闇 625(梯子外し編)
闇 625(梯子外し編)

2026/07/31 fri
※俺は13年間のブランクのリハビリをしているだけなんじゃないかなとまで感じるようになった。そしてこのまま朽ち果てるのは悔しいから自身の人生を書き残している。
前回の章

二千二十三年十月二十七日、金曜日大安。
時計を見ると十時を回っていた。
どうする?
できればもう帰って眠りたい。
だが、自称俳優は胡散臭いけど、河本マンションの光熱費は現実的な被害。
一年以上続き、仲介したタウンハウジングはあてにならないのだ。
一応サッと見てからとっとと帰ろう。
しかし、本当に同じ家賃で二部屋なら、即座に引っ越すべきだろう。
若菜龍平が鍵を取りに行き、三階の部屋へ案内される。
エレベーターを出てすぐの部屋は、三部屋。
すぐ気に入るが、さすがにここは家賃が違うらしい。
続いて三〇二号室、中へ入るとすぐ右手にユニットバス。
その裏に広めのキッチン。
さらに六畳ほどのフローリングの部屋があり、そこを通って奥には十畳くらいの部屋とベランダ。
「え、若菜さん! 本当にここ、六万八千円なんですか?」
「ええ、そうですよ。ちょっと壁に染みとかあるんですけど」
「そんな些細な事気にしませんって! すぐにでも契約していいですか?」
「さすがに今は夜中なんで、落ち着きましょう。ここも五年前には人が住んでいたんですけどね。何故か中々入居者がいないんですよ」
もう降って湧いたような物件。
藁にも縋る気持ちだった。
「だって河本マンションと比べたら、月とスッポンですよ? かなり綺麗だし、広いし」
「自分的にも岩上さんのような屈強な人に入ってもらえたら、頼もしいですしね」
ようやくこれで、あのクソ忌々しいマンションともおさらばできるのだ。
「ありがとうございます。では若菜さん、俺も明日仕事あるんで今日はこの辺でそろそろ」
外へ出ると、また龍平の無駄話が始まる。
「この間もゴミケバブ屋の客が、うちのそこの敷地内に入ってたむろしていたんですよね」
「え、わざわざ大久保通りを来てから逆側のここへですか?」
「どう来たかは知りませんけど。それですぐ警察へ通報したんですよ」
「は、はあ……」
「それに前、河本と揉めたって言ったじゃないですか」
「はい」
「うちのマンションの敷地内で、あそこに停めてあるハイエースを勝手に入れてUターンしていたんですよ。だから慌てて外へ出て注意しに行ったんですね」
「はあ……」
別にそのぐらいで、いちいち目くじら立てないでもいいのになあ。
「そしたら河本の旦那のほうが偉そうに自分へ言うんですよ。『あんた誰?』って。自分の家の敷地内に不法侵入しといて、そんな台詞はないでしょって!」
エキサイトして話す龍平であるが、この話を聞いたのはこれで十回目。
ゲップが出るほど聞いている。
一時間以上似た話をしながら龍平の勢いは止まらない。
時刻をチラッと確認する。
一時半になっていた。
「あの…、若菜さん、申し訳ないんですけど、明日というか今日仕事なんですね。そろそろいいですか」
「あ、すみません。気付きませんで」
これからあの部屋を借りる事を考えたら、この自称俳優もそう無下にはできない。
しばらく忙しくなるぞ。
起きてから、まず串市場んで会った柏原から聞いた国土交通省。
これで河本マンションを仲介したくせに動こうとしない、タウンハウジングへ警告の電話。
そして駅前の不動産へ物件探しを断りに行かないといけない。
次に龍平のマンションへの契約へ向けて動く。
ようやく解放された俺は、部屋に到着するなり風呂も入らず深い眠りについた。
起きてから棚に置いてあった俺の生み出した長男『新宿クレッシェンド』が見当たらず焦って飛び起きる。
あ、そうか。
昨日龍平に貸してしまったんだっけ……。
時刻を見ると朝の十時半。
もうタウンハウジングも開いているだろう。
俺は担当の中国人マーへ電話を掛けて、人にこんなマンションを仲介しといて知らんぷりなら、国土交通省へ不動産を報告すると脅し電話を切った。
マーから着信が入ったが、あえて電話に出ず無視をする。
国土交通省の名前でそんなビビるのなら、はなっからちゃんと仕事しろよ、クソ野郎が……。
続いて駅前の不動産へ行き、物件が見つかったので探すのを止めてもらう。
何度かお邪魔して物件を見てもらったので、キチンと筋だけは通したかった。
外を歩いていると、マーからLINEが届く。
『岩上様 本当に申し訳ございません。もしよろしければ他のいい物件をご紹介させていただきます。引き続きよろしくお願いいたします。 タウンハウジング』

いい物件を紹介?
何を言ってんだ、コイツ?
俺は河本マンションの光熱費が、何故あそこまで異様なのかを問いただせと言ったのだ。
文字じゃ拉致明かないので、再び電話して乱暴な口調でマーに要件を伝える。
そのまま昼飯を食べに行き、河本マンションへ戻る。
馬鹿大家二人が受付にいたが、挨拶もせずに部屋へ行く。
もうこんな小汚いマンションなんて、近い内おさらばだ。
今日これから仕事なのが本当にもどかしい。
できればとっとと契約を済ませ、俳優マンションへ移り住みたいのだ。
結局龍平からの連絡はなく、仕事の時間になってしまう。
インカジ『レディ』へ出勤して業務中、ようやくLINEが来た。
『岩上さん! お疲れ様です! 昨日も、そして貴重な作品ありがとうございました! 昨日の小さい?方の家賃ですが、確認したとこ八万六千円、管理費六千円でした、勘違いしてすみません。よろしければご検討下さいませ。 若菜龍平』
コイツ、何を言ってんだ?
六万八千円だと俺は何度も確認しただろう。
それが逆の八万六千円に加え、さらに管理費六千円?
八卓のインターホンが鳴る。
続いて一卓に座る金子からも。
忙しくておちおち返信もできない。
慌ただしい業務に翻弄されながら時間だけが経っていく。
約七万だと思った家賃が、管理費入れて九万以上?
えーと、差額はいくらになるんだ?
再び鳴るインターホン。
あー、ウザいなあ、金子の奴。
しょっちゅう呼び出してんじゃねえよ、屑野郎。
とりあえず他に入られたら嫌だから、返事をしとかなきゃ……。
『全然問題ないですよ。ちなみに三つの部屋の方はいくらなんですか? 岩上智一郎』
『一万千九百円で管理費が一万円です。 若菜龍平』

一万千九百円?
管理費一万円でそれはないだろ……。
何かこの人、かなり適当だな。
一旦ホールも落ち着き、セブンスターに火をつける。
言っていた内容と全然違ったLINE。
家賃六万八千円でなく九万二千円って、ちょっと間違えたレベルじゃないぞ?
開きが二万四千円あるんだから。
櫻井さんからせっかく頂いたラスト一冊の新宿クレッシェンドをコイツに渡したのは、失敗だったんじゃないのか?
二千二十三年十月二十八日、土曜日赤口。
部屋で寝転がりながら適当な店を見ていたら、亀戸に有名な餃子店があるのを発見。
興奮気味に俺はフェイスブックへ投稿する。
予告【降りた事の無い駅で降りてみるよシリーズ】。
最近自覚したのが、俺は結構餃子が好きだったという事
前にたまたま見て気になっていた亀戸餃子。

休みなのでこれから行ってみます。

半分ヤケクソ気味な行動。
本当なら、今日の休みで俳優マンションと契約したいところだが、若菜龍平の杜撰さが信用できず、新しくマンションを探した方がいいんじゃないかと感じた。
六万八千円が、何で逆の八万六千円なんだよ?
しかも管理費六千円って、全然違うじゃねえか。
駅前の不動産に物件探しを断らなきゃ良かったよ、本当に……。
色々な事に振り回され、今日の休みは何も考えたくなかった。
行った事のない場所へ行き、美味しいものを食べて帰ってくる。
今の俺に必要なのは、そういう素朴で充実した楽しさなはず。
調べると大久保から総武線一本で行ける事が判明。
早速着替えを済ませると、俺は電車へ飛び乗った。
だいたい龍平は少しおかしい。
何であの馬鹿、あんなにいつもくどいの?
電車に乗っている間暇なので、自称俳優の活動を調べてみる事にした。
千九百六十八年九月二十七日が誕生日で、俺より三つ年上。
身長百七十五センチって、あいつそんな高くないだろ?
俺が百八十センチちょうどなのに。
特技がスキー、殺陣、乗馬、流鏑馬?
何なの、この戸隠流忍法体術…、武神館って?
テレビドラマや映画、Vシネマなど幅広い映像作品で活動?
テレビ系は二千八年の『サラリーマン金太郎』。
あとは『釣り刑事7』が二千十六年。
これって釣りバカ日誌じゃないよな?
今が二千二十三年だから、ほとんど出ていないじゃん。
一昔前の薬師丸ひろ子みたいに、銀幕スターって事?
映画は『高校教授』?
え、何これ?
真田広之の『高校教師』じゃないの?
俺は予告編と銘打った動画を見てみた。
「……」
えーと、次は『アナあき姫殺人事件』。
若菜龍平がどこに出ているのか分からないが、これはお遊戯会なのか?
『進撃の女人』…、これはこの間佐藤ボンズが探したアレだもんな……。
あ、そうだ!
何回も自慢していた『関ヶ原』は?
徳川家康家臣?
えーと、家康ならどれだけ家臣がいるんだよ。
つまりエキストラ?
「……」
じゃあ何度も言っていた『龍が如く~Beyond the Game~』は?
東城会組員の直参役?
名前のない職名付きの役という事でいいのかな?
ボンズの屈託のない意地悪そうな笑顔が、頭に思い浮かぶ。
いやいや、俺などそんな風に彼を卑下するのは……。
でも、龍平のせいで河本マンション脱出が、無駄に遠のいたのは事実。
あいつ、本当にふざけんなよな。
ちょうど電車は亀戸駅へ到着した。
亀戸餃子はどこにあるんだよ?
亀戸駅北口を出ると、ロータリーの先に看板が置いてある。
そのすぐ横の細道を入ると、徒歩一分くらいにあった・
何だか結構並んでるぞ?

並ぶの嫌いだけど、せっかくここまで来たので仕方なく待とう。
俺はフェイスブックへそのまま写真を撮りながら投稿する事にした。
有名な亀戸餃子に行ってきましたよ。

一皿三百円、最低二皿出ます。
ウイスキーやウーロンハイ無いので電気ブランを注文。

肝心な餃子の味ですが、普通に美味しくはありますが、ちょっとアッサリ気味。

個人的好みで言えば横浜野毛にある餃子の三陽、大久保のバリスタの餃子のほうが好き。

三皿食べて、電気ブラン飲んで千百円と非常にリーズナブル。
でもご飯も無ければ餃子と飲み物しかありません。
亀戸餃子の先を行くと、ホルモン焼きとか多くて、ジンギスカンの店もありました。

亀戸餃子のすぐ先にホルモン青木という店がありましたが、そこもそこそこ行列できてました

先を行くと商店街があり、餃子の藤井屋という気になる店がありましたね。

興味あるけど、さっき餃子二皿食べたばかりだしなあ……。

再び亀戸駅まで来たものの、喫茶店でも寄るかとフラフラ歩く。
するとクレシェンドという喫茶店を発見。
クレッシェンドじゃなくクレシェンド……。
不安になったので俺は携帯電話で調べてみる。
結論から言うと、『クレシェンド』と『クレッシェンド』はまったく同じ意味。
どちらも英語、イタリア語の『crescendo』を日本語に書き換えたもので、単なる表記(発音)の揺れに過ぎないらしい。
音楽の教科書など、文部科学省の学習指導要領などでは、小さな「ッ」を入れない『クレシェンド』が公式な表記として採用される事が多い?
え、じゃあ俺の新宿クレッシェンドって、本当は新宿クレシェンド?
何か嫌だなあ……。
「……」
一般的な会話や音楽業界だと『クレッシェンド』と発音する人も非常に多く、どちらを使っても間違いではようだ。
当たり前じゃねえか!
今さら二千八年に出した俺の本をクレシェンドにしてくれなんて、絶対に嫌だ。
あー…、龍平なんぞに最後の一冊を渡すんじゃなかったよー。
項垂れながら店内へ入った。

自著である新宿クレッシェンドと名前が似ていたので気になってしまったのである。
このままおめおめと新宿へ帰る訳にはいかないのだ。
普通の喫茶店だろう思って、入ってまず驚いたのが、内装の格好良さ、そして渋さ。

名前など関係なく、一発で好みの喫茶店だと本能的に察知する。
どうやら俺は、初見で気に入ってしまったようだ。
何なの、奥にある積み上げられたアンプの数々は?
キョロキョロしながら店内を見渡す。
客は誰もいない状況で、カウンター席の奥にメガネを掛けた俺より一回り上ぐらいのマスターが気難しそうな表情で立っている。

「えーと…、初めて来たんですけど、どこへ座ったらいいですか?」
「お好きなところへお座り下さい」
「ではせっかくなのでカウンター席を……」
「どうぞ」
カウンターに置いてあるメニューを眺める。
コーヒーが五百円。
アイスなら五百五十円。
良心的な店だな、こんな造りなのに。
「アイスコーヒーを頂けますか?」
「はい」

寡黙なマスター。
音楽のサウンドだけが空間を漂う落ち着いた空間。

「あのー…、凄い凝ったお店ですね。写真を撮らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」

本日亀戸へ来て一番の収穫は、このクレシェンドという喫茶店を知った事。
そしてアイスコーヒーが凝って作っているだけあって、本当に美味しい!

今はもう立ち退きで無くなってしまった本川越駅のバー…、以前俺がピアノを弾いていた頃、毎日のように通っていた『スイートキャデラック』のコーヒーを思い出す。
あれは俺が歌舞伎町へ行きだした二十代後半から三十代半ばの頃……。

酒も置いてあるのでウイスキーも注文した。
少しでもこの店の売上に貢献したかったのだ。
「凄いアンプの数ですねー」
「普通です」
「いえいえ、普通じゃないですよ」
「マニアなだけです」
「え、マニア?」
「マニアというのはそういうものです」
ぶっきらぼうなマスターの説明。
しかしそれで何となく拘りが分かったような気がする。
要は言葉でなく、耳を澄ませて音を黙って聴けという事なのだろう。
曲の終わりを待ってから声を掛ける。
自分の著書『新宿クレッシェンド』の画像を見せ、タイトルとこの店の名前に共通点がある事を伝えたが、あまり興味無さそうだった。
まあ俺が芸能音痴なように、マスターが文学に興味示さないのはしょうがない事。
いつか亀戸へ来る事があれば、また来よう。
さっそくこの投稿に、横浜時代の盟友石川雅之が反応する。
『かなりカッコいいですね! 喫茶店といえば音楽、昭和が懐かしいです。 いしかわまさゆき』
『マスターはただマニアなだけです。マニアっていうのはそんなもんですとか言ってましたけどね。亀戸に住みたくなりました。 岩上智一郎』
久しぶりにいい店を知ったなあと満足していた。
喫茶店クレシェンドのあと、気になって寄ってしまった『大衆ジンギスカン酒場ラムちゃん亀戸店』。
ジンギスカンのセットが千円ちょい。
何となく十九歳の時の、北海道の倶知安町時代を思い出したかったのだ。

まずね、ランチタイムでこれで千円って安過ぎの料金設定。
酒を二種類頼むと、若い女性店員が飲み放題を勧めてくる。
「うーん、でもそれだと一杯ずつのお代わり制でしょ?」
「いえ、二杯同時でも大丈夫ですよ」
「じゃあ飲み放題で! 何だか気持ちいい店だなあ」
店員がとても親切で、とても好感を持てた。
すぐにジンギスカンのランチが運ばれてくる。

俺はジンギスカン鍋の上に油を引き、当時を思い出す。
自衛隊を辞め、地元川越へ戻ったものの無職の俺。
高校時代アルバイトしたガソリンスタンドの山口油材。
とりあえず俺はまた古巣へ戻り、アルバイトを再開させた。
「兄貴、また山口油材戻ってきたね」
同じスタンドで働く弟の徹也は少し嬉しそうだった。
北海道の倶知安駐屯地を退職し、一週間潜伏して上官たちへ仕返ししてきたが、最後の数日間でスナック『パピリオ』で働く飲み屋の女ゆかりとの出会いがあった。
俺よりも五つ年上のゆかり。
切れ長の目をした細身のいい女だった。
辞めてから一週間も北海道へいたのは、上官への仕返しだけでなく、このゆかりと離れたくないという思いが強いせいもある。
「一緒に川越へ行かないか?」
地元へ帰る最後の夜を共に過ごし、俺は彼女へそう声を掛けた。
「私、ここが地元なんだよ? 智一郎についてそっちへ行ったら、誰一人友達もいなくなっちゃうよ。それにあんた無職になったばかりでしょ?」
返す言葉が無かった。
勢いだけで思いを伝えたところで、俺は何一つできない。
本当はもっとここにいてゆかりと過ごしていたかったが、約束があり地元へ戻らねばならなかったのだ。
山口油材の客である田中公男さん。
彼は俺より二回り年上のトラックの運転手だったが、高校生の頃来る度缶コーヒーをご馳走してもらった。
その田中さんの母親が心臓病の主日の為、B型の健康な人間の血液が欲しいと弟の徹也から連絡があったのだ。
まだこの時ゆかりと会う前なので、田中さんの役に立てるならと安請け合いをし、その手術が自衛隊を辞めてからちょうど一週間後だった。
無事手術も成功し田中さんは俺に謝礼として現金を渡そうとしてきたが、そんなつもりで動いていないと丁重に断る。
後日田中さんから家に、三万円分の商品券が届けられた。
金を早く貯めて、また北海道にいるゆかりへ会いに……。
しかし数ヶ月後ゆかりはパピリオを辞めており、同僚の女から俺より一つ上の自衛官と結婚したと聞いた。
違う違う……。
そんな嫌な思い出など蘇らせるなよ!
もっと美しかったあの頃を。
「あのー、よろしかったらお肉を焼きましょうか?」
先ほどの女性店員が声を掛けてくる。
何だか優しい子だな。
「うん、よろしく頼むよ」
俺は目の前の羊肉が焼ける光景を見ながら、北海道の雪を思い出していた。
あの今はもう無くなってしまったスナック『パピリオ』とあの向かいにあったバーを……。
その日、『パピリオ』に一人の女が新しく入ってきた。
女の名は明美。どこにでもいそうな源氏名である。奇麗な顔立ちに思わず見とれてしまう自分がいた。
鈴木士長は、酔いながら『踊るポンポコリン』を熱唱している。この歌で普通に拳を握りながら唄う士長は妙におかしい。大いに笑いはしゃいだ。この人といると、本当に楽しい。
夜の十一時半になると、帰隊時間なので鈴木士長は駐屯地へ戻るようだった。
一度店から出て、タクシー乗り場まで送る。
「まだおまえ、こっちにいるんだろ?」
ゆっくり駅前までの道を歩きながら、士長がボソッと言った。
「ええ、あと五日六日はいると思います」
「俺、出来る限り出てくるからまた飲もうでや」
「分かりました。『パピリオ』で夜はいつも飲んでますよ」
まだ携帯電話もなかった時代である。もちろん同期の川内が借りるアパートには電話などない。連絡を取るのも容易じゃなかった。
士長を送ったあと店へ戻ろうとすると、ムカつく上官の一人が飲み屋街をさまよってフラフラしているのを発見する。
「よし獲物を見つけた……」
俺はそのまま飛び掛かり、散々殴ったあと『パピリオ』へ戻った。
「あれ、あんたその手どうしたのさ?」
カウンター席に座った俺を見るなり、明美が話し掛けてくる。拳には上官の返り血がついていたのだ。よくもまあこんな細かいところまで見ているものである。
吊りあがった切れ長の奇麗な目。背中まで伸びた奇麗な髪。少し大きめの魅力的な唇。垂れ目で常にポニーテールの泉と、いつの間にか比較している自分がいた。
「何でもねえよ」
ぶっきらぼうに答えると、俺は酒を再び飲みだした。他の客がいるのに明美は俺の前から離れず、一人で何かを話している。
「ねえねえ、あんたさ。自衛隊辞めてこれからどうする訳?」
明美は俺に質問をしてきた。見た目はかなり自分のタイプだったので、ジッと見つめられると恥ずかしい。
「おまえ、少しうるせえぞ」
酔いの回っていた俺は、明美に色々と悪態をついた。恥ずかしさを誤魔化す為だった。酔っ払っていたので、何でもありだと調子に乗っていたのである。
とにかく酒を飲んだ。頭の中がよどみ、意識が薄れていく。
おぼろげながら、「うるさいよ」と、明美が俺の左手に、タバコを押しつけられたのだけは覚えていた。
どうやって川内のアパートへ帰ってきたのか分からないが、二日酔いのまま起き上がると、何故か明美の顔だけが脳裏に浮かんだ。
左手の甲を見る。タバコの火傷跡だけがハッキリ残っている。昨日タバコを押しつけられたのは夢じゃなかったんだ……。
何て酷い事をする女なのだろう。それでも明美の顔だけが浮かぶ。
一体俺は、どうしてしまったのだろう。まだ頭がガンガンするので、そのままゆっくり寝る事にした。
俺の復讐が始まって三日が経つ。外へ出ると岩上にやられる。そんな噂があっという間に広まったようだ。そう川内がアパートへ来て教えてくれた。俺を大勢でいたぶった上官たちは隊舎に籠もり、町に出てこなくなったのである。
地元へ帰るまであと四日……。
まだ俺は全員に仕返しをしていない。このまま何もせず時間だけが過ぎていくのは非常に歯痒かった。
川内と食事をして彼が自衛隊へ帰る時、頼み事をした。
「え、タクシーのトランクに隠れて自衛隊の中に入る? 無理だよ~」
「おまえに迷惑は掛けない。引き籠った連中をぶっ飛ばしたら、すぐタクシーに乗って帰るから。頼むよ、な?」
「でも……」
「もうこれしか方法がないんだ。頼む!」
「わ、分かったよ。でも何かあっても俺は知らないからね」
渋々了承する川内。彼の乗ったタクシーのトランクに隠れ、俺は自衛隊の中に潜入した。駐屯地内へ到着すると、俺はタクシーの運転手には一万円札を渡しながら、戻ってくるまで待っていてほしいとお願いした。
思わぬ金をもらえたので、運転手は笑顔で「待ちますよ」と言ってくれる。
「さてと、この中であいつら震えてやがるんだな……」
一気に隊舎の階段を駆け上がり、部屋でくつろいでいた上官たちを無差別にぶん殴る。これ以上の奇襲などないだろう。積年の恨みを晴らすかのように、とにかく殴り続けた。慌てた上官たちは何もできず、他の上官らが駆けつける頃には脱出していた。
自衛隊もしょせん公務員だ。騒ぎはなるべく内輪で済ます習性がある。俺は溜まっていた鬱憤をすべて吐き出し、駐屯地をあとにした。
タクシーのトランクに乗り込み、町へ帰った俺は、部屋に着くと一人大声を出して笑った。逃げまどう後期教育隊班長だった緑川のケツを蹴り上げた時は、これ以上ない快感だった。
夜になると『パピリオ』へ向かう。浴びるほど酒を飲みたかったのだ。
今日も明美は出勤している。人の手にタバコを押しつけながら、何事もなかったかのように済ましている明美。
俺にそんな事をする女は、今までいなかった。
何故かその度胸を俺は気に入っている。気がつけば、明美の事ばかりが頭を支配していた。あれだけ好きな泉の事をまるで忘れている自分に気付く。
この日も店の終わりまで飲み、ママが食事へ一緒に連れて行ってくれた。俺の席の隣に明美が腰掛けてくる。俺は一人で永井泉の事を考えていた。
するといきなり明美が、口に食べ物を強引に入れてくる。
「何しやがるんだよ!」
「ボーっとしているからだよー」
意地悪そうな表情で笑う明美。そんな顔も可愛らしく感じた。
会って間もないのに俺は、この女の事を好きになりかけている。
朝、起きて考える。とうとう夢の中まで明美が出てくるようになっていた。
地元へ帰るまであと三日。できればずっとこの町にいたいと思う時分がいる。その原因は明美だった。
出会ってまだ三日しか経っていない。実際に会ったのは店で三回だけ。それなのに俺はどうかしている。泉との件はどうするんだ?いくら自分に言い聞かせても、明美を好きだという気持ちにブレーキは掛からない。このままこちらで仕事を探すか……。
いやそれはできない。人の命が懸かっているのだ。俺はその約束をした。スタンドのお客さんである田中公男さんのお袋さんの手術があるから、あと三日の内に帰らないといけない。
胸の奥がとても苦しかった。様々な葛藤が押し寄せる。
このモヤモヤした心の中をどうにかしたかったが、告白したところでどうにもならないのは自分でもよく分かっていた。
仲のいい連中に色々と相談してみた。最初は鈴木士長。
「おまえが明美をか~。俺的には口説いてもらい、このままこっちへいてほしいけどな」
「それって彼女に自分の気持ちを言えって事ですか?」
「そりゃそうだよ。だって明美の事を好きになったって、自分で気付いたんだでや?」
「まあ……」
永井泉という存在がいるのに俺はどうかしている。しかもあと三日で地元へ帰るのに、明美へ気持ちを言ったところでどうなる?
「後悔する生き方はするなよ」
鈴木士長はそれ以上何も言わなかった。
同期の川内も同じ事を言った。
「好きなら言わなきゃ駄目。あとで後悔するよ?」
「こちらでまだ自衛隊を続けているなら、いくらだって言うさ」
「そんな状況なんて言い訳だよ」
確かに言い訳だった。因果なものである。何故俺が辞めてから、明美とこうして知り合ってしまったのだろう。
考えれば考えるほど苦しい。
俺は『パピリオ』のママにまで相談に乗ってもらった。
「好きなんだから、ちゃんと言いなさい」
ママにまでそう言われる始末である。みんなが俺の背中を押した。
迷いながら一日が経つ。残り二日目の夜、俺はスナックへ行ったが、酒を飲むというより明美の顔を見に行ったのだ。
一日置いて彼女に会う事で、俺はどれだけ明美に惚れているのかを思い知らされた。
悩み、迷い、葛藤、せつなさ……。
さまざまな感情が俺を渦巻く。
「どうしちゃったの?ここ最近元気がないね~」
明美は心配そうに俺の顔を覗き込み、話し掛けてくる。おまえのせいだと素直に言いたかった。
「ほっといてくれ」
心にもない事を言うのが、精一杯な俺。明美は店内をキョロキョロと見渡したかと思うと、サッと俺の唇に自分の唇を重ねてきた。
一瞬の出来事でしばらく把握するのに時間が掛かる。
今、俺はこいつにキスをされたのか?
「本当はね…。私、ゆかりっていうんだ、へへ…。あなたより六つも年上だけどね」
照れながら恥ずかしそうに喋る明美。いや、ゆかり……。
店の中じゃなければ、その場で抱き締めたかった。
わざわざ俺に本名を教え、キスまでしてくるなんてどういうつもりなんだ? 少なくても俺は嫌われていない。いやむしろ気があると見ていいのだろうか?
せつなさで頭がどうにかなりそうだったので、外に空気を吸いに出た。
ゆかりを自分の女にしたい。ハッキリと自分の気持ちが理解できた。しかし、今の俺は職もなければ、明後日には帰らねばならない。田中公男さんのお袋さんの手術。人の命が懸かっているのだ。
何とも言えないやるせなさが充満し、俺はコンクリートのザラザラした外壁に、右の拳を叩きつけた。鋭い痛みが走り、拳から血が垂れだす。凍った白い地面の上に、俺の真っ赤な血が垂れ、真紅に染めていた。
誰もいなければ、大声を出したかった。町並みを見渡してみる。建物以外、辺り一面銀世界の町。綺麗なはずなのに、それを見ても俺の心は癒せなかった。
またスナックの中に戻り、静かに酒を飲み始める。俺の姿を見たゆかりが近づいてきた。
「ちょっとー、あんた。何よ、これ~…。バッカじゃないの、まったく……」
ゆかりは、俺の右の拳を暖かいおしぼりで優しく包み込み、拭ってくれた。
北海道最後の夜。
今日もしんしんと雪が降っている。
明日になれば、俺は飛行機で地元へ帰らなければならない。もう時間がない。目を閉じてこれまでの北海道生活を振り返った。
スナック『パピリオ』でのゆかりとの出会い。彼女のどこに俺は惹かれたのだろう。性格? 外見? いや違う。あいつの存在すべてだ。
ちゃんと言おう。この気持ちを今日の夜に……。
自分でもそうしたほうがいいのは分かっていたのだ。
しかしその前にしなくてはならない事がある。
駅前にある電話ボックス。
俺は高校時代からの同級生である永井泉へ電話を掛けた。
「もしもし、泉か……」
「あ、岩上。元気だった?」
明るい声の泉。これから俺の言う台詞にどんな反応をするのだ? 想像すると、怖くなった。
「ごめん……」
「ん、どうしたの?」
しばらく無言になってしまう。こんなんじゃ駄目だ。俺はゆかりを好きになってしまっている。ちゃんと言え。じゃないと泉に対し、失礼だ。
「俺、好きな人ができた……」
「……」
泉は黙っていた。謝るしか言葉が出ない。
「本当にごめん……」
電話口で大きく頭を下げながら言った。
「まったく岩上らしいな~……」
「ごめん…。本当に……」
「しょうがないでしょ。そんな事、気にしないの。頑張って。じゃあね……」
気まずい雰囲気の中、永井泉はすぐ電話を切った。ちゃんと口に出して付き合った訳じゃない。正式な彼氏彼女の仲でもなかった。それでも非常に心苦しい。
今、泉は何を思っているのだろう。もう俺には知る権利など何もないのだ。
自分で本当に馬鹿な奴だと思う。
まだ、ゆかりには気持ちすら伝えていない。しかも伝えたところで、明日には地元に帰らなければならないのだ。それでゆかりがどうかなど分からない。愚の骨頂とはこの事を指すのだろう。
自分のけじめをつけたい為だけに、わがままを通した。
俺はその場に崩れるようにしゃがみ込み、泣いた。
どうしょうもないぐらいゆかりが好きになっていたのだ。
空から真っ白な大粒の雪が静かに降っていた。
宛てもなく小さな倶知安の町中を彷徨い歩き続ける。
自然と方向は行きつけのスナック『パピリオ』へ向かう。ゆかりの顔を見たさにだった。
もう思い残す事はないか?
これでいいのか?
自問自答を繰り返す。
ゆかりの事で頭がいっぱいだった俺は、スナックがオープンする時間よりも二時間早く来ていた。どうかしている……。
そのまま、入り口の横でボーっと突っ立っていた。
ゆかりは飲み屋の女……。
酒が入った台詞では心は動かない。あと二時間もすれば、あいつはここに来る。
この気持ち、最後だけど伝えておこう……。
自然とそんな気持ちになっていた。覚悟が決まったのだ。
しんしんと雪が、降り注いでいる。
俺はコートのポケットに両手を突っ込み、寒さを凌ぐ。
ただ、待つという行為。ゆかりは俺がこんな事をしているのを知らない。
自分の信念で、俺はこの場にいる。
こんな時、時の刻みは冷酷だ。
何度も時計を繰り返し見る。
時間が経つのを遅く感じた。
やっと一時間経つ。
たまたま知り合いが通り掛かる。よく『パピリオ』に来る常連客の一人だった。店内では顔を見合わせると会釈をする。その程度の仲だった。俺を見て、不思議そうに近づいてくる。
「あーあー、こんなに頭に雪を積もらせちゃって……」
そう言って、俺の頭の上に積もった雪をその人は手で優しく掻き分けてくれた。
「どうしちゃったの?」
「人を待っています……」
それだけ言うと、その人は「そっか、頑張れよ」と笑顔で肩を叩き去って行った。
十分もすれば、また頭の上に雪は降り積もる。まつ毛まで凍りそうな寒さであった。地面の凍ったアイスバーが、足から真に体を凍えさせる。この近辺に住む人たちが、常に車の中へスコップを積んでいるのが、本当の意味で分かったような気がした。
関東育ちの俺は雪が珍しい。実際にここに住むとなると、大変なものである。よく百聞は一見にしかずというが、正にその通りだ。いやこの場合、百見は一実にしかずか……。
もともと人通りのない道で一人佇む俺。たまに通り過ぎる通行人は、珍しいものでも見るかのように、ちらりと横目で見ていく。
スナック『パピリオ』の目の前にあるジャズ喫茶が視界に絶えず映る。中の暖かそうな空気。
あの中へ入って待とうかな。そんな衝動に駆られる。
カウンターに腰掛け、おいしそうにコーヒーを飲むマスター。一口でいいから、暖かいコーヒーが飲みたい……。
寒さで心が折れそうだった。
馬鹿、ここで動いたらどうなるんだ?
永井泉は今頃悲しんでいるのだろうか? もしそうだとすれば、それは俺のせいである。色々な人間を俺一人の感情で巻き込み迷惑を掛けている。
告白するんだろ、ゆかりに……。
このまま、来るまで待とう。どんなに辛くたって……。
待ってから一時間半が経っていた。あと三十分。
店のママがやってきた。スナックのオープン準備で早めに来たのだろう。
「ちょっと岩上君。あなた、何をこんなところでしているのよ? ほら、お店すぐに開けるから入りなさい」
「いえ、すみません…。お気持ちだけいただきます」
「何、馬鹿な事を言ってるの」
「ママ、俺…。これから、ゆかりに…。いや、明美に、これから気持ちを伝えます……」
「そう……」
優しく微笑んだママは、俺の肩を軽く叩く。
「頑張りなさい」
そう言うとママは階段を上がり、二階の店の中へ消えていった。
店のオープン前に、他の働く女たちが次々と出勤してくる。
みんな、俺を見て不思議そうな顔をしていた。ただ微笑み返すだけで精一杯だった。
時計を見る。もうスナックはオープンしたというのに、ゆかりはまだ来なかった。
一体、何をしているんだ、あいつは……。
勝手に自分で待っているだけなのに、妙にイライラする。
雪は容赦なく降り続けていた。
もう二時間以上、雪の中でこうして立っている。心の中まで凍りつきそうだった。タバコに火をつける際、かじかんだ両手でライターを囲み温める。普通なら火傷しそうなものの、温かいとしか感じない。重迫撃砲中隊の野営訓練を思い出した。
口から吐き出す煙は、ゆっくりと北海道の夕焼けの空に溶け込んでいく。
階段を降りる足音が聞こえてくる。足音の主はママだった。心配そうに俺を覗き込み、声を掛けてくる。
「岩上君。いい加減、中に入りなさい」
「いえ……」
「明美から今電話あって、お腹の調子が悪いから遅れるって。まだ一時間ぐらい出勤するまで時間掛かるみたいだから。今日のお通し、温かい肉じゃがだよ。ほら、早く一緒に店に入ろう、ね?」
暖かい肉じゃが……。
そういえば亡くなったおばあちゃんが、よく作ってくれたっけな……。
言われた通り素直に店の中に入って、すっかり冷え切った体を温めたかった。
でもここで行ったら、今までの行為は何になるのだ?
まるで意味がなくなってしまう。ずっとちゃらんぽらんでいい加減に生きてきた俺。今だけは自分の意思で真剣にこうしている。
「ありがとうございます。あと少し…。少しだけここにいさせて下さい…。酒、飲んだら何の意味もなくなってしまうんです」
呆れたようにママは笑うと、ゆっくり階段を上っていった。
どれくらい待っただろう。すっかり手足の感覚がなくなっていた。身体中が凍り、唯一、心臓だけが頑張って全身に血液を送り込んでいる。
足元には、十五本以上のタバコの吸殻があった。これをゆかりに見られたら、少しは俺の待った時間が分かってくれるだろうか?
いや、そんな事で同情でさせてどうする。そんな自分が情けない。足元のタバコを雪で急いで隠そうとした。ドラマみたいな真似をして何になる……。
「何してんの、あんた」
吸殻を雪で隠そうとしていると、背後から声を掛けられた。
聞き覚えのある声……。
ずっと雪の中で三時間も待ったというのに、何とも格好悪いところを見られたものである。俺はゆっくりと顔を上げた。
「ゆかり……」
「早く店に入ればいいじゃない。どうしたの?」
「ずっとおまえを待っていたんだ……」
ゆかりの目を見ながら、俺はゆっくりと言った。
「まったくこんな雪の中で…。馬鹿ね、あなたは……」
心なしかゆかりの目元が潤んで見えた。
「少し時間、あるか? ちょっとでいい。ゆかりと話がしたかった」
「これだけお店、遅刻したんだもん。少しぐらいなら遅れたって構わないよ」
凍っていた全身に、血液が一気に流し込まれたような感覚がした。
これだけで俺は報われた気がする。
これまでの自分の意地というか小さなプライドが、ようやく今、報われたのだ。
俺とゆかりは、スナックの対面にあるジャズ喫茶へ入っていった。
ノンヴォーカルなジャズの流れるシックな店内。カウンターの奥の棚にはたくさんのボトルが並べられている。冷え切った身体が、店内の暖かい空気に触れ喜んでいた。
店のマスターは、堅物そうな感じでムスッと立っている。俺たち以外、誰も客はいなかった。
感じの悪い店だな。「いらっしゃい」のひと言も言えないなんて……。
だからこの店は暇なのか。俺とゆかりは黙って空いている席へ座る。マスターが近づいてきた。
「ご注文は?」
ぶっきらぼうな言い方だな。
「コーヒー二つお願いします」
酒を飲みたかったが、あえてコーヒーにしておく。酒が入った状態では説得性に欠ける。
「ねえ、何であんな馬鹿な事をしてたのよ?」
マスターが去ると、いきなりゆかりは問いただしてきた。
「……」
「男でしょ? モジモジしてないで、さっさと答えなさいよ」
「……。待ってたんだよ……」
「え?」
「おまえに言いたい事があったから、ずっと勝手に待ってたんだよ……」
「店の中にいれば良かったのに……」
「だって酒が入っていたら、何の説得力もないだろ?」
そう言いながら俺は、ゆかりの顔をまじまじと見つめた。
切れ筋の綺麗な目。背中まで伸びている奇麗な髪の毛。大きな唇。いつものゆかりと少し違うところは、頬が赤く染まっている点だった。
「会った時から好きだった。日に日におまえの事だけを考えるようになった。前に話したと思うけど、俺は明日、地元へ帰らないといけない。本当に迷った。好きだって言うかどうか…。多分、三時間あそこでゆかりを待っていたからこそ、今こうして自然とおまえに言えている。おまえが好きなんだ……」
俺は今まで葛藤し、ずっと我慢した想いを一気にぶちまけた。ゆかりは黙ったまま、静かに相打ちを打っている。
雪の中で待っている時はあれだけ時間を遅く感じたのに、こういう時はあっという間に過ぎていく。時計を見ると、三十分経っていた。
できればこのままずっと一緒にいたい。しかし、店のママに迷惑は掛けたくなかった。今日、ゆかりはこれから出勤するようなのだ。
「そろそろ、店に行きなよ…。あまり遅刻しても、具合悪いだろ」
「何で私なんかを……」
「分からねえ…。何故、惚れたのかは…。初対面は、タバコを手に押しつけられたりと、散々だったのにな。ほんと、自分でも不思議だよ。でも気がつけば、ゆかりの存在すべてが気になり、好きなんだって気付いていたんだ……」
「……」
「早く先に店、行きな。一緒に店に行っても、他の客の手前もあるしまずいだろ?」
「う、うん……」
俺の精一杯の強がりだった。本当は一緒にいたかった。店に行くとしても、一緒に堂々と行きたかった。でも、明日で俺は地元へ帰るようなのだ。
チェックを済ませようと、マスターを呼ぶ。
「すみません、おいくらになりますか?」
「そうだねえ…。口止め料込みで、千円ぐらいもらっておこうか」
そう言うと、堅物そうなマスターは一瞬だけニヤリと笑った。釣られて俺も笑顔になる。口止め料込みで、コーヒーが一杯五百円か……。
マスターの憎い心遣いが嬉しかった。
外に出た俺は、ゆかりに店へ行くよう促した。
何度も振り返りながら、ゆかりは階段を一歩一歩上っていく。後ろから抱き締めたい。そんな衝動に駆られた。ここで自分の意のままに動いてはいけない。必死に自制した。
ゆかりの姿が見えなくなると、俺はもう一度さっきのジャズ喫茶へ入る。
一対一で、あのマスターとゆっくり話してみたかったのだ。
相変わらず誰もいない店内。奥でマスターは何か作業をしているようだった。
「すみませ~ん……」
声を掛けると、マスターは振り返る。俺の顔を見ると笑顔になった。
「おう、いらっしゃい。こっちに座りな。一人だろ?」
「はい、すみません」
マスターに言われ、カウンターに腰掛けた。ゆかりに言いたかった事が言えて、すっきりしている。さて、酒でも飲むか……。
マスターは棚からウイスキーのボトルを手に持ち、カウンターの上に置いた。酒の種類に詳しくない俺は、何の酒だか分からない。しかしボトルには三十年と表記されていた。
今、思い出してみれば、あれはスコッチウイスキーのバランタイン三十年だった。
小さなショットグラスに、無言で酒を注ぐマスター。それを俺の前に静かに置く。
「俺は滅多に人に酒は奢らねえ。でも、おまえは別だ。この酒を飲め。奢ってやる」
「……」
「見てたぞ。この店の中からな。おまえは男だ。よく三時間以上も待っていたな」
このジャズ喫茶は、スナックの目の前にあるので、マスターに一部始終を見られていたらしい……。
ずっと突っ張ってはいたが、誰かに認めてもらいたかったという思いが、心のどこかにあったのかもしれない。俺は自然と涙を流していた。
「俺、明日、地元に帰るようなんです」
「もっといればいいじゃねえか」
「もちろん、もっといたいですよ…。でも知り合いが手術で、帰らない訳にはいかないんです。俺の血液で良ければ、いくらでも使って下さい。それで助かるのなら、気にしないで言って下さいと、先方には伝えてあります。今でもそれはそう思っているんです。でもそれでもここにずっといたいっすよ」
「そうか…。じゃあ、十年掛かっても、二十年掛かってもいい…。また、この町に一度でいいから顔を出しに来い」
「はい……」
「おまえの名前は?聞いておきたい」
「岩上智一郎です」
「そうか、いい名だな。しっかりと暗記しておくぞ。十年でも二十年でも」
「いつになるか分からないけど、俺、またこの倶知安の町に戻ってきます」
大事な男と男の約束をした。
人間の縁とは不思議なものである。
北海道最後の夜。俺はスナック『パピリオ』へ向かう。
ゆかりは入り口に現れた俺にいち早く気づくと、すぐに視線を反らした。ここではゆかりではなく、明美なのだ。他の客の相手もしなければならない。
ママが近づいてくる。目元が心なしか潤んでいるように見えた。
「私ね…。久しぶりに感動しちゃったよ…。ほら、あっけのところの前の席、空けておいたから座りな。ほら……」
ママはゆかり、いや明美の事をあっけと呼んでいた。心憎い気遣い。とても嬉しかった。
すべての気持ちを告白した俺は、妙にスッキリしていた。心の中につっかえていた棒が無くなったような気がする。
ゆかりは、どう俺に店の中で接したらいいのか戸惑っていた。そんな姿も可愛く見える。
他の客とはいつもの明美で接しているが、俺の前で酒を作る時だけは、素のゆかりになっていた。
隣に座っていた三十半ばの客が、話し掛けてくる。
「明日で帰ってしまうんですって?」
何度か店で見かけた事がある程度の仲の客だった。
「ええ、残念ですが…。正直な気持ちをいえば、本当はもっといたいです……」
「ママ、彼に大ジョッキ一杯」
「はいはい」
その客は、俺に大ジョッキのビールをご馳走してくれた。俺はジョッキを片手に立ち上がり、大声で話した。
「ありがとうございます。俺、本当に北海道大好きです。この町が大好きです。このいただいたビール…。気持ちに応えて一気飲みさせていただきます!」
店内中の人が、一斉に拍手をしてくれた。できれば泣きたかった。でも、ゆかりの前では涙を見せる事はできない。大ジョッキを一気で飲み干すと、さらに大きな拍手が起きた。
北海道倶知安町…。なんて暖かい人が多いのだろう。今なら誰にでも優しくできるような気がした。
ゆかりが俺の顔を真剣な表情で見つめていた。
「スッキリしたぜ」
「馬鹿……」
恥ずかしそうにゆかりは笑った。
カラオケを唄う事にした。唄う歌は選曲しなくても、すでに決まっていた。『心の旅』とはなっから決まっていたのだ。
今の俺に、これだけマッチした曲があるのだろうか。感情をいっぱい込めて唄った。
「あ~、だから今夜だけは~。君を抱いていたい~。あ~、明日の今頃は~、僕は汽車の中~。旅立つ僕の心を~。知っていたのか~。遠く離れてしまえば~。愛は終わると言った~。もしも許されるなら~、眠りについた君を~。ポケットに詰め込んで~。そのまま、走り去りたい~……」
俺が唄っている最中、ゆかりは下をうつむきながら店を出ていった。歌が終わっても、しばらく帰ってこなかった。
さり気なく外のトイレに向かう俺。案の定、トイレには誰かが入っていた。
「ゆかり…、いい加減出てこいよ」
「馬鹿……」
トイレから赤い目をしたゆかりが出てくる。そしてそのまま、俺に抱きついてきた。
「おい、誰かトイレに来たらどうするんだよ?」
「いい、構わない……」
「俺は良くても、おまえが良くないだろ?」
本当はずっとこうしていたかった。でも、あえて気持ちを抑えた。そうでないと、明日、とてもじゃないが、地元へ帰れそうにない。
夜中の三時になり、スナック終了の時間がきた。
みんなにお別れを済ませ、凍りついた地面の外に出る。
すっかりと見慣れた銀世界。まだ雪が降っている。でも、もうこの景色ともおさらばだ。
しばらく立ったまま、夜空の星空を見上げていた。
七月から一月までの七ヶ月間、俺は北海道で暮らした。
明日からちょうど二月になる。
かなり昔からここにいたような気がしたが、あっという間の七ヶ月間だった。様々な出来事を経験でき、随分と成長させてもらった町でもある。
店のママが、最後にみんなで食事へ行こうと誘ってくれたが、断った。しばらくこの綺麗な星空を見ていたからだった。
「岩上、またこっちに遊びに来いよ」
鈴木士長は泣きながら笑顔で抱きついてくる。
「短い間でしたが、本当にありがとうございました。鈴木士長…いや、兄さん……」
「何だよ、その呼び方は?」
「ずっとこんな人が俺の兄貴だったらいいなあって」
「馬鹿野郎。絶対にまた来いよな」
みんな快くお別れをしてくれた。たった一人きりで空を見上げる。一つ一つの雪を静かに眺めていた。
最後ぐらい、そうやって格好つけていたかったのかもしれない。
「いつまでそうしている気?」
背後から声を掛けられた。ゆかりの声だった。
俺は上を向いたまま、振り向かなかった。すると、後ろから優しくゆかりは抱きついてきた。全身に電撃が走ったような気がする。
「何故、俺に構う?俺は明日、帰るんだぞ?」
質問には答えず、ゆかりは俺の背中で静かに泣いていた。
俺は振り向いて、ゆかりと向かい合う。優しく頬を撫でてやった。正面から抱きついてくるゆかり。俺は両手をコートのポケットに突っ込んだままだった。
「両腕が空いているよ……」
ボソッと呟くゆかり。俺はポケットから手を抜いて、力強く抱き締めた。
辺りには俺とゆかり以外、誰もいなかった。おそらくママが気を利かせてくれたのだろう。本当に頭が上がらない思いでいっぱいだった。
「こんなに手が冷たくなるまで…。ほんとあんたって馬鹿ね……」
俺の手を握り締めるゆかり。
「ん、ああ…、関東人の手って、冷たくできているんだ……」
十九歳の冬、雪の降る寒い中、俺は初めて主人公になれた。
そのまま自然とゆかりの住むアパートへ向かい、初めて俺は、女というものを抱いた。飽きる事なく、朝までずっとお互いを愛し合った。
北海道の最後の夜はこうして終わった。
この事は一生深く、俺の心に刻まれるであろう。
帰り支度を済ませ、ゆかりの部屋を出る。まだゆかりは眠っていた。起こすと絶対に見送りに来るだろう。そんな事されたら、俺は地元に帰れなくなってしまう。
寝ているゆかりにそっと優しくキスをした。
あと一時間で汽車に乗らないと、飛行機の搭乗時間に遅れてしまう。
駅に向かう最後に、世話になったスナックの前を通る。ママや他の女の子の顔を思い出しながら、しばらくシャッターが閉まっている状態の店を眺めた。
「あれ、そろそろ行っちゃうの?」
誰かが声を掛けてきた。
「あ……」
昨日、俺に大ジョッキを奢ってくれた人が、スナックの横にあるラーメン屋の前で立っている。

なんという偶然だろうか。俺は嬉しくなって満面の笑みを浮かべた。
「どうしたんです、こんな時間に?」
「あれ、言ってなかったっけ?俺、ここの店で働いているんだよ。まあ、実家でもあるんだけどね。これから店を開けるところなんだ」
「俺、寄っていってもいいですか?」
「汽車の時間、間に合うの?」
「ええ、まだ一時間ぐらいあります」
「そっか。じゃあ寄ってきな」
「あ、あのお名前をできれば教えてもらってもいいでしょうか?」
「俺?タケって言うんだよ。まあ入りな」
まだオープン前だというのに、その人は快く俺をラーメン屋に入れてくれた。看板を入る前に見る。『喜龍』と言う名前だった。
俺はカレーライスを注文する。北海道最後に食べるものがカレーライスというのもいいものだ。
タケさんは、すぐにカレーを持ってきてくれた。
「へい、お待ち」
テーブルの上に置かれたカレーを見てビックリした。もの凄い量のカレーだったのだ。
直径三十センチぐらいの皿に、ラーメンに使う丼一杯分ぐらい、ご飯が盛ってあり、その上に皿から零れんばかりのカレーのルーがたっぷりと掛けてあった。いくら食欲あるほうだといっても、これだけの量を食えるかどうか……。
「あれ、少なかった?」
そう言いながら、親切な人は笑って奥に消えていく。またこの店にも来てみたい。素直にそう思う。本当に北海道は暖かい人ばかりである。
汽車に乗り、景色を眺めながらこの七ヶ月間を思い出した。
砲手検定でパートナーを勤めた同期。
重迫撃砲の実弾射撃演習。
浜松町の駅で財布をすられた川内。
理不尽な中隊生活。
鈴木士長との出会い。
スナック『パピリオ』のママ。
そしてゆかり……。
最後にタケさんか。
住めば都って最後の最後で気付くなんて、俺は本当に馬鹿だな……。
千歳空港に着き、飛行機に乗り込む。色々な人たちの優しく暖かい思い出をたくさんもらい、俺は北海道をあとにした。
窓から北海道を眺める。ゆかり、今頃どうしているかな……。
俺は泣きそうになるのを必死で抑え、空に浮かぶ雲を眺めていた。
「お客様、お酒のお代わりはどうしますか?」
先ほどの愛嬌のある店員が声を掛けてくる。
「あ、じゃあ同じものを」
随分過去の回想を深く思い返したものだ。
もし、俺があのまま倶知安の自衛隊を辞めなかったら…、今頃ゆかりと一緒になっていたのかな……。
うん、ここのジンギスカン、味も美味しいや。

この値段でほんといいのって思うほど。
北海道の人たちって本当に優しかったよなあ……。
会計の際、肉食って酒飲んで、二千円ちょっと。
さすがに申し訳なくなり、感じの良かった女性店員にチップだと五千円札を出してすべて釣りを置いてきた。
また亀戸来よう。
何かね、久しぶりに癒やされた。
グーグルマップでの『大衆ジンギスカン酒場ラムちゃん亀戸店』のクチコミを共有しておこう。
喫茶店クレシェンドのあと、気になって寄ってしまいました大衆ジンギスカン酒場ラムちゃん亀戸店。
まずね、ランチタイムでこれで千円って安過ぎ(笑)。
あと店員のはなって娘がとても親切で好感持てる。
ジンギスカンの定食食べて、酒四杯飲んで会計2000円ちょっと。
最初に酒を2杯注文した時、彼女はもしもうちよっと飲まれるなら飲み放題のほうがお得ですよとか、ジンギスカンを焼いてくれたりと、とても接客が親切で優しかったので、何だかとても癒やされた。
こんな金額しか注文してない客に対しても、普段からこういう接客スタイルなんだろうね。
本当に感心してしまった。
味も美味しい、肉も柔らかかった。
この値段でほんといいのって思った。
また亀戸来よう。
いい事したから競馬当たるなあと思ったら、スワンステークス(G2)思い切り縦目で外れやんけ(笑)。
ちなみにアルテミスステークス(G3)は完全に外しました。

↑スワンステークスが思い切り外れで逆でした。
帰りに串市場んへ寄る。
さすがに若菜龍平の値段の梯子外しが酷過ぎたので、さり気なくマスターへ愚痴をこぼす。
「それはさすがにあきまへんなあ。値段が逆って、ほんまあり得へんですわ」
今日は亀戸へ行ったお陰で、何だかほっこりした一日になれた。
あの子と、北海道にいた優しい人たちへ本当に感謝だね。
二千二十三年十月二十九日、日曜日先勝。
いきなり武豊負傷の記事が飛び込んできた。
武豊騎手が負傷。
天皇賞秋のドウデュースは戸崎圭太騎手に変更。
「はあ? 何をやってんの、武は?」
思わず漏れる独り言。
戸崎って悪い騎手じゃないのは分かるけど、以前単勝一点買いしたら、二着で負けやがったからなあ……。
インカジ『レディ』へ出勤。
時間になり天皇賞秋のレースが決まる。
ドウデュースのバカヤロー!
武豊のバカヤロー!
戸崎でやっぱりコケたじゃねえかよ……。
お陰で一着三着四着になっちゃったじゃんかよー!
昨日の亀戸のいい思い出が、すべて吹き飛んだ。
二千二十三年十月三十一日、火曜日先負。
生きる屍のような一日を過ごした翌日。
フェイスブックの過去の思い出で、横浜時代の投稿が出てくる。
あー、横浜のアルペンジロー行きたーい。

あー、横浜の喫茶店コーリンのナポリタン食べたーい。

あー、横浜野毛の三陽の餃子が食べたーい。

そんな訳でプレステーションクラシックを買う事にした。

アークザラッド2が入っていたのが最大の要因である。
インターネットを見ていると、朝日新聞の『Reライフ文学賞』の応募が飛び込んできた。
原稿用紙たった五十枚以上で長文?

久しぶりにやるかと思ったら、締め切りが今日までだった。
しかもあの自費出版の忌々しい文芸社も絡んでいるじゃねえかよ……。
クソ生意気な編集者の上拾石の台詞を思い出す。
突然俺にメール来て「新宿クレッシェンドは世に出さなきゃいけない作品です。七百部で二百八十万出して世に出しましょう」と言ってきた。
頭がおかしいのかと思った。
何故普通の書店で一冊千円程度で売っている本に対し、わざわざ一冊当たり四千円も掛けて自費出版しなきゃいけないのか?
それを正直に伝えた。
すると上十石は高飛車な口調で言う。
「売れる作品なんて作るのは簡単なんですよ。名のある作家に流行のものを書かせれば簡単に売れるんですよ! ただね、何であんたみたいな素人に声を掛けたか分かる? 斬新な発想がほしいんですよ」
「おい…、素人と今抜かしたな? 同じ台詞を俺の前で吐けるのか?」
「いやいや、素人さんの意見など、どうでもよくてね」
石原都知事の掲げた正義を気取ったパフォーマンス。
自身が生み出した新宿クレッシェンドをきっかけに世へ躍り出て、国の腐敗を正したい。
狂った思考かもしれないが、そんな歪んた正義感もあった。
その志を金払えば、本にしてやるだと?
「首洗って待ってろや……」
作家という魂を極限まで小馬鹿にした行為。
俺は『文芸社』まで本当に殴り込んだ。
あれほどデカい口を利いた上十石。
ただの冴えないしょぼくれたオヤジだった。
「おいおい、俺を目の前と、電話の時と随分態度違うじゃねえかよ、あ? すみませんなんて口先で言わず、誠心誠意謝ってみろや。売れる本簡単に作れんだろ、おい? 今作ってみろや」
目を見開いて脅す。
自分のこの行動が悪い事だと、自覚しつつも止まらない。
人間の尊厳を軽く見て馬鹿にしやがって……。
必死に懇願しながら土下座する屑。
優越感に浸りたいからこんな事をした訳じゃない。
文学を冒涜し、売れる本は簡単にできると嘯き、我が子新宿クレッシェンドに対し、金を出さば世に出してやると豪語したいのだ。
自費出版をお願いするならまだ分かる。
何故金を出させようとしつつ、ここまでデカい態度を取れるのだ?
人間的に気に食わなかった。
本当に信念があっての言葉なら、電話口の向こうやメールで姿が見えないセーフティーな状況だけでなく、本人を目の前にしても同じ事を堂々と言えるはず。
今思えば警察沙汰にされなかった俺のほうが助かった形になったが、仮にあれで捕まっていたとしても後悔はない腹積もりである。
どうせ、こっちは元々いつパクられてもおかしくない裏稼業にいるのだ。
あの当時の時代背景が俺自身をイケイケにしていた。
うーん…、三十代前半の俺って、かなりお馬鹿だったよね……。
そんな俺も五十二歳。
あの頃のような気性も腕力も、心筋梗塞と同時に失ってしまった。
歳を取るって嫌なものだなあ。
いやいや、暴力ですべて解決しようとした若い頃の俺。
それ自体悔い改めよって感じだろ。
でも、十九歳や三十代ちょっとじゃ、もう二十年も三十年も昔の話。
本当にこんな人生になるなんてなあ……。
しょぼくれた俺の二千二十三年の十月は、自称俳優の梯子外しでこうして終わった。

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