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闇 504(49歳無職社会不適合者編)

闇 504(49歳無職社会不適合者編)

2026/03/22 sun
前回の章


二千二十年十月二十六日、月曜日赤口。

さて、久しぶりにフリーになった。
とりあえず一週間はゆっくり過ごそう。

フェイスブックではこのような表現で投稿をするも、実際は四十九歳ただの無職。
何だか必死にせかせか生きていくのが馬鹿らしくなり、今後どうするかは未だ未定のまま。

別にそれでも誰かに迷惑を掛けている訳ではない。
今の自分にはこんなゆとりある何も時間が必要な気がした。

無職一日目は、ワクワク感のある楽しみなものにしたい。
昨日いつものように大久保駅西口のスナックゆうこへ行った時、知り合った錐。
綺麗な子がこんな店に入ったなあと一目見た時思った。

「君、名前は何て言うの?」
「錐です」

「す…、い……? 変わった名前だね。漢字はどう書くの?」
「ん-……」

彼女は中国人らしく、日本へ来て丸二年住んでいるようだ。
それでも流暢な日本語を使うので、一見普通の日本人にしか見えない。

携帯電話の変換で『錐』という漢字を見せてきた。
異性に対し、いいなあと感じたのは久しぶり。
俺はさり気なく彼女へ話し掛け、連絡先を交換する。

「良かったら今度食事へ行かないかい?」
「いいですよ」

「いつなら都合いい?」
「明日大丈夫です」

「え、明日?」
「岩上さん、都合悪いですか?」

「いや、そんな事全然ないよ。じゃあ明日洒落たお店探しておくよ」
「楽しみにしています」

清楚で素直な感じの彼女。
俺は錐のそんなところをとても気に入ってしまった。

送別会で内藤ノブと二人になった時、幸い彼は席についた太った女と夢中に話していたので、俺はそのチャンスを無駄にせず錐との距離を縮めたのだ。

彼女との約束は夕方から。
お洒落で眺めのいいレストランをインターネットで探す。

さすがに大久保周辺は、そんな店ないよな……。

新宿駅西口エリアまで検索すると、夜景の写真が目に留まる。
野村ビル四十九階ダイニングバー響

中々良さげな感じだ。
早速予約をしてから錐へLINEをして、大久保駅北口へタクシーへ迎えに行くと伝えた。

池袋のちかからLINEが届く。
彼女のキャバクラへ一度もあれ以来行っていないのに、俺は他の女を誘って食事なんて、何をしているのだろうな……。

まあ彼女は言い方悪いが、所詮キャバ嬢。
錐はスナックで働くものの、飲み屋専属の女ではない。
他にも真面目な仕事をしているのだ。
無理くり自身の感情を正当化させる。

ネオジオミニで昔懐かしの対戦格闘ゲームをして、待ち合わせまでの時間を潰す。

「……」

考えてみれば二千六年辺りまでが、この手のジャンルのピークだったのだ。
気付けばあれほど熱中したゲームも、当たり前のようにやらなくなっていた。
それを二十年以上経ったからと再びプレイしても、本当に最初の内だけなんだよな。

ゲップが出るほどやり尽くした当時。
むしろほのぼのできる『ジョイジョイキッド』のような『テトリス』をパクったようなパズルゲームのほうが、面白さを感じるほど。

考えてみれば四十九歳の無職になった男が、初日に大久保のラッキーホステルで昔のゲームをして過ごすって、かなりヤバい構図じゃないのか?

時間を見ると、錐との待ち合わせまでちょうどいい感じになっていた。
小滝橋通りでタクシーを捕まえ、大久保駅へ向かう。
白のカーディガンを身につけた錐の姿が見えたので、停車して彼女を中へ招く。

「どこ行くですか?」
「野村ビル。そこに錐が喜びそうなレストランを見つけてね」

「わー、楽しみです」
「何だよ、先に報酬もらっちゃったな」

「報酬? 何がです?」
「君の百万ドルの笑顔。店へ入ってから見たかったのに」

無言で俺の腕を軽く叩いてくる錐。
中国人でここまで日本語を理解できるなんて、苦労して勉強してきたんだなと感心した。

フリープライベート初日はまったりと。
まだ二十代半ばのチャイナガールをエスコートしながら、響店内へ入る。

2020/10/26 野村ビル49F ダイニングバー響

「わぁー…、とても綺麗です……」
「良かった。気に入ってくれて」

四十九階からの展望。
店側も気を利かせてくれたのか、窓際のカップルシートを用意してくれていた。
酒を注文して席へ腰掛ける。

浅草ビューホテル時代を思い出す。

あの時は二十八階だけど、それより二十階以上の高さ。
しかし横浜のように海が見える訳ではない。
それでも彼女にとっては自然と笑みがこぼれるような夜景には違いなかった。

「これからも錐と、俺が知っている色々な場所へ連れていってあげたいな」
「本当に楽しみです」

さり気ないデートの約束を交わす。
この子となら、こうして楽しい時間をずっと味わえるんじゃないか。

結婚なんて事になったら、国籍問題とかどうするんだ?
いや…、それ以前に働かないといけない。

「岩上さん、何が面白いですか?」
「ん、何故?」

「景色見て笑っていたから」

無職の五十手前の男が、半分年の離れた中国人女性との先の未来を想像する。
その滑稽で愚直な思考に対し、自分に呆れた笑いが表情に出ていたようだ。

「いや…、君と横浜にあるインターコンチへ連れて行ったら、どんな反応するのかなと思ってね」
「私、横浜は行った事ないです」

「時間合わせて今度連れて行くよ。料理は俺がコースを頼んでおいたんだけど、メニュー見るかい?」

2020/10/26 野村ビル49F ダイニングバー響

「凄い豪華ですねー」
「錐、嫌いなものはある?」

「私、好き嫌いないです」
「偉いね。俺は魚とか苦手。だから錐、俺の分も食べてね」

前菜盛り合わせが置かれる。
松茸の茶碗蒸し、トマトのマリネチーズ掛け、鴨肉たたきに、春菊のおひたし、そして鯖寿司。

2020/10/26 野村ビル49F ダイニングバー響

「美味しそうですー」
「錐、俺の中で食べたいもの取っていいよ」

「岩上さんのが無くなってしまいます」
「だって魚苦手って言ったじゃん。どうせ錐が取らなくても、残してしまうだけなんだ」

春菊も魚類も全部嫌いなんだ。
俺は何故もっとメニューをよく吟味しなかったのだろう。

続いて十四種類のサラダがそっと置かれる。

2020/10/26 野村ビル49F ダイニングバー響

酒を飲んでは話し掛け、夜景を眺めた。
異性との甘い時間をこうして過ごすのは、いつ以来だ?

刺し身盛り合わせが置かれるも、俺はどうせマグロしか食べられない。
マグロだけ小皿へ移し、残りを皿ごと錐へ渡す。

2020/10/26 野村ビル49F ダイニングバー響

「岩上さん、ほとんど食べてないです」
「だってこの魚以外食べられないんだもん」

牛頬肉と秋野菜のシチューとメニューには書いてあったが、どう見てもメインディッシュの肉料理にしか見えない。
こういうちょこちょこっとしたものをお洒落に出す方が、客受けいいんだろうな。

2020/10/26 野村ビル49F ダイニングバー響

続いてグラニテ。
グラニテとは、フランス料理のコースにおいて供されるシャーベット状の氷菓。

2020/10/26 野村ビル49F ダイニングバー響

不思議がる錐へ、コース料理のうんちくを簡単に説明する。

「本来コースの途中で肉料理とローストの間…、未だと簡略化され、魚料理と肉料理の間に供されることも多いんだけど、目的はただの口直し」
「岩上さん物知りですねー」

事前に調べておいて本当に良かった。
こればかりはホテルで過去働いたといっても、専門外なのでまったく知らなかったのだ。

海老クリームコロッケ。
まあフライにしてあるから、これはまだ何とか食べられる。

2020/10/26 野村ビル49F ダイニングバー響

炙り真鯛と香味海苔の合わせ飯。
これも炊き込んであるから、何とか大丈夫だろう。

2020/10/26 野村ビル49F ダイニングバー響

「岩上さん、もう私お腹いっぱいになってきましたです」
「うん、俺はいくらでも食べられるから大丈夫だよ」

最後にデザート。
普段ケーキを食べないのでまるで種類は分からないが、杏仁豆腐のような白いプリンみたいなものと、小さなケーキが三種類。

2020/10/26 野村ビル49F ダイニングバー響

「ねえ、錐。デザートは別腹なんでしょ? 俺、甘いの苦手だから、全部どうぞ」
「え? いいですか? 嬉しいです」

「ちょっとタバコ吸ってくるね」

このバーにいる間は一切駄目だと思っていたので、分煙だけどタバコ吸えるのはかなり有難い。

2020/10/26 野村ビル49F ダイニングバー響 錐

席に戻りがてら、携帯電話で彼女の横顔を撮る。
黒のロングヘアーで隠れ、顔までちゃんと写っていない。

「もー、恥ずかしいです」
「あはは、ごめんごめん。錐の後ろ姿を見ていたら、奇麗だなとついカメラを構えてしまったんだ」

一つだけ違和感を覚えたのが、彼女の喋り口調。
正しい日本語ではあるが、まだ感情表現を異国の言葉で話すまでは至らないのだろう。

会計を済ませ通路へ出る。
エレベーターを待つ間、俺は錐を自然と抱き寄せた。
そしてそっと口づけをする。

「今日はこれからスナックゆうこへ出勤?」
「はい、そうです」

「じゃあ、ちょっと俺もこのまま顔出すよ」
「でも、たくさんお金遣ったのに悪いです」

「もちろん錐のいる時間帯だけ飲むよ。君が帰る時は俺も出る」
「明日朝から仕事なんで、私九時半までです」

「錐がいるなら、短い時間だろうが何でもいいんだ、俺は」
「もー…、恥ずかしいです」

俺は再び彼女を抱き寄せキスをした。
スナックゆうこでは少しだけ時間をずらし、彼女へ迷惑が掛からないよう配慮してから店へ入る。

目の前のグレンリベットを十二年と十八年、交互にストレートで飲みながら、チラリと錐を見た。
目が合うと、彼女は恥ずかしそうに視線を外す。

フェイスブックへ響での食事の投稿をすると、少しして九州のひろみからキチガイのようなメッセージが何度も届く。
俺がどの女とデートしようが、結婚して旦那もいるおまえには何の関係もないだろうが……。

すべて無視して、ショットグラスに酒を注ぐ。
錐の出勤時間が終わり彼女が帰ると、俺もさり気なくチェック。

このままラッキーホステルに帰るのも、何だか嫌だな。
時間に余裕があったので、ラッキーハウスへ自分の残っていた荷物を取りに向かう。

昨日の今日だ。
店内へ入っても懐かしさも何も感じない。

ちょうど引き継ぎの時間帯で、早番と遅番の従業員がいたので送別会のお礼を伝えた。

「岩上さん、本当に辞めちゃうんすか?」
「山下、おまえは今さら何を言ってんだよ。もう辞めたの、昨日で」

「撤回しちゃえばいいじゃないですか」
「馬鹿言えよ。送別会まで開いてもらって、翌日でやっぱ辞めるのやめます? そんな道理、通る訳ねえだろ」

そこまで俺を惜しむなら、何故コイツはあの時協力態勢にいなかったのか不思議でならない。

「岩上さんいないから、見て下さいよ。みっちゅも、暴れ放題すよ」

ホールを見ると、佐藤充が負けているようで大きな声を出しながら文句を言っている。

「分かったよ…。最後の仕事だ。俺が充を何とかするよ」

声を掛けると充は俺の顔を見て驚く。

「何だよ、岩ちゃん。ここ辞めたって本当なの?」
「ええ、色々とお世話になりましたが、昨日でラッキーハウスは退職しました」

「岩ちゃんいなくなっちゃ、つまんねえじゃん」
「大きな声出していたけど、今日結構負けたんですか?」

「もう十八万だよ、十八万! 高知競馬で勝った金が、いつもここで吸い取られるよ」
「まあ佐藤さん落ち着いて。他の打っているお客さんの邪魔しちゃ悪いですって。こっちで話しましょうよ」

彼の愚痴を聞きつつ、ホールから引き離す。
入口で延々と競馬の話を始める充。
他の従業員はまたかと落胆の表情。

仕事にも支障出るだろうから、俺がこの男を連れて店を出るか……。

店を辞めた身なのに、まるで自己犠牲で心中するようだ。
こういうのドラゴンクエストだと、自己犠牲呪文メガンテだよな?
自分の命と引き換えに、敵へ大ダメージを与える呪文。

充は敵ではないが、店にとって面倒な客な事は違いない。
俺は外で、これから彼の無駄な長話に付き合わなければいけなくなる。

正にメガンテだよな……。

「岩ちゃん、ラッキーハウス辞めて、次はどうすんのよ?」
「まだ何も決めていないですよ。少しはのんびりしようかなと」

「いい金儲けあるぜ?」
「……。悪い事じゃないでしょうね?」

「そうだ! 岩ちゃん、うちの会社来た事ないでしょ? どうせ暇ならおいでよ」

佐藤充から強引に誘われ、断る術もなく小滝橋通りへ向かう。

「どこまで行くんですか?」
「もうちょっと。この通りにラーメン次郎あるでしょ?」

「ええ、入った事はないですけどね」
「その裏にあるビルなんだよ」

「充さんって、何系の仕事なんです?」
「うちはパソコンの情報関係だよ。まあ、そこだから入れば分かるよ」

ひょっとして、充は俺を自分の会社の従業員として使おうと思っているのだろうか?
確かに十円レートのラッキーハウスで、沈没もせず毎月数十万の金を使える余裕はあるのだ。
悪い話じゃなければ、彼の言う金儲けの内容を聞く価値はあるかもしれない。

エレベーターでマンションの一室にある充の社内へ入る。
小綺麗に片付いた中々大きな空間。

来客用に大きなソファが置いてあり、ガラスのテーブル。
大型モニターが設置してある。
奥にはデスクワークができるテーブルが三席。

この男、こんな場所を維持しているなんて出鱈目ばかりじゃないんだなと、少しだけ見直す。

「コーヒーでも淹れるよ。そこ掛けててよ」

仮にここで働くとしても、ラッキーホステルからなら徒歩十分程度。
真面目な表の仕事、そして長年働きたかったパソコン系の仕事で食っていけるなら、そう悪くない。

「佐藤さん、タバコは吸っても……」
「テーブルの上に灰皿あるでしょ? 好きに吸ってよ」

セブンスターに火をつけ、ゆっくり煙を吐く。
この辺りなら何でも店はあるし、生活するにも不自由する事もない。
本田があそこの場所を辞める前教えてくれたのも、今こうしているのも、すべて時流の流れに沿って。

人生なるようにしかならない。
これも一つの流れの中……。

「はい、お待たせ。コーヒー飲んで」
「すみません、佐藤さん」

充は自身のオフィスの自慢話を始め、俺は今後雇い主になるかもしれない目の前の男の調子を取りながら聞く態勢に入る。

気が付くと時計の針は十二時を指していた。


二千二十年十月二十七日、火曜日先勝。

翌日になろうが何時間経っても充の話は延々と続く。
気付けば朝の四時を過ぎていて、さすがに睡魔が襲ってきた。

肝心の儲け話まで、ここまで時間を費やしたのに出てこないとは……。

まあ時間だけはいくらでもあるのだ。
後日聞けばいいか。

「佐藤さん、すみません。もう四時回ってますよ。俺もそろそろ帰って寝ます」
「じゃあさ、明日もおいでよ」

「了解です。とりあえず今日は帰って寝ますね」

充事務所を出て、そのままホテルへ戻る。
朝五時に寝て目を覚ますと朝七時。
睡眠時間二時間か……。

もう少し寝ておくか。

再び目を覚ますと、昼の二時半過ぎ。
すっかり夜行性生活の復活だ。
でも、こんなゆっくり寝たの久しぶりだな。

腹も減っているし、食べに出掛けよう。
どこへ入るか迷う事もなくまた行ってしまった、喫茶『ラ・ムー』。
近所にこんな喫茶店があるのは本当に有難い。

2020/10/27 大久保 喫茶店ラ・ムー

店内に貼られたランチタイムのメニュー。
定食系は八百円台。
パスタやカレーライスなどは七百円台。

2020/10/27 大久保 喫茶店ラ・ムー

ハンバーグライスに、ナポリタンを注文。

「えーと、もう一人来られるのですか?」
「いえ、自分一人ですよ」

「コーヒーも二つつけてよろしいのでしょうか?」
「ええ、一つはアイスで、もう一つはホットで下さい」

店の人は不思議そうな顔で、俺を見ていた。

2020/10/27 大久保 喫茶店ラ・ムー

何だかこの店いいなあ。
メニューも徐々に全種類制覇していこう。

店を出ると、二ヶ月は最低でもこの近辺にいるので探索をしてみた。
車のある通りでなく、奥まった道を宛てもなく進んでいく。

「ん? 何だ、ありゃ?」

細い道を真っ直ぐ進み、突き当りを右へ曲ると見えてくる滑り台。

2020/10/27 大久保 北新宿公園

結構な長さだ。
その奥にはちょっとしたベンチが見える。

2020/10/27 大久保 北新宿公園

まさか大久保を探索中、こんな公園を発見とは……。

2020/10/27 大久保 北新宿公園

大きな公園ではないが、とても心が休まるような感じの場所だ。
目の前には野球ができるようなグランドまである。

俺は椅子に腰掛け、タバコを吸いながらしばらくゆっくりした。
新宿という喧騒とした街の中、緑に囲まれのんびり過ごす。
何だかのどかでいいなあ……。

グランド内の塀沿いに沿って歩き、入口付近に『北新宿公園』と書いてある看板を見つける。

ゴミゴミした歌舞伎町や、機械的な西口オフィス街と違い、こういう感じのところが俺は好きだったのかと、再認識した。

それにしてもあの滑り台、子供が遊ぶには距離が長過ぎて危険性があるんじゃないか?
公園なのに、小さな子供の姿が誰も見えない。

この辺り一帯を歩いていて感じたのが、フワッと身体が楽になった感覚。
ひょっとしたら隠れたパワースポットなのかもしれないな。

そのままラッキーホステルへ戻り、またベッドへ横になる。
充から電話が掛かってきたが、あそこまで行くのが面倒になり、今日は用事があると嘘をついて眠った。

夜になり起きると、大久保駅方面へ歩いている。
軽く酒でも飲みたい気分だった。

大久保駅南口近くにある焼き豚『吾作』を発見。

中の様子を伺うと、老夫婦がカウンター席のみの手狭な空間で焼き豚を焼いている。
値段も安そうだし寄ってみようかな。

2020/10/27 大久保 やきとん吾作

酒二杯飲み、白モツ煮込みにやきとん五本のセットで千七百五十円。

2020/10/27 大久保 やきとん吾作

思った通り良心的で安い店だ。
部屋へ戻ると、ラッキーハウス時代の常連である深谷さんから電話が入る。

「今、君はあそこを辞めて何をしてんだね?」
「まだ二日目ですけど、のんびり何もせず過ごしていますよ」

「時間はあるんだな?」
「ええ、時間だけは」

「じゃあ明日私と酒を飲みに行こう。都合は大丈夫かね?」
「分かりました。何時ぐらいがいいですか?」

「むー、そうだな…。夜からでも大丈夫かい?」
「ええ、問題ないですよ。深谷さんの都合に合わせますから」

明日は深谷のおじいちゃんと酒か。
不動産の会長をやっているんだもんな。

こういう繋がりは大事にしておかないとね。
俺はベッドへ横になると、そのままいつの間にか寝ていた。


二千二十年十月二十八日、水曜日友引。

また目を覚ますと朝方。
五時に起きて、何を俺はするんだよ……。

まあ飯でも食いに行くか。

淀橋市場の伊勢屋食堂へ着くと、朝の五時を過ぎているのに営業していなかった。
何故だろうと思い、定休日を調べてみる。
市場の都合なのか、水曜日と日曜日が定休日だというのをすっかり忘れていたようだ。

せっかく外へ出掛けたのに、このまま帰るのも嫌だな……。

この陸橋を渡った側からでも、あの公園行けるよな?
そんな訳で朝の散歩知らない道を適当に歩きつつ、また北新宿公園まで行く。

2020/10/28 大久保 北新宿公園

誰もいないから滑り台やっちゃおうか…、いやいや、近所の人に見られたら、何だあの人って警察に通報されても嫌だしな……。

2020/10/28 大久保 北新宿公園

童心に返りたいのを懸命に抑えつつ、セブンスターに火をつける。

2020/10/28 大久保 北新宿公園

今度、錐をここへ連れて行きたいなあ。
俺は彼女に公園の写真を送る。

すぐ返信をくれる錐。
彼女は総武線の阿佐ヶ谷駅に住んでいるようだ。

いずれ広いマンションを借りて、彼女と一緒に暮らすもいい。
平穏無事でゆったりした毎日を送りたいものだ。

もっとこのような写真があったら送ってほしいと言うので、俺は地元川越の蔵造りの街並みや、成田山川越別院の画像を送る。
小江戸という変わった古風な画像に興味を示す錐へ、時間が合えばいつだって連れて案内するよと返す。

佐藤充から着信が入り、今日は何時に来るのか急かされる。
今日も予定があるから無理だと伝え、手短に切った。
今回は嘘じゃない。
夜になれば深谷さんと会う約束をしているのだから。

昼頃まで一人公園でのんびり過ごす。
ランチは帰り道にある喫茶店『ラ・ムー』へまた入る。

2020/10/28 大久保 喫茶店ラ・ムー

今日はドライカレーを注文。
この分じゃ、すぐにこの店のメニューを制覇できそうだ。
少し量的に物足りないが、ここは一旦返って寝て、夕方頃新たな店を探索しようではないか。

戻ると、池袋のちかから連絡があったので、適当な会話をして携帯電話を置く。
錐との関係が上手く行ったら、俺はこの子をどうするつもりなんだろうな。

ネオジオをプレイしながら寝落ちして、適当な時間に起きる。

大久保駅南口方面へフラフラと歩く。
ちょっと前まで西口だとばかり思っていたが、考えてみれば真逆は北口何だから南口で当たり前なんだよな。
何故西口なんて俺は思っていたのだろう。

スナックゆうこや赤レンガがある飲み屋通りにある生姜焼き専門店の『笑姜や』を発見。

何だか凄い店だな……。

2020/10/28 大久保 笑姜や

まあ俺一人だし、気取る必要もない。
中にある券売機で食券を購入するシステムなようだ。

2020/10/28 大久保 笑姜や

タレは種類が豊富で全八種類。
普通の生姜焼き以外にも味噌味ダレ、おろしポン酢、ピリ辛ゴマ、塩ダレ、カレー風味、理想のしょうが焼き丼、とんとろなど様々な味がある。
値段も安いし、持ち帰りもできるらしい。

2020/10/28 大久保 笑姜や

味噌味ダレのしょうが焼きを頼んだが、実物は結構ショボく感じた。
それでも安いし、普通に食べられたし、またここには来てしまうのだろう。

帰り道大明飯店側のほうから、新大久保駅へ向かう。
大久保通りにあるエスパス。
久しぶりにマスクしてパチンコしたら、当たり前のように負けた。

深谷さんから電話が掛かってきて、東中野駅で待ち合わせする事になる。
時間的に余裕あるし、大久保駅から一区間しかないので、歩いて向かう事にした。

指定された東中野駅には早めに到着し、少し寂れた感じの駅前をフラフラ彷徨う。
昔ながらのオンボロパチンコ屋。
向かいにはかなり興味を惹かれるステーキハウス『おなかいっぱい』。

何だか凄い店名だな……。

2020/10/28 東中野 GRATO

その隣りには小洒落た感じのイタリアンレストラン『GRATO』。
何か東中野って、中々いい街なんじゃないのか?

オンボロパチンコ屋へ入り、少しだけ台を回すもまるで入らない。
やっぱり住むのは大久保のほうがまだ良さそうだ。

二千円だけ負けてパチンコを辞め、外でタバコを吸っていると、深谷さんの姿が見えてくる。

2020/10/28 東中野 GRATO

「今日はわざわざ時間を作って頂き、ありがとうございます、深谷さん」
「いやいや、岩上君の送別会を開いてなかったろ」

「そんなお気遣いまで……」
「このグラートへ入ろう」

「イタリアンですね」
「ここはワシの息子がやっている店なんだよ、フォフォフォ」

「え、深谷さんの息子さんがですか?」
「うん、長男は不動産を任せて、次男は料理が好きだったからね。だから店を持たせてやったんだ。さあ、入ろう」

「……」

正直深谷さんの息子が羨ましかった。

岩上家の家族を振り返る。
おじいちゃんは本当に立派だった。
天皇陛下から何度も勲章をもらうほど……。

だが、親父は遊び惚けた駄目な二代目。
俺はその三兄弟の長男に生まれた。
一番下の弟だった貴彦は、叔母のピーちゃんと内緒で養子縁組。

オマケに親父は内緒であれほど嫌がっていた加藤皐月と籍を入れ、家に棲みつくようになった。

殺意に溺れそうになった時、俺はあの家を出て横浜へ行ったのだ。
その時弟の徹也の話では、加藤皐月が家の金を四千万は持っていったと聞いた。

もっと親が子供の事をちゃんと考えていたら、深谷さんのようにそれぞれ子供たちの将来が安定するよう動いていたはずなのにな……。

「おい、どうした? 岩上君」
「あ、いえ…、いいお店だなと外観に見惚れてしまいました」

店内へ招かれ、息子さんを紹介してもらう。
明るい感じの好青年。
年は俺よりも若いまだ四十代なり立て。

親子関係の仲の良さを見ながら、普通ならこうして過ごせていたのになと思った。

「この岩上君はね、昔プロレスもやっていたんだよ。あのジャンボ鶴田の弟子だったんだ」
「え、当時の全日本プロレスですよね? すげー」

俺が試合したのは総合格闘技だったが、おじいちゃんの深谷さんにそれを説明しても、いまいち理解できないだろう。
ワインで乾杯をしつつ、料理が出てくる。

2020/10/28 東中野 GRATO

イタリアンドレッシングがたっぷり掛かったトマトのサラダ。
皮まで丁重に向いてあり、丁寧な仕事だ。

「あれ? 上田さん、来ないな」
「上田さんがどうしたんです?」

「送別会と言っても、二人だけじゃ淋しいだろ? だからいつもラッキーハウスへ一緒に行く上田さんも誘ったんだけどなあ……」

深谷さんと仲良しの上田さんは同世代。
ラッキーハウス時代でも、ポーカーゲーム好きでスマートに遊ぶイメージしかない。
いい加減な性格の人じゃないのは知っていたので、何故約束の時間に来ないのか不思議だった。

2020/10/28 東中野 GRATO

「どうぞ、スップリです。ライスコロッケですね」

スップリも美味しく、ただ親の恩情を受けて店をやっている訳ではないのが分かる。

弟だった貴彦とは、えらい違いだ。
あれはいつの時だ?
俺がまだ二度目の歌舞伎町へ戻る前。
佐川急便時代の時か……。

元々住み込み用の従業員だった建物を取り壊し、新しく作った住居兼貸店舗。
まだ物件が空いていた頃、俺はそこで岩上整体をまた始めたいと言った。
しかしそれを猛烈に反対したのはピーちゃん。
「ここは貸店舗用に作った建物だから、おまえは駄目だ」
冷めた口調で言われた。
あとから弟の徹也から聞いた情報。
厳しいレストランの修行についていけなくなった貴彦は、仕事を辞めたらしい。
そのタイミングで発覚した麻美の妊娠。
岩上整体を断ったはずの物件には、気付けば貴彦と麻美が二階の新居へ住み始め、一階では内装工事が入る。
生前贈与で現在貴彦と麻美が経営している無家賃のカフェ『北風と太陽』。
一体何なんだ、この生き物共は?
常に自分たちの都合ばかり主張。

「……」

岩上家の長男とは名ばかり。
金や住む場所、そういったものに関しては貪欲な生物。
これだけ時間が経つのに、あいつらを思うと未だ吐き気を催す。

「すみません、ちょっとトイレ行ってきますね」
「岩上さん、奥の左手にありますよ」

2020/10/28 東中野 GRATO

美味しい料理に、素敵な親子関係。
そのしっかりした絆を目の当たりにして、俺はトイレへ駆け込み手を突っ込んで吐いた。

一体俺は何をしているんだよ……。

せっかく深谷さんの恩情で送別会へ招かれいるというのに。
あまりの情けなさに声を出さずに咽び泣く。
自分では整理できていたはずなのに、未だ根底に根付くトラウマは根深かったのを自覚する。

早く戻らないといけない。
今ならただのトイレで済む。
洗面台で顔を何度も洗い、ポケットティッシュで拭き取る。

2020/10/28 東中野 GRATO

戻るとちょうど深谷さんがチーズのピザを摘まんでいるところだった。

「食欲旺盛ですね」
「食べる時は食べないとな。食欲無いと人間長生きできんぞ、フォフォフォ」
「親父は元気良過ぎるんだよ」

「……」

心からこの親子を祝福しよう。
俺は到達できなかったこの眩い素敵な光景を。

「岩上君、これ食べてみな」
「パスタの細麺をソースにつけて食べるんですか?」

2020/10/28 東中野 GRATO

息子さんの説明によると、このお店のグラート特製つけ麺スパゲティは、千以上の料理店が競う『中野区逸品グランプリ』において、一位金賞を受賞した品らしい。
雑誌にも載っていて、俺は丹念に記事を読む。

全体的に値段も良心的、また味もしっかりとした美味しい王道的なイタリアン。

こんな家庭を俺も築いてみたかったなあ……。

あの錐と一緒に住んで、子供を作って……。

「ぅ……」

また出てくる吐き気。
俺は少し酔ってしまったと言い訳をして、トイレへ懸け込む。
喉へ指を突っ込み、強引に吐いた。

生涯消えない十字架を背負った俺が、錐との子供?
途端にフラッシュバックする業。

自問自答を繰り返す。
俺は何もできなかった。
何かしら言ってやれないのか?
言えないからこうなった。
子供が可哀想だ。
いや、この状態で無理に産んでも不幸なだけだ。
どちらが悪いのか?
両方に責任がある。
完全に噛み合わなくなってしまった歯車。
修復不可能だ。
今後、本当に苦しいのは俺ではなく百合子である。
俺は精神的だけだが、彼女は精神的プラス肉体的苦悩も加わる。
精神的な面でも俺の数十倍は上なはずだ。
あまりの辛さに俺は親父の部屋のドアをノックしていた。
「何だ? テメー」
親父の部屋にはまた加藤皐月もいた。
「何だよ、黙って」
「い、いや……」
何故俺は親父のところになんか……。
雀會の一件であれほど大喧嘩したばかり。
俺はまるで軸が無い。
すべてが中途半端だ。
「顔色悪いぞ?」
「お、俺さ……」
「あ?」
「こ、子供おろす事にしたんだ……」
「あのバツ一のか?」
親父は軽蔑した目で俺を見ていた。
「あ、今何て言った?」
「智ちゃん、あなたはまだ一度も結婚していないんだし、ちゃんとした子としたほうがいいわよ」
いきなり加藤皐月が口を挟んでくる。
「うるせぇっ!」
俺はドアを思い切り叩きつけていた。
あんな女に何でそんな事を言われなきゃいけない?
おまえらが今まで何をやってきたんだ。
怒りが全身を包んでいた。
壁を思い切り蹴ると、大きな穴が開く。
おじいちゃんの建てた家を壊してどうする……。
そのまま階段を降りると、居間でおばさんのピーちゃんがコーヒーを飲んでいた。
「何だい?」
俺の姿に気付くとピーちゃんは声を掛けてくる。
「お、俺さ……」
「何だよ?」
感情だけが先走り、大粒の涙を流していた。
「何をいきなり泣いてんだ」
「こ、子供をお、おろす事にした……」
それだけ言うと、その場に突っ伏して泣き出してしまった。
「何だよ、何を泣いてんだ? 自分のした事だろ? ちゃんとしな」
「う、うん…。ちゃんとする……」
それだけ言うと、俺は自分の部屋に戻った。
ちゃんとするって一体何だ?
どうすればちゃんとしたって事になるんだ?
どうしたらいい?
今から百合子に……。
馬鹿、電話したって出てくれる訳ないじゃないか。
じゃあ、どうするんだよ?
おじいちゃんに相談を……。
馬鹿、これ以上おじいちゃんにいらぬ心配を掛けさせるつもりなのか?
じゃあ、どうしたらいい?
分からない。
答えが出ない。
もう俺には何も分からない。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁーーーーーーーーーーーーっ!」 
無意識の内に叫んでいた。
部屋の壁に何度も頭を叩きつけた。
このまま壊れてしまえばいいんだ。
目の前の壁がどんどん赤くなっていく。
気にせずさらに強く頭をぶつけ続けた。
不意に視界が暗くなり、意識が遠退く。
後頭部に衝撃を受けた。
目を開くと天井が見える。
俺は地面に倒れたのか?
それで少し我に帰る事ができた。
錯乱する一歩手前。
このまま気が狂ってしまったほうが、どんなに楽か……。
馬鹿野郎!
そのあとどうするんだ?
親父は絶対に面倒など見やしない。
おじいちゃんに迷惑を掛けてしまうだけなんだぞ。
自分のしでかした不始末なんだ。
もっと冷静になれ。
自分でケツを拭け。
「……」
お互いが納得して同意書に判子を押したのだ。
何もできないだろう。
俺がこれ以上何か百合子に行動すると、彼女自身が嫌な思いをするだけなんだ。

「おえっ…」

せっかくの旨い料理が台無しだ……。

胃袋の中にあるものをすべて吐き、少しは楽になる。
こんな俺が…、百合子との子供を過去におろした俺が錐と幸せになる?
どこにそんな資格がある?

俺は業が深い……。

どんな地獄を潜り抜けようと、業が無くなる事はないのだ。

本当に俺は馬鹿だ。
何を陽気に…、呑気にぬくぬくと過ごしていたのだろう?

「岩上さん、大丈夫ですか?」

ノックがして息子さんの声が聞こえる。

「すみません、ちょっと酔ってしまったみたいで……」

早く戻らないと……。

右手を心臓の上に当てる。
しっかりしろって。
人様に心配を掛けるなよ。

そんな柔じゃないだろ?
もっと頑丈にできているはずだ。

地獄を生き延びてきたんだろ?
大丈夫?
ここにいる人たちは、何の危害も加えない。

俺はもう強くなった。
充分過ぎるほど…、必要ない以上に強くなれた。

今はただ年を取っただけ。

ゆっくりと息を吸い込む。
そしてゆっきり吐き出した。

うん、もう大丈夫。

俺は強いから……。

泣くなよ…、息を整えろ。
無様な顔を見せるなって。

俺は少しだけグラートのトイレの床へ、子供のように膝を抱え静かに泣いた。

四十九歳無職。
そして社会不適合。

もっと自分の立ち位置を自覚しやがれ。
この情けない状況は、すべて自分で選択した結果。

誰のせいでもない。
全部俺が決めて行動した事。

業が深いと格好つけたければ、いくらだって自己完結で叫べばいい。
でも、それじゃ物事は何も解決しない。

立とう。
まず立ち上がれ。

こんな自分を善意で祝ってくれる人たちの行為を無にするな。
岩上智一郎で常にいろ。

ジャンボ鶴田師匠の背中を見てきたんだろ?
三沢光晴さんの優しさを間近に受けてきたんだろ?
おじいちゃんの慈愛を受けて生きてきたじゃないか。
栗原名誉会長は祭りの度、常に俺を可愛がってくれた。
小林澄夫さんだって無償の愛を注いでくれた。

簡単に挫けちゃ駄目だろうが!

盟友の斉藤弘一はもういない。
試合に駆け付け応援してくれた税理士の大野和道さんも亡くなった。

でも俺はまだ生きているんだろ。

右の拳を思い切り握る。
そのまま顔面へ叩きつけた。

やっぱ痛いな、俺の拳。

喝が入ったか?
うん、入った。

伊達に鍛えていないからな。
痛いわ。

よし、立てるな?
俺を誰だと思っている?
岩上智一郎だぞ?

赤崎隼人の偽名は捨てた。
でも俺が生み出した神威龍一の魂は消えていない。

自分の中で使い分ける三つの人格の見苦しい言い争い。
新宿クレッシェンド主人公、現ラッキーハウスでの偽名を名乗る赤崎隼人。
打突や新宿プレリュード、鬼畜道から俺の分身として作った神威龍一。
そして現在社会の底辺を継続中の岩上智一郎。

俺は亜流だ。
多重人格だろうが何だろうが、使えるものはすべて使えばいい。

小説すっかり書かなくなっちゃって、ごめんな。
それより早く深谷さんたちの元へ行け?
分かっているって。
不義理は良くないよな。

気付けば冷静になっている自分がいる。
そう…、すべては思考の使い分け。

俺が俺である為に、俺は何だって使う。

思い出せ。
堕落したまま生きてきた訳ではない。

あの当時の全日本プロレスへ行った。
絵も描いた。
ピアノも市民会館で演奏した。
小説も世に出せた。
総合格闘技のリングでも戦った。

たくさんの患者を治した。
カクテルも鬼のように作った。
料理はそれ以上に喜ばれた。

俺は普通じゃない。
普通じゃない無職の四十九歳だ。

まだまだ何だってできるさ。

「すみません、久しぶりのお酒で酔ってしまいまして……」
「大丈夫ですか、岩上さん?」

「もう問題ありません。せっかくの美味しい料理をすみません!」
「顔色もさっきよりは良くなったみたいで、良かったですよ」

「あ、お会計を……」
「父が全部払ってくれていますよ」

「いや、それじゃ申し訳ないですって。あ、あれ? そういえば深谷さんは?」
「父なら外で電話してますよ。上田さんから電話掛かってきたみたいです」

目の前に出されたコーヒーを飲みながら、息子さんと雑談をする。

家族とのこれまでの業だけじゃなく、これまでの新宿と横浜での地獄が一気に蘇った感覚だった。
俺はまだまだ弱い。
もっと強靭な心を持たないといけない。

深谷さんが店内へ戻ってくる。
少しばかり不機嫌そうな表情だ。
俺のせいだろう。

「すみません、深谷さん…。気分を害してしまって」
「ん? 何の事だ? 岩上君じゃない。香川の奴のせいだ!」

「え、どういう事です?」
「実はな…、君の送別会の話を昨日、ラッキーハウスで上田さんとしていたんだがな……」

要約すると、ゲーム屋ラッキーハウスへ二人で遊びに来ていた深谷さんは、早番の時間帯、俺が抜けた穴を埋めるべく番頭の香川が店にいたらしい。
上田さんに送別会の話を持ち掛けるのを聞いていた香川。
あの馬鹿は、今日グラートへ来るちょっと前の時間帯に上田さんの経営する雀荘へ顔を出したようだ。
店を抜けようとした上田さんに対し、俺の送別会には辞めた従業員なのでと止められ、グラートへ来れなかったと言う。

香川…、一体あの男は何がしたのだろうか?
普通に揉めたら、裏稼業にいるあいつのほうが不利な立場なのを分からないのか?

上客である上田さんや深谷さんの気分を台無しにしやがって……。

持てる力を使い、潰すか……。

「……」

いや、それだと俺が抜けたあの店はどうなる?
まだオーナーの酒井さんは警察に捕まったままなのだ。

あの店で俺の真の味方などいない。
そんな状況で暴れたところで何になる?

様々な思考を張り巡らせるが、葛藤と矛盾だけが行き来した。

「なあ、岩上君」
「はい、何でしょう、深谷さん」

「ワシが金を出すから君が店をやらんか?」

「え……」

「ゲーム屋を君がやるんだよ」

「……」

「客だって君のほうがついている。ワシがそうであるようにな。それにあそこの従業員も、岩上君をみんな慕っているじゃないないか。あの店から客を奪い、新しく店をやればいい」

「……」

「君ならできるだろ?」

「……。はい…、正直言えばできると思います……。自分が声を掛ければ、来てくれる従業員も客もいると思います」

「資金はいくらぐらい必要だ? 一千万ぐらいあれば、ゲーム屋ならできるだろ?」

深谷さんは元々これを考えて、今日俺を誘ってくれたのか?
足を向けて寝られないほどの恩情。
見る人はちゃんと俺を見ていてくれた。

だが、この話を受けるとラッキーハウスを潰す事になる。
これが香川や橋本の店なら、大いに結構だ。

しかしあの店は…、世話になった酒井さんの店……。

捕まった状態の酒井さんの店を俺が潰す?
できる訳がない……。

正直に自身の心境を伝える。
そして丁重に店を出す話を断った。

深谷さんはとても残念そうにしていたが、こればかりはしょうがない。

仁義礼智信、厳勇。

仁とは思いやりの心、相手の立場に立って物事を考えられる優しさ。
義とは義侠心、人の歩む正しい道、私欲に捉われず為すべき事を為す、正義、道理、筋。
礼とは礼節の心、親や目上に対し礼儀を尽くし、相手には敬意を持って接する心。
智とは人や物事の善悪を正しく判断し、善悪を真に理解する知恵。
信とは嘘をつかず、心と言葉、行いが一致している、約束を守り、誠実である事。
この五常を守れる者は人間としての強さを得る。

この五常を守る上で必要なのが、厳勇。
厳とは自己を厳しく諫める。
勇とは勇気、勇敢さを持つ。

俺がずっと大事にしてきた座右の銘。
これを欲の為に破る事はできない。

「うーん…、まあ分かった。まだ暇はしているんだろ? また飲みに誘うからな」
「深谷さん、今日は本当にありがとうございます。そしてご馳走にもなってしまい、すみませんでした」

「タクシーで送るよ。大久保だったよな?」
「はい……」

ラッキーホステルへ着き、部屋に到着した時にはちょうど日が変わっていた。


二千二十年十月二十九日、木曜日先負。

静かに両手を合わせ、黙祷をする。

今日は斉藤弘一が亡くなってちょうど三年。
あの日は天皇賞秋だった。

ギャンブル大好きだった斉藤さん。
今年はやっぱアーモンドアイですかね?

彼との短い思い出を振り返り、俺はベッドで声を殺して泣いた。
一体一日でどれだけ泣けば気が済むのか。

そしてそのままいつの間にか寝た。

人間どんな目に遭おうとも、どんなに悲しくても腹だけは減る。
それだけじゃない。
眠くなれば自然と睡眠を取る生き物なのだ。

泣いて寝て起きたあとは、自然と胃袋を満たさねばならない。

いつものように喫茶店へ向かうと、ランチ時で満席。
隣りにある蕎麦屋『大村庵』へ入った。

メニューも色々な組み合わせ可能なようで、中々いいお店だ。

2020/10/29 大久保 大村庵

酒を飲みながら、胡麻せいろの蕎麦とカレーライスを注文。

2020/10/29 大久保 大村庵

胡麻せいろが美味しかった。
腹を満たすと、そのまま真っ直ぐ歩いて北新宿公園へ向かう。

2020/10/29 大久保 北新宿公園

何の予定も入れず、ボーッとここまでのんびりするのは本当に久しぶりだ。
斉藤弘一が生きていたら……。

2020/10/29 大久保 北新宿公園

いやいや、あのギャンブル好きの男が、こんなところまで来るはずがないか。

「こっちは色々あるけどさ…、まあ何とか踏ん張ってますよ、斉藤さん……」

思わず出る独り言。
生きている限り、俺の業は続く。

この先何が待っているかなんて分からない。
それでも俺は逃げずに生き抜かなきゃいけないのだ。

あと二日で十月も終わりか。
段々寒くなるな……。

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