119.ジョリー・ロジャー
画像は以下のウィキペディアから転載。
シチリア王国
アキテーヌ公ギヨーム十世(一〇九九年~)とシチリア伯ルッジェーロ二世(一〇九五年~)は、対立教皇アナクレトゥス二世(生年不明)の支持者でした。

アナクレトゥス二世については前回お伝えしました。
前教皇ホノリウス二世(一〇六〇年~)が死んだあと、二人の教皇がそれぞれ選出され、ローマカトリック教会は大混乱に陥りました。
もう一人の「教皇」は、インノケンティウス二世(一一四三年~)です。

ホノリウス二世はトロワ公会議においてテンプル騎士団を承認した教皇ですが、有名な叙任権闘争もこの人の働きかけによって勃発した事件でした。
対立教皇アナクレトゥス二世の「在位」は、一一三〇年から死んだ一一三八年までした。
このアナクレトゥスの支持者ルッジェーロ二世は、一〇七一年から一一〇一年まで初代シチリア伯として統治したノルマン貴族、ルッジェーロ一世(一〇三一年ごろ~)の息子です。

ルッジェーロ一世はノルマンディーで生まれ、一〇五七年に南イタリアに渡りました。九九九年から一一三九年までつづいた南イタリア征服の一環としてです。
ルッジェーロ一世は一〇六一年から、八三一年以来シチリア島を支配していたイスラム王国、シチリア首長国に対するいくつかの軍事遠征に参加しました。

シチリアは、チュニジアのスンニ派アグラブ朝、次はエジプトのシーア派ファーティマ朝、と次々に支配を受けていた島でした。


ルッジェーロ一世は、一〇九〇年までにシチリア島全体を征服しました。一〇九一年にはマルタを征服しました。
ルッジェーロ一世が築いた国家は、一一二七年にプーリア公国と合併し、一一三〇年にシチリア王国となりました。
ルッジェーロ二世
ルッジェーロ二世は、ルッジェーロ一世と三番目の妻アデライデ・デル・ヴァストの息子です。
ルッジェーロ一世は一一〇一年に死に、アデライデはゴドフロワ・ド・ブイヨン(一〇六〇年~)の弟、エルサレムのボードゥアン一世(一〇六五年ごろ~)と結婚しました。
ゴドフロワ・ド・ブイヨンたちについては、もういうまでもないかと思われます。
これでアデライデはエルサレム王妃になったのですが、ボードゥアン一世の妻アルダがまだ生きていたので重婚の片棒担ぎです。
ルッジェーロ二世は、アルフォンソ六世(一〇四〇年~)とイサベルの娘エルビラと結婚しました。
アルフォンソ六世についても、もういうまでもないかと思われます。
エルビラの母イサベルは、アルフォンソ六世の愛人の一人、セビリアのタイファ王アル・ムタミドの娘(アル・アンダルスの資料では義理の娘)サイーダと同一人物だと考えられています。
サイーダはムラービト朝によってセビリアが落とされたあと、庇護を求めてアルフォンソ六世の愛人になりました。
その後キリスト教に改宗し、洗礼名イサベルを名乗りました。
ルッジェーロ二世とエルビラの結婚における契約では、エルサレム王ボードゥアン一世とアデライデに子供ができなかった場合、エルサレム王国の王位継承者はルッジェーロ二世になることが定められていました。
デビッド・ハッチャー・チャイルドレスは、著書『Pirates & the Lost Templar Fleet(海賊と失われたテンプル騎士団の艦隊)』という本の中で、ジョリー・ロジャーは実際にはシチリア王ルッジェーロ二世にちなんで名付けられたものであり、自分の船に骸骨と二本の骨を交差させた旗を掲げた最初の人物と信じられている、と指摘しています。
「ルッジェーロ」は英語のロジャーに対応します。ルッジェーロ二世は「Roger II」です。
https://www.ancient-origins.net/history/ultimate-pirate-branding-symbol-origin-jolly-roger-002696
ジョリー・ロジャーというのは、おなじみの海賊旗を指す言葉です。

このジョリー・ロジャーは、死体愛好物語「シドンの頭骨」の伝説に関連しています。
この伝説はまた、アンジュー家とリュジニャン家のメリュジーヌ伝説にも関連し、これはエルサレム王ボードゥアン二世(一〇七五年ごろ~)とアルメニアのモルフィア・ド・メリテネの関係に基づいています。
このルッジェーロ二世は、テンプル騎士団の団員でした。
ルッジェーロ二世のマント
イスラム暦五二八年(西暦一一三三年~一一三四年)の日付が記されたルッジェーロ二世の儀式用マントは、ファーティマ朝芸術の傑作とされ、神聖ローマ帝国の礼装の一部を構成していました。

このマントはノルマンの宮廷の多文化性をあらわす象徴で、パレルモにおける交易の象徴もありました。
マントはビザンツ帝国から輸入された赤い絹が使われ、真珠はアラビアの湾で取れたものです。
作成したのは宮廷直営の工房で、この工房はファーティマ朝ではティラーズと呼ばれました。
また、作品につづれ織りや刺繍であらわした聖句や祝福の言葉、カリフや注文者の名前、年号などの銘文もティラーズと呼ばれました。
ようするにその要素がマントに見られたので、ファーティマ朝の作品の一つだと判断できたわけです。
このような文字入りの織物はイスラム初期に高く評価され、「ヒルア(栄誉のローブ)」の儀式において、宮廷人や大使に贈られました。
これはカリフ側への個人の忠誠の象徴として機能していました。
ウマイヤ朝カリフ制がスペインで反映するにつれ、ティラーズの影響は近隣のヨーロッパ諸国にも広まり、それぞれの国の芸術や象徴性にも浸透としていきました。
オカルトと同様、中世ヨーロッパにおける「文化」の伝播はイスラム経由でした。
紀元後七〇年のエルサレム神殿の破壊以降、ユダヤ人が失っていた叡智を翻訳し保存したのはイスラムの連中です。そして戦争などでの接触によって、ユダヤ人自身も古代の叡智を取り戻し、カバラなどの発展につながっていく、という流れです。
ルッジェーロ二世のマントはその象徴ともいえます。織物が伝わるだけならいいのですが、程度の高い文化の中にはもれなくオカルトの叡智が含まれているわけです。
ちなみに裾の部分には、クーフィー体で記されたティラーズがあります。
ここに、幸運、栄光、威厳、完璧、寛容、優越、歓迎、繁栄、寛大さ、輝き、誇り、美しさ、欲望と希望の達成、昼夜の喜びが満ち溢れ、絶えることなく、変化することなく、栄光、献身、保存、保護、機会、救済、勝利、能力とともに、ヒジュラ暦五二八年、シチリアの首都で、王侯の財産によって制作されたものである。
二頭立て戦術
教皇たちはかねてより、南イタリアにおけるノルマン勢の勢力拡大を警戒していました。
教皇ホノリウス二世はルッジェーロ二世に何度か対抗しようとしましたが、どれも失敗に終わりました。
一一三〇年、ホノリウス二世が死ぬと、お伝えしたとおり教皇の座を狙う二人の候補者があらわれました。
ルッジェーロ二世はインノケンティウス二世に対抗し、対立教皇アナクレトゥス二世を支持しました。
その支持の報酬として、アナクレトゥスは「即位」後、教皇勅書によって「シチリア王」の称号を確認しました。
ちなみに「教皇が二人」というのは、どちらも教皇として働いている、という状況です。

セガと任天堂と同じで、二頭立てで対立させると波風が立ちます。市場に任せても対立は起きますが、あえて起こすこともできます。

インノケンティウスを支持したクレルヴォーの聖ベルナールは、アナクレトゥスとその「半異教徒の王」に対する連合を組織しました。
このベルナールには、フランス王ルイ六世、イングランド王ヘンリー一世、神聖ローマ帝国の皇帝ロタール三世が同調しました。
ルイ六世は一一三〇年、エタンプでフランス司教たちの全国会議を招集しました。
そこで教皇の座を争う二人の裁定者として、聖ベルナールが選ばれました。
それから一一三一年末までに、フランス、イングランド、ドイツ、ポルトガル、カスティーリャ、アラゴンの諸王国が教皇インノケンティウス二世を支持しました。
一方、イタリアの大部分、南フランス、シチリア、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレムのラテン総主教たちは対立教皇アナクレトゥス二世を支持しました。
アナクレトゥスの支持者はだいたいユダヤがらみです。
聖ベルナールはこれらの地域の支持者を説得し、インノケンティウス二世への支持を呼びかけました。
一一三四年、聖ベルナールはアキテーヌ公ギヨーム十世を説得し、分裂は集結しました。

ギヨーム十世は、アリエノール・ダキテーヌの父親です。このアリエノールとヘンリー二世の結婚によって、巨大なアンジュー帝国が形成されました。

ヘンリー二世はヘンリー一世の子供ではありません。教皇の対立と諸侯の対立、そして南フランスからのイングランドの「侵略」は、ユダヤがらみの流れとして興味深いものがあります。
いわくありげな人たちに支持された対立教皇アナクレトゥス二世の家は、ローマで主要な銀行家でした。
ノルマン人支配の終焉
ルッジェーロ二世とアナクレトゥス二世の同盟に不満を抱いたインノケンティウス二世は、ロタール三世にシチリアの王冠を約束し、ノルマン勢力への侵攻を説得しました。
一一三六年、ロタール三世とビザンツ皇帝ヨハネス二世コムネノス(一〇八七年~)の連合軍は、南イタリアを制圧し、ノルマン勢を降伏に追い込みました。
ルッジェーロ二世は戦争を避けるために交渉を行い、プーリア地方をロタール三世に差し出しました。
一一三八年に対立教皇アナクレトゥス二世が死に、その一年後、インノケンティウス二世は第二ラテラノ公会議でルッジェーロ二世を破門に処しました。
これに対してノルマン勢は、ローマ近郊のガッルッチョで教皇軍を奇襲し、インノケンティウス二世を捕らえました。
一一三九年三月二五日、ミニャーノ条約において、インノケンティウス二世は自分の解放と引き換えにルッジェーロ二世の破門を解きました。無理のないことではあります。
ルッジェーロ二世はシチリアの最高の王として確認され、嫁のエルビラ・デ・カスティーリャの息子のルッジェーロ三世(一一一八年~)はプーリア公、別の息子のアルフォンスはカプア公として確認されました。
ルッジェーロ三世の妻は、ブロワ伯ティボー二世(一〇九〇年ごろ~)の娘イザベルでした。
このティボーの父は、「臆病者の十字軍」を率いたブロワ伯エティエンヌ二世です。
奥さんがいるはずのルッジェーロ三世は、レッチェ伯アッカルド二世の娘エンマを愛人として抱えていました。
このエンマとのあいだには、ルッジェーロ三世自身の後継者であるシチリア王タンクレーディ(一一三八年~)を含む二人の非嫡出子がいました。
タンクレーディの短い治世は、シチリアにおけるノルマン人の支配の終焉を告げることになりました。
このように系図を見ていくと、どの家と結婚しどのように血を受け継いでいくかが非常に大事だとわかります。やはり私生児は「ダメ」なのです。
アリエノール・ダキテーヌの息子、有名な獅子心王リチャード一世は、自分たちが悪魔の血統であることを自ら語っていました。
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