真田純子・湯澤規子『地球のまかないごはん:食・農・風景をめぐる往復書簡』(2026 農文協)
石積みと風景とごはんについて、人文地理学者・湯澤規子さんと景観工学者・真田純子さんが世界のあちこちから交わした往復書簡です。
ヨーロッパ、アフリカなどの「風景」「食」と日本のそれとを比較した書簡から、私たちが当たり前のように追い求めてきた「暮らし」に疑問を感じずにはいられません。
本書のタイトルにある「まかなう」という言葉について、湯澤規子さんは次のように語っています。
「環境保全、景観再生、地方創生、地域活性化、生物多様性という言葉で語るとどこか他人事に思えることも、ごはんをつくって食べる、食べさせる、誰かや何かを気づかう、気づかわれるという意味を持つ『まかない』という言葉なら、自分事として考えられるのではないかという願いを込めました」(211ページ)。
存在するすべてに役割がある
すべてに役割を見出し、規格外が出ない<結城紬>も、<石積み>も、自然と人とのかかわりには、<有機農業>に通じるものがあると思います。
規格はあくまで人が作ったもので、いま私たちが<常識>として捉えていることも、見方、考え方が変われば別物に変わるものなのですね。
結城紬という伝統織物も、糸取り、染め、織りのすべてが手作業であるために、個々の素材の個性に無駄なものはなく、太い糸は帯に、強くて均一な糸は縦糸に、節のある糸は紬に表情をもたらしている、という世界だったからです。
どこに何を組み合わせて使うか、そこが人の手と知恵の力の見せどころなのです。「規格外」が出ない世界の存在を知り、自分自身の個性が許されたようで、嬉しかったな。石積みの世界もそれに近いような気がしています。
土地がまずあって、そこに自分が合わせる。かといって、土地の言いなりなわけではなく、やはり積むという能動的な作業、土地への介入はするわけです。でも「立派な石」を外から持ってくるわけではなく、あくまでも「その土地に与えられた石」を使うのです。そのあたりの土地と自我の融合が面白いところです。
積む作業でもそれは同じで、あまり石は整形せず、すでにある石の形をそのままに使うことが多いです。確かに、積みやすい石と積みにくい石はありますが、多少積みにくい石でも、石がはまるV字の空間を作れば大体積めます。どうしても積めないような石も裏のグリ石として使えます。すべての石に役割があるんですね。
「適切な技術」かどうかは使う人が決める
新しい技術は必要ですが、その技術がどのように発展していくべきなのかというのは、十分に考える必要があります。
現在では技術が高度化していて、技術を開発する人と技術を使う人が異なることがほとんどです。そのような状況では開発者の論理に傾きがちです。農家が主権を持てる状態であること、つまり農家が自分たちでまかなえるかどうかが、「適切な技術」として重要なのかもしれないなと思っています。
「技術を開発する人と技術を使う人が異なる」ことを通して思い出したことがあります。
農業の試験研究機関が集まる「つくば」での出来事です。
研究者が通勤途中で農家の農薬散布を見て、「この作物にこの時期の散布は、適切に防除をしている」と感じていました。ところが次の週も、その次の週も農薬を散布していたのです。
農薬の開発者である研究者は、農家が頻繁に農薬を散布していることに驚いたそうです。
それぞれの病害虫に対して、各担当の研究者が開発した農薬を、農家はJAで作成された「作物ごとの防除暦」に沿って忠実に散布していたのです。
このことからも、適切な技術かどうかを使う人<農家>が決めることの大切さを実感します。
効率を求めてまかなえること、失われるもの
もともと人間は、そこにあるものを工夫しながら使って暮らしてきたから、多様な暮らしの文化が生まれたんですね。
日本で暮らしていると、大地を耕して耕地を整備することは勤勉で良いことのように考えがちですが、世界を見渡して多様な土地条件、気候条件を視野に入れると、必ずしもそうではないのだということを実感しました。
耕地を整備して、大量生産できる作物を効率的に栽培することは私たち自身をまかなう行為であったとしても、地球をまかなうことにはなっていない。
農業の形態と社会のバランス、地球をまかない、地球にまかなわれる状況になるまでの道筋について考えてみました。その道筋には農家だけでなく、企業や消費者個人が大きく関わっていることも見えてきました。地球をまかない、地球にまかなわれる暮らしは、直接大地に手を入れる農家だけでなく、社会全体で考えることだということも再認識できたように思います。
人々の暮らしや考え方によって、技術の採用基準は異なります。
採用すべき技術を判断するのは<人>です。
持続可能な環境や社会に必要なのは「地球をまかなう」技術です。
地球にまかなわれる暮らしを「農家だけでなく、社会全体で考えること」という指摘は、非常に重要です。
できることか、したいことか、それが問題だ
連続堤防の整備が進んでくると、あふれないことを前提とした農業に変化し、栽培する作物は自由に設定できるようになっていきます。環境をコントロールする力が強くなるにつれ、できることから考えるのではなく、したいことから考えるという変化があったと言えます。
洪水が来ることが前提の農地では、防御だけでなく堆積する厚い土の層を利用したごぼうの栽培や、砂地であることを利用した芋の栽培などが行えることもありました。こうした洪水の作る土壌に相応しい農業が、特産品を生み出したりもしていたようです。
「まかない、まかない合う」関係だと言えますが、そのような場所でも、連続堤防が整備されて洪水が来なくなったことによって砂地が土に変わり、かつての「特産品」を生み出した特異な土壌がなくなりつつある状況も見受けられます。
気候条件、土壌条件に適した「できること」を優先して作物を栽培すれば、栽培に必要な経費・資源は節約でき、生産が安定し品質の向上にもつながります。
三澤勝衛の「風土産業」の視点で地域特有の付加価値をつけることも可能です。
「食べる」「風景」、そして「生きること」
畑は人間の食のためのものではありますが、そこは間違いなく地球の一片であり、土や水や風、あらゆる生きものが生きる場でもあると考えると、ミクロコスモス(小さな宇宙)としてその全体の動きやバランスを考える必要がある。
「食べる」ことから暮らしを見直す
身近な「食べる」ことを通して、持続可能な暮らしを自分事として捉え、「私たち個人にもできることがある」と思えることから、暮らしを見直すきっかけになればと思います。
真田さんとこの往復書簡で考えようとしている「まかなう(賄う)」という概念も、「暮らし」といひと続きの世界だと考えています。
私たちは暮らしの中で地球から得たもので自らをまかない、地表面を手入れしながら地球をまかなう。この「まかない合い」がいわゆる人間と環境との関係ということになるのだと思いますが、あえて「まかない」という言葉を使うことで、今まで論じられてきた「人間と環境の関係」の枠組みを超えていきたいという思いがあります。
イタリアの旅を通じて新しい研究課題を見つけることができました。それは、地球と「まかない合う」世界、つまり、私たちが「食べる」ことが「風景」をつくり、「風景」がまた私たちを生かしてくれる。そういう見方や考え方、価値観の追求になるだろうと思います。
環境に負荷をかけずに生きていくことはできませんし、常に必要最小限にと考えるのも「文化」や「楽しさ」という意味では違うかもしれません。
スローフードに代表されるような環境に負荷をかけない食(建築や土木を含めた「暮らし」と言い換えても良いかもしれません)が重要だということは、すでに認知されつつあります。
大事だよねと言い合い、一部の心ある人、あるいは余裕のある人が実践する時代から、それを社会に組み込む時代に入る必要があるわけですが、政治が変わるのを待つだけではなく、私たち個人にもできることがありそうです。
