122.ロトルー三世
画像は以下のサイトから転載。
https://ja.findagrave.com/memorial/281735177/rotrou_iii-of_perche
今回の記事は半分ほどがウィキペディアの翻訳です。
パーシヴァルのモデル
ペルシュ伯ロトルー三世(一〇八〇年以前~)は、このNoteのいわば「リアルキャメロット編」にたびたび登場してきた人です。

リアルキャメロット編は、以下の記事からスタートしています。
「結婚しました」のオンパレードですが、主要人物のほとんどが婚姻によってつながっていることを示すためです。
中世ヨーロッパにおける度重なる戦争は、「人間のさが」などではなく、一部のイカレた血統が引き起こした大河ドラマでした。
それが「歴史」として残り、わたしたちの中世ヨーロッパ感をかたちづくっています。ですがこの歴史は「歴史」ではなく、単なる家族史です。
歴史と呼ばれる家族史以外にも、アーサー王物語という騎士道物語がこんにち、文学として残されています。
スイスの学者、アンドレ・ド・マンダッハは、「パーシヴァル」はペルシュ伯ロトルー三世の愛称(ニックネーム)である、という可能性を示唆しました。
つまりパーシヴァルのモデルはロトルー三世かもしれない、という説です。日本では歴史の先生も知らないような人物ですが、事実だとすれば主役級です。
念のため付け加えておくと、パーシヴァルは円卓の騎士の一人です。

中世の民話によると、ルクセンブルク家、アンジュー家、そしてそれらの子孫であるプランタジネット家やフランスのリュジニャン家は、竜の精霊メリュジーヌの子孫を自称していました。
詳細は省きますが、メリュジーヌの血統には、フリードリヒ・バルバロッサ、フランス王ルイ七世、イングランド王ヘンリー二世、若王ヘンリー、獅子心王リチャード一世、アラゴン王アルフォンソ二世、トゥールーズ公レイモン五世などが含まれます。
王朝をまたいだこれらの「悪魔の子孫」ネットワークが、聖杯伝説誕生の背景となったわけです。
聖杯伝説は、聖杯を探し求める騎士の物語です。聖杯といえばテンプル騎士団です。
後述しますが、かつて「騎士」なるものは存在しませんでした。スキタイや古代ローマのエクィテスは、ただの「馬に乗った戦士」、騎兵です。
今回の主人公、パーシヴァルかもしれないロトルー三世は、通称「大公(le Grand)」と呼ばれ、一〇九九年からペルシュおよびモルターニュ伯を務めました。
父親はペルシュ伯ジョフロワ二世で、母親はモンテディエ伯イルドゥアン四世の娘ベアトリス・ド・ラムリュプトです。
ロトルー三世は、じつは有名な十字軍戦士でした。スペイン東部のレコンキスタにも参加しました。
さらには一一二三年から一一三一年にかけて、ナバラのトゥデラを統治していました。

さらにロトルー三世は、ペルシュ地方に馬の品種の一つ、アラブ種を導入し、ペルシュロン種を生み出した人物として広く知られています。
ちなみにペルシュロン種は、ディズニーのパレードで長らく使用されている馬です。
ロトルー三世の妻はイングランド王ヘンリー一世(一〇六八年ごろ~)の非嫡出子、マティルダ・フィッツロイです。
このマティルダは、有名なホワイトシップ号の遭難で死んでしまいました。
ロトルー三世はこれを偲び、一一二二年、現在はオランダにあるラ・トラッペに修道院を建立したことで、のちのトラピスト修道会の基礎を築きました。
トラピスト修道院は日本にもあります。
多くの「業績」を上げたロトルー三世ですが、パーシヴァルのモデルかどうかはさておき、この人の人生を追っていくことによって、当時の騎士のスタンダードな生き方、というようなものが浮かび上がってきます。
そして繰り返しになりますが、かつて「騎士」なるものは存在しませんでした。
第一回十字軍
ロトルー三世は第一回十字軍に参加し、あだ名が短袴公のノルマンディー公ロベール二世(一〇五一年~)の軍勢とともに旅をしました。

このロベール二世は、有名なウイリアム征服王(一〇二八年ごろ~)の息子です。つまりダビデの血統です。
ペルシュ伯領はノルマンディー南部の辺境地帯で、ロトルー三世はアングロ・ノルマン貴族と血縁関係にありました。


ロトルー三世の姉妹の一人は、テュレンヌのレーモン一世と結婚していました。
このレーモンも十字軍の一員で、有名なトゥールーズ伯レーモン四世(一〇五二年ごろ~)の軍にいました。
ロトルー三世の母ベアトリスは、一〇七三年にスペイン遠征を行ったルシー伯エブル二世(一一〇三年没)の妹で、アラゴン王サンチョ・ラミレス(一〇四二年ごろ~)と結婚したフェリシー・ド・ルシーの姉でもありました。

第一回十字軍の主要な攻城戦の一つ、いわゆるアンティオキア攻囲戦は、シリア地方の重要都市アンティオキアを舞台に戦われました。
アンティオキア市内で聖なる槍が見つかったりなど、フィクションと現実が交差するいかにもな戦いだったのですが、この戦いはさっそくヨーロッパに伝わり、あっという間に武勲詩の題材となり伝説化が進みました。
武勲詩の一つ、『アンティオケの歌(Chanson d'Antioche)』によると、ロトルー三世はアンティオキア攻囲戦の際、ノルマン人のターラント公ボエモン(一〇五四年ごろ~)の指揮下にありました。

一〇九八年六月三日、ロトルー三世は梯子を使って城壁を乗り越え、最初にアンティオキア城内に突入しました。

二週間後、十字軍がセルジューク朝の援軍と野戦を繰り広げた際は、ロトルー三世は最前線の指揮官の一人でした。
そして十字軍の誓いを果たし、ついにエルサレムにたどり着きました。
『アンティオケの歌』は、一〇九七年のニカイア攻囲戦におけるロトルー三世の勇気も記しています。

かつてノルマンディー公国におけるロトルー三世の地位は、イル=ド=フランスとの国境の防衛責任者でした。
その後地位が上がったのは、第一回十字軍に参加したからだと考えられています。
この十字軍は、当時の社会的システムの一つとしても捉えられます。RPGのサブクエストのようなものです。
クリア(人生)には必要ありませんが、設定されているのであれば挑戦すべきです。
もちろんクリアすれば経験値が上がります。さまざまな要素もアンロックされます。
ただし十字軍は自然発生的な現象ではなく、「エルサレム」というテーマを活用した、まさに人為的に追加されたサブクエストでした。
エルサレムといえばユダヤです。そして十字軍を後援したクリュニー修道院を創建したのは、ギレム家のアキテーヌ公ギヨーム一世(八七五年~)です。
ギレム家は、ダビデの血統を引くユダヤの家系です。さらに物語、伝説といえば、やはりユダヤ人です。
ユダヤ人については、陰謀論的にこのNoteを読まれている方はとくに、以下の過去記事を一読ください。
ロトルー三世の父は子爵の称号しか持っていませんでしたが、ロトルー三世本人は通常、伯爵と呼ばれていました。
めでたく地位が上がったわけですが、人為的なサブクエスト(第一回十字軍)はすぐさま伝説化され、「騎士」なる新たなジョブが追加されました。
騎士は、むしろRPG好きの方のほうがイメージしやすいと思われますが、戦士にはない役割を持っています。
そして戦士よりかっこよく、戦闘力も高めです。何度も繰り返しますが、騎士はただの「馬に乗った戦士」ではありません。
エルサレムの初代統治者、ゴドフロワ・ド・ブイヨン(一〇六〇年~)は、十四世紀の話ですが、伝説の九騎士(ナイン・ワース)の一人として設定されました。まさにゲームの設定です。
ナイン・ワースのスタメンはどれもユダヤがらみです。なぜか実在しないアーサー王まで含まれています。
フィクション由来の「騎士」は、騎士道なる追加マニュアルを伴って現実化しました。なにか問題があるかのように記していますが、問題はあります。
ここでいう騎士は、忠誠、勇気、礼節、などであらわされる、理想化された騎士のことです。「神の戦士」であり、「神への献身」「異教徒との戦い」「弱者の保護」などを怠るとペナルティーを受けて能力値が下がります。
現実の「騎士」は、ときに真逆のことを行っていました。これはことさら取り立てるまでもなく当然の話で、なぜかといえば現実はゲームやフィクションではないからです。
加えてわたしたちは、この理想化された騎士を知っています。もちろんその情報は、ゲーム、フィクション由来です。
ゲーム、フィクション由来なので、わたしたちの知っている騎士像が逆に「正しい」、というのがミソです。

のちのイングランド王ヘンリー一世は、兄のノルマンディー公ロベール二世(短袴公)と権力闘争を繰り広げていました。
ロトルー三世にとってのロベール二世は、お伝えしたとおり第一回十字軍の上司で、ヘンリー一世のほうはのちに義理の父となる人です。
兄弟なので当たり前の話ですが、ヘンリー一世もロベール二世も、共闘した兄の赤顔王ウイリアム二世(一〇六〇年ごろ~)も、全員がウイリアム征服王の息子です。つまりダビデの血統です。
ここまで引っ張ればピンと来るでしょうが、ロトルー三世はヘンリーとロベールの戦争(兄弟ゲンカ)に参加しました。これも地位向上に役立つサブクエストです。
ロトルー三世はヘンリー側につきました。そして一一〇六年のタンシュブレーの戦いでロベールが生涯幽閉されたのち、ヘンリー一世のノルマンディー公国統治において重要な人物となりました。

ロトルー三世はイングランドにおいてはヘンリー一世の直臣で、ヘンリーの非嫡出子マティルダ・フィッツロイを妻とする権利(Jure uxoris)に基づいて所領を保有していました。
イングランドに滞在することはあまりありませんでしたが、奥さんとは親密な関係にあったとされています。
レコンキスタ初期の参戦
ロトルー三世はいわゆるレコンキスタにも参加しました。これもレベルアップに役立つサブクエストです。

上の絵画はもちろん後世の作ですが、戦いの前に聖ヤコブがあらわれたなど、レコンキスタにおいても「キリスト教徒として戦った」ことがことさら強調されます。
実際は戦のない時期もあり、イスラム教徒との縁組みと和平もあり、またキリスト教国どうしによる覇権争い、領土争いもありました。
こちらもしごく当然の話で、なぜかといえば現実はゲームやフィクションではないからです。
キリスト教対イスラム教の構図は、共産主義対資本主義の構図と同様、戦争を起こしたい、戦争を長くつづけたい、と願う一部の勢力が持ち出したイデオロギー、いわばゲームの設定です。
ロトルー三世がはじめてレコンキスタに参戦したのは、十二世紀の最初の十年間(おそらく一一〇四年から一一〇五年)でした。
年を見ればわかるように、このレコンキスタはタンシュブレーの戦いと時期がかぶっています。
ロトルー三世がかなりの野心家だったのか、またはお家の取り決めだったのか、実際のところはわかりません。
ロトルー三世とノルマン人の一団は、当時アラゴンとナバラの王だった武人王アルフォンソ一世(一〇七三年ごろ~)に仕え、イスラム教徒と戦ったとされています。

ですがアラゴン側がロトルー三世に対して陰謀を企てたため、一団ともども帰国してしまいました。
このノルマン人の遠征は、アルフォンソ一世のライバル、カスティーリャ王アルフォンソ六世(一〇四〇年ごろ~)の同盟者のクリュニー修道院が、アルフォンソ一世の信用を傷つけるために流した噂に端を発すると推測されています。
または、ノルマン人の一団があまりに少数だったので、必要がなくなり送り返されたという話もあります。当時アルフォンソ一世はサラゴサのタイファと同盟を結んでいました。
そのため不満を抱いたノルマン人たちのあいだで、アラゴンやクリュニー修道院の「陰謀」の噂が広まったのではないか、ということです。
当時のクリュニー修道院は絶大な政治権力を握っていたので、「陰謀」程度は不思議でもなんでもありません。
アルフォンソ六世とコンスタンス・ド・ブルゴーニュの結婚をアサインしたのもクリュニー修道院です。このコンスタンスは、高名なクリュニー修道院の院長クリュニーのユーグの姪です。
クリュニーのユーグは、第一回十字軍となる遠征を呼びかけた教皇ウルバヌス二世に多大な影響を与えた人物です。
ガリシア地方では九世紀、イエスの十二使徒の一人、聖ヤコブの遺骸が「発見」されました。
また伝説によると、八三四年のクラビホの戦いでは白馬に乗った聖ヤコブが登場したそうです。
以来、聖ヤコブはサンティアゴ・マタモロス(ムーア人スレイヤーの聖ヤコブ)と呼ばれるようになり、「サンティアゴ、イ・シエラ、エスパーニャ!(聖ヤコブと [ともに] スペインを討て)」は、中世スペインのキリスト教軍の伝統的な戦いの叫びとなりました。
結果、サンティアゴ・デ・コンポステラは主要な巡礼地となり、金づるの一つとなりました。
ちなみにアンドレ・ド・マンダッハによると、武人王アルフォンソ一世のニックネームは「アンフォルタス」です。
アンフォルタスは、『パルチヴァール』の登場人物、モンサルヴァート城で聖杯を守っているアンフォルタス王に対応します。
そして現実のアルフォンソ一世は、熱烈なテンプル騎士団の支持者でした。
この時代の人物がのちに伝説化、物語化したように、当時においても伝説化、物語化した人物がいました。

現在でもドラマにハマって登場人物の言動を(図らずも)真似る人がいますが、伝説、物語、フィクションには力があります。
その現在では、映画やドラマは超巨大産業として文字どおり君臨しています。

「需要と供給」などといいますが、洪水のように垂れ流される無数のコンテンツたちを俯瞰すると、人類はここまでは物語を求めていないだろう、という印象を覚えます。
この「押し売り」の理由はただ一つ、メッセージを伝えることです。

映画やドラマの登場人物は、「恋愛」したり「ガン」に罹ったり、「騎士」として英雄的に戦ったりします。
そして恋に苦しんだとき、ガンに罹ったとき、騎士として戦うとき、わたしたちは少なからずフィクションをよりどころとします。
フィクションなので当然、役に立ちません。そして「恋愛」も「ガン」も「戦争」も、「難しい問題」として未解決のまま残りつづけます。
そもそも「ガン」や「恋愛」や「騎士」なるものは存在しませんでした。「ガン」や「恋愛」や「騎士」が現実のものとして広く認知されているのは、だれかが勝手に定義づけ、レッテルを貼り、広めた結果です。
筆者はキリスト教徒ではありませんが、少し考えると、「ガン」や「恋愛」や「騎士」の定義づけは、神のごとき行いです。
神はガンの定義をまちがうことはありません。人類全員に共通して当てはまる病気として、ガンという定義は正しく機能することでしょう。
たかが人間が「ガン」や「恋愛」や「騎士」なるものを定義づけ、それをわたしたちは「知っている」と認識しているわけです。
南北戦争のある戦いでは、十五メートルの距離で向き合い一斉に射撃しましたが、だれひとり死にませんでした。人は人を殺せないからです。
ですがこのようなフィクションはだれも求めていません。戦争とは、人どうしが殺し合い、そこに極限状態のドラマがあり、結果深く感動させられるものだからです。

そしてわたしたちが映画で深く感動しているあいだに、現実はどんどんフィクションに近づいていきます。
ロトルー三世くらいの立場であれば、出世の機会になるので戦がつづくのは
大歓迎でしょう。いっぽう庶民としては、たまったものではありません。
そのロトルー三世は、一一二〇年冬、有名なホワイトシップ号の遭難で、妻、長男、二人の甥を失いました。

その後ロトルー三世はスペインに渡りました。この行動は改悛行為だったのかもしれませんが、公の場で悲しみを示すためだった可能性もあります。
先にお伝えしたとおり、ロトルー三世の妻はヘンリー一世の非嫡出子、マティルダ・フィッツロイです。
ヘンリー一世も唯一の嫡出子、ウイリアム・アデリンを遭難で失っていました。ロトルーは奥さんを失って実際悲しんでいたのかもしれませんが、やはり政治として公に悲しむ必要があります。
もちろんホワイトシップ号の遭難は陰謀の可能性がありますが、まさに映画そのもののエピソードです。

トゥデラの統治
『サン・フアン・デ・ラ・ペーニャ年代記』によると、ロトルー三世はサラゴサとトゥデラの征服に参加したとされています。
さらには征服の首謀者であり、トゥデラの初代統治者だったとのことです。
ただしこの記述は嘘だと判明しています。ロトルー三世は一一一九年、ノルマンディーでヘンリー一世のために戦っていたので、トゥデラの征服には関与できなかったはずです。
めでたくロトルー三世もフィクション化、伝説化したわけですが、「歴史」とは恣意的どころか「物語=歴史」です。
盛るのが当たり前だったということです。まさに映画における「これは真実の物語である」です。
ロトルー三世は一一二〇年、アルシス修道院の再確認文書に署名した際も、依然としてノルマンディーに滞在していました。
ですがトゥデラ征服後、ロトルー三世はサラゴサで領地を授与されています。
つまりロトルー三世は、遠征を支援するために金銭か兵士を送っていたと推測されます。
ロトルー三世は、一一二三年まで、おそらく一一二一年にはアラゴンに到着していました。

最初の参戦は、おそらくレリダへの遠征でした。

一一二四年から一一二五年の冬、ロトルー三世はアリカンテからバレンシアにつづく街道を守るイスラムの要塞への遠征を指揮しました。
ムルシアから来るイスラム軍がこの街道を通ってバレンシアに進軍することが多かったので、ここはアル=アンダルス東部の重要な戦略的拠点でした。
このロトルー三世の遠征は、一一二七年から一一二八年にかけて行われたアルフォンソ一世のアンダルシア遠征と連動して計画された可能性があります。
一一二五年、ロトルー三世は随行員を伴ってノルマンディーに戻り、トゥデラの指揮をロベール・ビュルデという部下に委ねました。
ロトルー三世はアンダルシア遠征には参加しませんでした。ノルマンディーでは、アルフォンソ一世のアンダルシア遠征はロトルー三世の功績を妬んで行われたのだ、という噂が流れました。
ロトルー三世は一一三〇年、アルフォンソ一世がバイヨンヌで包囲戦を行っていた際、アルフォンソ一世のもとに戻りました。
包囲戦中のアルフォンソ一世は、以前トゥデラに与えていたフエロ(住民に授与する特権)を、小さな街コレラに授与しました。
コレラの城は一一二八年、王からロトルー三世に与えられていたので、ロトルーも署名しました。
ロトルー三世が統治者として最後に記録されているのは、一一三一年の私的文書においてです。
一一三二年三月、アルフォンソ一世がAsinにフエロを授与した際も、ロトルー三世は立会人として署名しています。
ロトルー三世はこの時点でもイベリア半島に滞在していたことになります。
聖地への二度目の旅
一一四四年より前のいくつかの時期、ロトルー三世は十字軍として中東に戻ったのですが、北フランスのお偉方であちらに戻ったのはわずかな人数でした。
この二度目の旅で、ロトルー三世はいくつかの聖遺物を手に入れ、自身がラ・トラッペに建立した修道院に寄贈しました。
取り忘れたアイテムをサブクエスト攻略後に取りに戻った、とでも例えたくなるような行動ですが、財産を修道院に寄贈する行為も貴人によく見られるテンプレです。
財産を寄贈する理由については、通常、天国への階段、魂の救済のため、といった説明がなされて終わりです。
マタイの福音書第六章にはこうあります。
人は神とマモン(富)の両方に仕えることはできない。
ロトルー三世は北フランスの伯爵で、数々の遠征を繰り広げました。ピレネーの農民などとはちがい、ある種の知恵は備えていたはずです。
クリュニーを筆頭とした修道院の政治的影響力を考えると、少なくとも次の代、つまるところ「家」への現実的なご利益は期待できそうです。
もちろん完全な打算とは言い切れませんが、寄贈は当時のトレンドだった、とはいえます。
伝説化した英雄ギヨーム・ド・ジェローヌも、晩年は隠居し修道士になりました。
現代でも、大富豪は財団を立ち上げては寄付をしています。もちろん「世界から貧困をなくす」ためではありません。
単なる税金対策なのですが、理由を考えようと思えば以下記事のようにいくらでも難しく考えることができます。
実際は、財団設立も修道院建立も、現実を舞台にしたゲームのルールです。
中世ヨーロッパにおいて「ゲーム」を制作したのは、修道士などの作家たちです。
単純に、修道院建立や寄進はありがたいものです。現代のお医者さんたちも、最後は「ガン」に罹って死ぬと思い込んでいるわたしたちをありがたく思っていることでしょう。
ロトルー三世は、スペインにおいては将来のナバラ王、ガルシア・ラミレスと関係を築きました。
ガルシア・ラミレスは、ロトルー三世の妹Juliana du Percheの娘、マルガリータと結婚しました。
マルガリータの娘マルガリータは、シチリア王グリエルモ(ギヨーム)一世(一一二〇年~)と結婚しました。
シチリアといえばノルマン人です。
グリエルモの妻マルガリータは、ロトルー三世の末子で非嫡出子の従兄弟、Stephen du Percheを高い官職に任命し、別の従兄弟Gilbertをグラヴィーナ伯に任命しました。
今回はパーシヴァルのモデルかもしれないロトルー三世についてお伝えしましたが、当時はどのようなオープンワールドRPGだったのか、の見通しが立ったのではないでしょうか。

功績を上げれば「騎士階級」になれる、というインセンティブは、まちがいなく戦を助長します。
騎士道物語などを記す修道士や教会関係者は、さらに物語でこの流れを補強しようとするでしょう。
結果、「騎士」は当たり前の存在になりました。そして「騎士」「恋愛」「ガン」については、だれひとり明確に説明できません。
そもそもフィクション由来、フィクションが現実を飲み込んだ結果だからです。
そのためフィクションとしての騎士、わたしたちが知っている騎士がじつは「騎士」についての正しい説明となり、逆に「騎士とはなにか」「恋愛とはなにか」などとこねまわせばこねまわすほど、皮肉にも「正しさ」から遠ざかっていきます。
医者に「ガンです」と宣告されたとします。その瞬間、わたしたちはショックを受けます。なかには失神する人もいるでしょう。
ですが世にあふれるフィクションたちによる執拗なメッセージがなければ、だれひとり失神しません。ショックも受けません。
「ああ、それ悪い病気なんですか」くらいから会話がつづくだけです。ガンがなにかを知らないからです。
お気づきになったかはわかりませんが、医者の「ガンです」は呪文そのものです。ハリー・ポッターの「ステューピファイ」です。
魔術は存在します。ガンについての「正しい」知識をわたしたちが持っているからこそ成し得る魔術です。
ここで「でも予防のためには知っておくべきでしょ?」と思われた方は、かなりの重傷です。
「ガンの予防」についても、無数の情報が垂れ流されています。そして予防が大切だといいながら、気が向いたときにたまに実践するくらいです。
「エビデンス」に基づく情報の垂れ流しはともかく、だれひとり明確に説明できない「ガン」について、どのように予防をするつもりなのでしょうか。
フィクションの恐ろしさがおわかりいただけたでしょうか。「ガン」も「恋愛」も「騎士」も、知らないほうがましなのです。
ですが翻って、「ガンの予防」と称して禁煙などをする人のほうが、現在の現実においては「正しい」行為です。
ここまで現実がフィクション化してしまったからには、ロトルー三世のように「現実」を受け入れ、このオープンワールドRPGで戦うのみです。
「もうどうしようもない」というのが、フィクションの真の恐ろしさです。

皮肉でもなんでもなく、最後は「ガン」に罹って苦しみながら死ぬべきです。受け入れる人生のほうが相対的に幸せになれます。
ロトルー三世は伯爵にまで上り詰めました。これも皮肉ではなく、さまざまなメインクエストやサブクエストをこなしながら、現実というゲームを大いに楽しんでください。
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