット上の断片的な情報だけで概念を継ぎ接ぎして語る飲茶さんの手つきには、危うさを感じざるを得ません。

というか、自分で造語もせずに他人の褌で相撲を取っておいて、想像で適当なことを書いて読者を幻惑するなんて、文筆家として全然気合いが入ってない。読み替えるなら読み替えるなりの補足があってもいいのにそれもない。しかも、社名や組織名まで出して人様を巻き込んでそれをやっている。

言葉を生業にする者として、そして提唱者としての責任において、いくつかの重大な誤解は解いておきたいと思います。以下、令和人文主義についての提唱者からの補足です。


1. グループ名でも運動でもなく、「時代の兆候」の指摘

まず、最も基本的な話から入らなければなりません。私は「令和人文主義」という言葉を、特定の集団やメンバーシップを指す言葉として使ったことは一度もありません

この呼び名は、あくまでも、最近の知的なトレンドを論じるために便宜的に名づけられたものです。また、令和人文主義として語っている特徴が、名前を挙げた人たちの仕事のすべてを括るものでないこともまた重要なことです。

なので、誰かが「私は令和人文主義者です」と自称しているわけではありませんし、私も私で、誰かの仕事や活動のすべてを特定の説明(=令和人文主義)に回収しよう!などと主張しているわけでもありません

「こういう共通した空気感が、今の時代にあって、それは一定前の時代と違うよね」という話をしているに過ぎないのです。

というか、(最初に書かれた)下記の記事を読んでいれば、運動だとか自称しているとかいう発想にならないと思います。

ちなみに、私がこういう発想になるのは、「時代が考えている」という見方を普段からしているからです。

『攻殻機動隊』で言うところの「スタンドアローン・コンプレックス」的な発想が染みついているというか。人は打ち合わせもなく、それぞれのフィールドで類似した行動をとりはじめる。

徒党を組んでいると思われても、名前を挙げた人たち(やその所属組織・企業)を困らせてしまうと思うので、そのような理解はやめてください。


2. 飲茶さんが「書いた」けど、私が「言っていない」こと

私の「令和人文主義」論は、有料記事(朝日新聞デジタル)か、一部有料の記事(noteか、紙(雑誌『Voice』、京都新聞コラム)で展開しました(あとポッドキャスト)。

飲茶さんの記事には、おそらく無料で読める範囲の情報を表層的に拾い上げ、ご自身の想像で補完されたであろう記述が散見されます。(批判者の一人である)小峰ひずみさんの議論を無批判に借用している箇所もあるようですが。

私が定義した「令和人文主義」には含まれていない、あるいはむしろ私が批判的に位置付けた論点が、あたかも特徴であるかのように語られてしまっているようです。

ここで、私が「言っていない」こと、あるいは実態と異なる論点を整理しておきます。意図はどうあれ、イメージの誘導であって、私だけを巻き込むならさておき、社名・組織名と一緒に名前を挙げられた方々にとって迷惑だと思うのですが。


「(知的)快楽主義である」

飲茶氏は彼らを「わーい、楽しい」と遊んでいるだけのように描写しているようですが、私が論じる「楽しさ」や「自己満足」は、成果主義(ビジネスに役立つ)や競争・評価(マウンティング)に回収されないための手でした。この点は、最初に書いた朝日新聞デジタルの記事でも語られている通りです。

『グロテスクな教養』の著者である高田里惠子さんとの対談が参考になると思うので、引用しておきます。

【谷川】 「古き良き教養」を復権して、「ファスト教養」を「浅い」「分かってない」と雑な言葉で押さえつける考えも、ビジネスに役立つことだけやればいいという「ファスト教養」も受け入れられない。バランスを取るような人文主義を構想できないか、そこで鍵となるのが「自己満足としての学び」なのではないか、と考えたんです。
【高田里惠子】 自己満足はプラスの意味で使っているわけですね?
【谷川】 そうです。つまり、他人からどう思われるかとか、誰かに優越したいとか、役に立つ/立たないということをいったん脇に置いて、自分として「知ったり学んだり考えたりすることが楽しい」という平凡な動機を取り戻す、ということしかないんじゃないかと。これは一般読者だけでなく、私たち〔研究者〕にとっても大事だと思います。

「令和人文主義」を語り合う 自由を希求する教養と人文知のこれから

これを(プロフェッショナリズムではなく)知の愛好者としての「アマチュア」の問題として語ることもできると思います(参考①参考②


「非アカデミックである」

学問(アカデミック)の現場の人間ではない人が語っているので、内容の正確性が疑わしい。

世界一わかりやすい「令和人文主義」入門〜わーい、“知”って楽しいー

私が名前を挙げた人たちが、実際に大学院でのトレーニングを受けていたり、専門家と積極的に連携(協調)したり、専門書を積極的に紹介し、自身の語りに繰り込んでいることを思えば、該当するところがない。

梅原猛さんや鶴見俊輔さん、東浩紀さんのような知識人がとりがちだった「反アカデミズム仕草」(大学なんてダメだというポーズ)とは無縁だ、とさえ言えます。アカデミズムの知見を、社会に開こうとする健全さを見出すことはあっても、その逆はありえないでしょう。


「上の世代を内心見下している」

令和人文主義は、かつての教養主義のような「垂直」的な権威主義(マウント)を避けているように私には見えますが、先行世代や専門知に対しては敬意を払っていることは間違いありません(誰でもいいから、名前を挙げた人の本読んだら普通にわかる)。

というか、私が名前を挙げた人たちが、実際に大学院でのトレーニングを受けていたり、専門家と積極的に連携(協調)したりしていることを確認していれば、意地の悪い文章は書けないと思います。

どんな意地の悪い文章かというと、こんな感じ。

結論として、令和人文主義の側から見れば、①と②は“議論すべき対象”ではなく、「関わりたくない時代遅れの存在」として見えてしまっているのである。
しかし、そうは言いつつ──
③の若者たちは、それを表に出すことは決してしないだろう。
「いやいや、そんなことないですよ、もちろん尊敬してますって〜」
「いや〜ほんと勉強不足で、すみません〜」
「マジすか、さすがに俺も怒りますよ! まあ、でも確かにおっしゃる通りなんですよね〜(笑)」
と、あくまで柔らかく、好感度高めのテンションで受け流す。

世界一わかりやすい「令和人文主義」入門〜わーい、“知”って楽しいー

レスバによってアテンションエコノミーに加担することを拒否することはあっても、大学院でトレーニングを受けたり、専門家とつながったりしている人が、議論や批判をしないような態度をとることなどありえないでしょう。


「ターゲットを会社員やマジョリティに設定している」

ターゲットは会社員(ビジネスパーソン)や普通の人(マジョリティ)

世界一わかりやすい「令和人文主義」入門〜わーい、“知”って楽しいー

大正教養主義から昭和教養主義まで、少なくとも「大学生」が典型的な受容者として想定されていました。なぜそうできたかというと、実際に「読めていた」かはさておき、本を読む層がいると前提できたからだと思います。

しかし、「今の大学生って本読みますか?」と聞かれたら、そう断言できるのは一部の研究大学の人だけではないでしょうか。私が講義した経験のある大学だと、月に複数冊本を読んでいる人がいたら、「おー」と声が出るくらいでしたよ。

昔は本を読む人、学ぶ人の典型イメージが「大学生」だったのが、それが「社会人」とりわけ「会社員」にシフトしている、というだけのこと。そんなの書き手や本、イベントやメディアによるでしょう、普通に。(たとえば三宅さんのこの本とか。)

他方で、社会人、とりわけ会社員(批判者の中では「会社員=正社員」ってことになっててビビる…そんなわけない)の中では、学びたい、何かを知りたいというニーズは高まっていて、それは重要だと思っています。(この辺りは私の考え。)


「政治性がない」

そして同時に、自分たちが持つ知名度や影響力を、政治運動や社会運動に結び付けることもしないのである。

飲茶さんの記事

厳密にいえば、小峰ひずみさんの記事から来ていると思われる指摘です。

SNSで政治的な発言をすることを政治性と呼ぶのであれば、必ずしもそれはないでしょう。SNSで特に積極的に発信しているとも言えない。でも、SNSで語らないと政治ではないんでしたっけ。

あるいは、小峰ひずみさんのようなマルクス主義的な(と言ってよいと思うのですが)政治性、つまり、一種の革命を目指す政治しか「政治性」の名に値しないのであれば、そのような政治性はないでしょう。でも、政治ってそういう話でしたっけ。

全身全霊で働くんじゃなくて読書をさせろ!と社会に要求すること正義の重要性を語り直すことSNS時代に陰謀論vs反陰謀論の単純化された構図に惑わされない主体形成について考えたり、アイデンティティが単なる「属性」の問題になる難しさについて語り合うこともまた、十分「政治」と呼べるんじゃないですかね。

ていうか、鶴見俊輔についての拙著を読んでくれ(目次だけでもいい)。そんな話にはならないでしょう。


え、AIの話?

どうせこれからも、「読者や視聴者を喜ばせるために、専門外の分野であってもAIを駆使してリサーチし、それをより楽しく・わかりやすい形へ翻訳し、コンテンツとして提供する」行為をし続けるだろう。

飲茶さんの記事

AIの話題はマジでどこにも書いていなさすぎてビビる


3. 飲茶さんによる単純化・矮小化

深井龍之介さんや田村正資さんを挙げながら、「成果」や「ビジネスへの有用性」といった単一の視点から自由になるために、複数の視点を身につけ、学ぶこと自体への充足を取り戻す必要性について、最初の令和人文主義についての記事で書きました。

飲茶さんの記事は、こうした「成果主義への抵抗」や「ファスト教養への抵抗」、「競争化する学びへの抵抗」という背景を捨象し、単なる「わかりやすいコンテンツ消費」の話へと矮小化してしまっているように見受けられます。

丸山眞男が福沢諭吉の批判した思考法について、こう整理していました。

ということは、ある主張をすると、その背後にある動機とか、あるいは好みを揣摩憶測する。それからさらに、その背後の人間を憶測する。こういう態度です。そこからレベルの違いを無視する考え方が出てくる。福沢は洋学者である。洋学者だから民権の説を唱える。民権の説を唱えるからキリスト教なのだ。キリスト教だから共和制なのだと、レベルの違う問題を、みんなつなげてしまう。

丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』岩波文庫, p.187

連想や憶測を混ぜて物事を理解することばかりやっていないだろうか、というわけです。

つまり、言った限りのことを言ったこととして受け取る。議論や批判はその先にあるので、「入門」を謳うなら、それくらいのことはしてほしかったところです。


おわりに

文筆家として一般読者とは違う立場にありながら、原典にあたることなく、ネット上の断片的な情報と自身の憶測だけで、「それらしい物語」を断定的に語ってみせる飲茶さんの演説は、私が乗り越えるべきだと考えている「ファスト教養」的な振る舞いそのものです。

記憶をたどれば、思春期の頃(中学生のとき?)に、飲茶さんの著作に触れた記憶があります。それだけに、今回の記事のような、まともに参照せず想像で語る手つきを目の当たりにし、「こういう仕事をする方だったのか」と、寂しい答え合わせをした気分です。(想定外に記事がバズってしまったところはあると思うのですが、それなら後からでも、文筆家として責任ある言葉選びをすることもできたはずです。)

「令和人文主義」は、「こういう時代の流れが見える」「こんな風に時代が考えているように見える」と読み解き、名づけたものです(この発想は、博士論文をもとにした『信仰と想像力の哲学』以来のものです)。

どなたでも、もしこの言葉を使って議論を深めていただけるのであれば、ぜひ一度、私の書いたテキストにも触れていただければと思います。


おまけ

1. エラスムス的企て

私の書いた記事のいくつかでは、私がなぜ「教養」ではなく「人文主義」という言葉を選んだのか、その歴史的な接続についてもう少し深く触れています。せっかくですので、飲茶さんの記事では捨象されてしまった奥行きについて、少しお話しさせてください。

人文主義は、写本文化では、うわさや引用、命題の形でしか伝えられていなかった古代の文章を、いわば実際に「古典」にした運動であり、そこには共通して、修辞学や弁論術への関心がありました。つまり、言葉がどういう働きを持ち、どういう形式でそれを伝えるかということへの関心です。

そういう思潮の中で、エラスムスという人文主義者は、印刷術や出版社という新しい流通形式や、当時再発見された文体を駆使しながら、当時の宗教対立や分断を乗り越えるために、「新しい弁舌(noua lingua)」を打ち出すことが必要だと考えたそうです。

現代の「令和人文主義」の担い手たちもまた、インターネットやSNS、ポッドキャストといった新しいメディアを使い、専門知と一般社会の間にある壁を、政治党派ごとの言葉遣いの壁を、相互に交流のなくなった界隈やエコーチェンバーを越えていくための「新しい言葉遣い」を模索しているように思えます。

2. 「反発」なき時代と「名前のない問題」

かつての大正教養主義には、立身出世や体制への「反発」があり、それが学ぶ原動力になっていました。そして、そこで「自由の感覚」を得ていたのだと。

しかし、現代にはそのようなわかりやすい「敵」はいません。表面的には個が尊重され、豊かになったはずの社会で、それでも私たちが抱えているのは、「問題がないはずなのに、何か違和感がある」「『普通』からズレている気がする」「何か足りない」という感覚です。これを、私はベティ・フリーダンの言葉を借りて「名前のない問題」と呼びました。

この「名前のない問題」は、もはや特定のマイノリティだけのものではありません。かつてなら「強者」とされた男性や、バリバリ働く女性、病気を抱えている人、規範を内面化した人など、社会全体に「モヤモヤ」として分散しているからです。役に立つスキルを身につけ、仕事をこなし、家事を回すだけでは決して解消されないこの空虚さ。ここから脱するために、私たちは再び「自由」を求めているのではないか。

3. 「しみじみ」とした自由

そんな時代において、私たちが求めているのは「しみじみ」とした感覚の復権です。政治学者の坂本多加雄は、大正教養主義の書き手たちが「しみじみ」とやたら口にすると指摘していたそうです(高田里惠子さんとの対談をご覧あれ)。

この「しみじみ」という言葉は、現代において「自己満足」と言い換えられるものかもしれません。

たとえば哲学者で作家の田村正資さんは、この自分本位の探究の楽しみを「自己満足」という言葉で擁護している(『独自性のつくり方』クロスメディア・パブリッシング)。広義の「競争」の論理が、つまり、闘争領域が、仕事だけでなく、勉強、恋愛、友人関係、趣味などにも波及し、すべてが他人との比較や、世間的に評価されるかどうかで測られてしまっている。
 その結果として、自分が自分として気になったり楽しみを感じたりしていて、それで十分だと思えることが見えなくなっているため、自分本位の興味や楽しさを見つけ育てることが大切だというわけだ。通常の語感でいえば「自己満足」というと、誰かの「イタい(痛い)」振る舞いをくさす言葉でもあるが、田村さんはその中の小さな喜びを手放すべきでないと考えたのである(筆者と渡辺祐真さんによるポッドキャスト番組「Ink and Think」の田村さん出演回を参照のこと)。

深井龍之介、三宅香帆…新世代が再定義する教養「令和人文主義」とは

マウント合戦や論破ショーではなく、こうした「しみじみ」とした知のあり方を通して、静かに、しかししたたかに「自由」の感覚を取り戻すこと。

飲茶さんが快楽主義へと矮小化した背景には、こうした「自由への希求」と「新しい言葉」への意志がありました。もし興味を持っていただけたなら、(令和人文主義についての勉強でなくてもいいので)三宅香帆さん、深井龍之介さん、田村正資さん、朱喜哲さん、渡辺祐真さんたちの活動や文章を実際に体感してみてください。そこには、「わーい」だけではない何かがあります。


ちなみに、FNNに令和人文主義って出てきましたね…びっくりだ

そして時代精神を探るトークイベントが1/11にあるのでよろしくお願いいたします↓

【追記】これに訂正を出すこと自体に、「多様性の抑圧だ」「言葉を独占する権利はない」とする声がそこそこな数届いたのですが、私だけは何も言う権利がないかのように批判するのは、論法としても一貫していないので、批判として有効だとは思えません。

誰にでも何かを言う権利は当然あります(私にもある)。そもそも、私はプラットフォーマーでも政府でもないから何にも検閲できないし、していません。だから、何かを発言したり、訂正したりする行為を抑圧や検閲、独占の類だとされる謂れはありません。

それに、「この言葉を使うな」とは一言も言っていません。私が言っていないことを「言っていない」と言い、「文筆家/経営者が、人様の名前を挙げ、他人の褌借りてやる以上、ちゃんと調べたらどうですか」と指摘したにすぎません。無名の作家でもないわけですから。【追記終わり】


さらに有料部分には簡単なおまけ。

せっかくなのでAIを駆使してみて(!)、私がこれまでに書いた文章、語った音声などをすべて盛り込んで作ったポッドキャスト形式の番組をNotebookLMに読ませて解説音声を複数作ってもらいました。

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