誰が「安心して練習できるか」で将来が分かれる教育は、平等なのか――都市部と地方出身の学生の対比から見える、国立大学における構造的不正義
序:前稿を書き終えて、気づいたこと
前稿「国立大学は、誰の人生を実験にしているのか」では、東京藝術大学(以下、芸大)を例に、国立大学が高額な総コストと不確定なリターンを個人に負わせている構造を、憲法に照らして検討した。
論考を書き終えた後、あらためて考え直す中で、ひとつ、より根源的な問いが浮かび上がった。
同じ国立大学に在籍していながら、「誰が安心して練習に専念できるか」によって、将来の可能性が決定的に分かれてしまっているのではないか。
もしそうだとすれば、それはもはや日本国憲法が想定している「教育の平等」とは言えない。これは、構造的不正義と呼ぶのが正確ではないだろうか。
本稿では、都市部在住の学生と、地方出身で上京した学生の対比を軸に、この問題を静かに可視化していく。
第1章 二つの学生像――条件の違いは、努力の違いではない
まず、現実に存在する二つの学生像を整理しておきたい。学部は音楽学部を想定している。
① 都内在住・実家暮らし・経済力のある家庭
* 家賃負担がない、または極めて小さい
* 生活費の不安が少ない
* アルバイトをせず、練習時間を最大化できる
* 学外レッスン・遠征・コンクールへの参加が比較的容易
② 地方出身・上京・一人暮らし・家の資力が乏しい
* 高額な家賃・光熱費・食費を常に背負う
* 生活費を賄うため、アルバイトが不可避
* 練習時間・休養時間が削られる
* 学外レッスンや遠征は、金銭面だけでなく時間面でも重荷
ここで重要なのは、この差が、本人の努力や意欲によって生じているものではないという点である。出身地、家族の経済状況、居住条件、いずれも、学生自身が自由に選び直せるものではない。
第2章 音楽教育において、条件差は成果差に直結する
音楽教育、とりわけ演奏系の専門教育は、
* 練習時間の量
* 心身のコンディション
* 安定した練習環境
* 継続的な専門指導へのアクセス
に、成果が極めて強く依存する。従って、「生活のために練習時間を削らざるを得ない」という状況は、単なる苦労話では終わらない。それは、将来の可能性が、構造的に狭められている状態を意味する。
同じ大学、同じ学部、同じ教員の下にいながら、片方は「練習に専念できる条件」を持ち、もう片方は「生き延びるために練習を削る条件」を強いられている。
これを「実力差」と呼ぶことは、正確だろうか。
第3章 極端な節約が示すもの――尊厳の問題
以前、二宮敦人『最後の秘境 東京藝大』(新潮社)には、次のような学生の証言が紹介されていて、印象深く覚えている。
「金がないので、家ではトイレットペーパーを使わない。トイレは外出先で済ませる。」
これは、単なる美談でも、自己管理の巧みさでもない。
* 生活の尊厳が削られている
* 健康や安全が脅かされている
* その状態で、高度な専門技能の維持・向上を求められている
しかも、その隣には、生活不安なく練習できる学生や、経済的支援を受けながらキャリア形成できる学生が、同時に存在している。
ここで問われるべきは、同じ国立大学教育として、この条件差は許容されるものなのかという一点である。
第4章 「才能ある若者が集まる場」からの逸脱
芸大はしばしば、「才能ある若者が集まる場」として語られることがある。
芸祭に行っても、この言葉を裏書きするような若者が多かったという印象を抱いたことがあり、あながち間違ってはいないように思われる。
しかし、音楽の場合、現実には、「誰が安心して練習に専念できるか」で、将来が大きく分かれてしまう場になってはいないだろうか。
もしそうであるならば、そこで行われているのは才能選抜ではない。生活条件選抜である。才能や努力ではなく、「練習に専念できる生活基盤を持てるかどうか」が、結果を左右しているとすれば、それは教育の名に値するだろうか。
第5章 憲法が想定する「教育の平等」との緊張
日本国憲法26条は、「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」を保障する。
また、国際人権基準である社会権規約13条も、高等教育への平等なアクセスを求めている。
この規約の締約国は、教育についてのすべての者の権利を認める。締約国は、教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきことに同意する。
高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。
ここでいう「均等」は、単に同じ授業を受けられることではない。
学ぶために必要な条件が、著しく歪められていないことまで含んで、初めて意味を持つ。
都市部在住か、地方出身か。実家暮らしか、一人暮らしか。この違いによって、教育成果が事実上左右されるとすれば、それは憲法及び社会権規約の想定する平等・均等とは、深い緊張関係にあると言わざるを得ない。
第6章 国家不作為としての構造
この不平等は、偶然生じたものではない。
* 都市集中の現実
* 地方出身者が上京せざるを得ない構造
* 専門教育が要求する時間と環境
* それらに対する制度的補正の不在
これらを国家は十分に予見できたはずである。
それにもかかわらず、
* 居住コスト格差への是正
* 練習環境・生活基盤の保障
* 条件差が成果差に直結する分野特性への配慮
が、制度として整えられていない。これは、国家不作為の問題として捉えざるを得ない。
おわりに:背筋が寒くなる問いとして
本稿で扱った問いは、決して感情的なものではない。
国立大学は、「誰が安心して練習できるか」で将来が分かれる教育を、本当に提供してよいのか。
この問いに、明確な答えを出すことは容易ではない。しかし、この問いを見なかったことにすることは、公共教育を名乗る社会として、許されないのではないだろうか。
前稿で問うた「国立大学は、誰の人生を実験にしているのか」という問いは、ここでさらに具体的な形を取る。
その実験台にされやすいのは、地方出身で、経済的に脆弱な学生ではないのか。
この問いを静かに差し出すこと自体が、教育と文化を真に尊重する社会への、最初の一歩なのだと思う。
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