人事やHRは、「教育」を忘れていないか
教育という言葉。大人が子供に使うものだと感じていなかったか。
無意識にそう判断して、考えてすらなかったんではないか。
教育は自分とは無関係だと、感じていなかったか。
コーチングばかりしていないか。
いつから教えることの喜びを、疎ましく感じるようになったか。
どうして人と向き合うより、画面と向き合っている方が
生きている実感を持つようになったのか。
最近の人事は、忙しい。
労務を守る。
採用を回す。
制度を作る。
評価を運用する。
人的資本を開示する。
エンゲージメントを測る。
キャリア自律を掲げる。
リスキリングを企画する。
HRテックを導入する。
AI活用も考える。
やることは増えている。
でも、ふと思う。
人事やHRは、「教育」を忘れていないか。
もちろん、研修はやっている。
eラーニングもある。
管理職研修もある。
オンボーディングもある。
リスキリング施策もある。
1on1もある。
キャリア面談もある。
だから、教育をしていないわけではない。
でも、教育という言葉の中身が、いつの間にか薄くなっていないか。
受講させること。
コンテンツを配ること。
研修会社を選ぶこと。
スキルマップを作ること。
学習時間を記録すること。
資格取得を補助すること。
これらは教育の一部である。
しかし、教育そのものではない。
教育とは、人が世界の見方を変え、行動を変え、他者との関係を変え、仕事を引き受ける力を変えていく営みである。
人事が忘れている教育とは、研修のことではない。人が変わるための条件を、組織の中に埋め込むことである。
今回扱う研究
今回は、人材開発、研修転移、経験学習、組織学習、熟達研究、心理的安全性をつなげて考える。
人事が教育を忘れているというのは、研修をしていないという意味ではない。
研修を、人が変わるプロセスとして扱えていないのではないか、という問いである。
1. Baldwin & Fordの研修転移研究
内容: BaldwinとFordは、研修で学んだことが職場で使われ、維持されることを研修転移として整理した。転移には、受講者の特性、研修設計、職場環境が関わるとされる。
著者: Timothy T. Baldwin、J. Kevin Ford。
掲載誌: Personnel Psychology、1988年。
今回の記事での読み方: 研修は、受講した瞬間には完了しない。職場で使われて初めて教育になる。だから、人事は研修そのものより、研修後の環境を見なければならない。
2. Kolbの経験学習理論
内容: David A. Kolbは、学習を経験、内省、概念化、実験の循環として捉えた。経験は、それだけでは学習にならず、振り返り、意味づけ、次の行動への試行を通じて学びになる。
著者: David A. Kolb。
主な著作: Experiential Learning、1984年。
今回の記事での読み方: OJTや現場経験は、放っておけば教育になるわけではない。経験を学習へ変えるには、内省と概念化と次の試行が必要である。
3. Argyris & Schönのダブルループ学習
内容: ArgyrisとSchönは、組織学習を、行動を修正するシングルループ学習と、前提や価値、判断基準そのものを見直すダブルループ学習に分けて捉えた。
著者: Chris Argyris、Donald A. Schön。
主な著作: Organizational Learning、1978年。
今回の記事での読み方: 教育は、やり方を教えるだけでは足りない。なぜそう判断するのか、どんな前提で動いているのかまで扱う必要がある。
4. Ericssonらの意図的練習
内容: Ericsson、Krampe、Tesch-Römerは、熟達には単なる経験年数ではなく、弱点に焦点を当て、難しい課題に取り組み、フィードバックを受けながら改善する意図的練習が重要だと論じた。
著者: K. Anders Ericsson、Ralf T. Krampe、Clemens Tesch-Römer。
掲載誌: Psychological Review、1993年。
今回の記事での読み方: 成長は、経験を積めば自然に起きるものではない。伸ばすべき部分を見つけ、負荷をかけ、修正する場が必要である。
5. Edmondsonの心理的安全性
内容: Amy C. Edmondsonは、チームの心理的安全性が学習行動に関わることを示した。心理的安全性は、対人リスクを取っても大丈夫だと感じられる状態であり、質問、報告、相談、失敗共有を支える。
著者: Amy C. Edmondson。
掲載誌: Administrative Science Quarterly、1999年。
今回の記事での読み方: 教育には、間違える余地がいる。質問できず、試せず、失敗を共有できない職場では、学習は起きにくい。
HRの言葉から、教育が消えていく
人事の言葉は、ずいぶん変わった。
人材開発。
タレントマネジメント。
エンゲージメント。
キャリア自律。
リスキリング。
人的資本経営。
パフォーマンスマネジメント。
サクセッションプラン。
People Analytics。
どれも大切である。
でも、言葉が洗練されるほど、「教育」という泥くさい言葉が奥へ引っ込んでいく。
教育という言葉には、手触りがある。
教える。
待つ。
見守る。
叱る。
問い返す。
やらせてみる。
失敗を一緒に見る。
本人の癖に向き合う。
もう一度やってみる。
面倒である。
だから、現代のHRは、教育を少しきれいな言葉に置き換えたくなる。
学習機会の提供。
成長支援。
自律的キャリア形成。
リスキリング環境の整備。
管理職による伴走。
悪い言葉ではない。
でも、きれいな言葉にした瞬間、教育の重さが薄まることがある。
教育は、本人任せではない。
教育は、コンテンツ提供でもない。
教育は、制度項目でもない。
教育とは、人が変わるまで付き合うことである。
研修はあるのに、教育がない
多くの会社には研修がある。
新入社員研修。
階層別研修。
管理職研修。
評価者研修。
ハラスメント研修。
コンプライアンス研修。
キャリア研修。
DX研修。
でも、研修があることと、教育があることは違う。
研修は、学ぶ場所である。
教育は、変わる条件である。
研修は、知識を渡す。
教育は、行動が変わるまで支える。
研修は、受講で終わる。
教育は、現場で始まる。
研修は、コンテンツを設計する。
教育は、経験、内省、フィードバック、試行を接続する。
ここを混同すると、人事は「やった感」を得る。
受講率は高い。
満足度も悪くない。
アンケートも取った。
資料も配った。
動画も見せた。
でも、現場は変わらない。
なぜなら、教育が研修室で止まっているからである。
今回の概念: 教育不在のHR
今回置きたい概念は、これである。
教育不在のHR。
教育不在のHRとは、制度、データ、施策、研修は増えているのに、人が変わるプロセスへの関与が薄くなっている状態である。
教育不在のHRでは、こういうことが起きる。
研修はあるが、現場で使われない。
キャリア自律を掲げるが、選べる経験がない。
1on1はあるが、問いの質が低い。
評価制度はあるが、フィードバックが育成にならない。
リスキリングはあるが、業務と接続しない。
管理職研修はあるが、管理職の仕事量は減らない。
人材開発方針はあるが、誰をどう育てるかは現場任せである。
これが教育不在のHRである。
教育がないわけではない。
教育っぽいものは、むしろ多い。
でも、人が変わるための回路が弱い。
教育とは、変化の回路をつくること
教育を、もう一度定義したい。
教育とは、知識を渡すことではない。
教育とは、人が経験から学び、行動を変え、判断の前提を更新し、次の仕事に移せるようにする回路である。
この回路には、少なくとも五つの要素がいる。
一つ目は、経験である。
実際にやってみる場がなければ、人は変わらない。
二つ目は、内省である。
経験を振り返らなければ、出来事はただ流れていく。
三つ目は、概念化である。
何が起きたのかを言葉にできなければ、学びは再利用できない。
四つ目は、試行である。
次に違うやり方を試さなければ、行動は変わらない。
五つ目は、支援である。
問い返し、フィードバック、観察、承認、修正、再挑戦の場がなければ、学びは続かない。
この五つがつながって、初めて教育になる。
だから、教育は人材開発部門だけの仕事ではない。
管理職の仕事である。
現場の仕事である。
人事制度の仕事である。
評価の仕事である。
配置の仕事である。
組織文化の仕事である。
教育は、一部署の施策ではなく、組織の学習能力そのものである。
人事が教育を忘れると、何が起きるか
人事が教育を忘れると、組織は人を「できる人」と「できない人」に早く分けたがる。
できる人を採る。
できる人を抜擢する。
できない人を評価で下げる。
できない人を研修へ送る。
できない人を本人の意識不足として扱う。
もちろん、能力差はある。
成果差もある。
適性差もある。
でも、教育の視点が弱いと、その差を「固定されたもの」として見やすくなる。
なぜできないのか。
どこでつまずいているのか。
どんな経験が不足しているのか。
どの概念がないのか。
誰からどんなフィードバックを受けているのか。
どんな失敗なら安全に試せるのか。
こうした問いが薄くなる。
その結果、人事は選別に寄る。
採用で解決しようとする。
配置で解決しようとする。
評価で解決しようとする。
制度で解決しようとする。
でも、教育を持たない組織は、採用しても育てられない。
配置しても経験を学びに変えられない。
評価しても次の行動につなげられない。
制度を作っても運用で死ぬ。
教育を忘れた人事は、人を見る目が冷たくなる。
「この人は向いていない」
「この人は伸びない」
「この人は主体性がない」
「この人は管理職に向かない」
そう決めるのは簡単である。
でも、人事が本当に問うべきなのは、その前である。
この人は、どんな教育を受けてきたのか。
どんな経験を与えられてきたのか。
どんな問いを返されてきたのか。
どんな失敗を許されてきたのか。
どんな概念で、自分の仕事を理解しているのか。
ここを見ないと、人事は育成の責任を本人の資質に押しつける。
提言1. 研修を「イベント」から「転移のプロセス」へ変える
まず、人事は研修をイベントとして扱うのをやめた方がいい。
研修前に、現場で何が変わるべきかを決める。
研修中に、現場で使う言葉と行動まで落とす。
研修後に、上司が何を観察し、何を問い返すかを決める。
一か月後に、何が使われたかを確認する。
三か月後に、行動が定着しているかを見る。
ここまでが研修である。
Baldwin & Fordの研修転移研究が示すように、学んだことが職場で使われるには、受講者の能力や動機だけでなく、職場環境が関わる。
だから、研修後に現場が何もしないなら、研修はかなりの確率で消える。
人事が見るべきなのは、受講率ではない。
学んだことが、どの仕事で、どの会話で、どの判断で使われたかである。
提言2. 管理職を「評価者」ではなく「教育者」として育てる
管理職は、評価者である。
業務管理者でもある。
目標達成の責任者でもある。
でも、それだけでは足りない。
管理職は、教育者でもある。
ただし、学校の先生になれという意味ではない。
部下の経験を学びに変える人。
仕事の意味を言語化する人。
失敗を次の行動に変える人。
部下の癖を見立てる人。
問いを返す人。
基準を示す人。
任せる範囲を調整する人。
これが、管理職の教育者としての役割である。
人事が管理職に求めるべきなのは、「部下を育ててください」という精神論ではない。
どの場面で観察するのか。
どんな問いを返すのか。
どの失敗を許容するのか。
どこから介入するのか。
どの経験を次の挑戦につなげるのか。
ここまで具体化する必要がある。
管理職を教育者として育てない会社で、部下育成が進まないのは当然である。
提言3. 評価制度を、教育の装置として見直す
評価制度は、処遇を決めるためだけにあるのではない。
評価制度は、組織が何を学ばせたいかを示す装置でもある。
何を評価するか。
どんな行動を見えるようにするか。
どんな成長を言語化するか。
どんな貢献を認めるか。
どんな未熟さを、次の課題として扱うか。
ここに、教育思想が出る。
もし評価が点数と処遇だけで終わるなら、教育にはならない。
評価面談で、本人が何を学んだのか。
次に何を試すのか。
どの経験を積むのか。
上司は何を支援するのか。
人事はどの機会を用意するのか。
ここまでつながると、評価は教育の入口になる。
提言4. キャリア自律を「本人任せ」にしない
キャリア自律という言葉は便利である。
本人が考える。
本人が選ぶ。
本人が学ぶ。
本人が動く。
もちろん、それは大切である。
でも、キャリア自律を本人任せにすると、教育が消える。
キャリアを考えるには、材料がいる。
自分の強みを知る機会がいる。
仕事の選択肢を知る機会がいる。
試せる経験がいる。
フィードバックがいる。
社内外のロールモデルがいる。
今の経験を将来に翻訳する支援がいる。
これがないまま「自律しろ」と言うのは、教育ではない。
それは、責任の移転である。
人事がやるべきことは、本人に考えさせることだけではない。
考えられる材料を渡す。
選べる経験を作る。
試せる余白を用意する。
振り返る場を置く。
言葉にする支援をする。
キャリア自律は、教育の上にしか立たない。
提言5. 人事自身が、教育者として学び直す
最後に、人事自身である。
人事が教育を扱うなら、人事自身が教育を学ばなければならない。
成人学習。
経験学習。
研修転移。
熟達研究。
動機づけ。
キャリア理論。
組織学習。
心理的安全性。
フィードバック。
コーチング。
ファシリテーション。
これらを、流行語としてではなく、実務の見立てに使える概念として持つ必要がある。
教育を知らない人事が、人材開発を語る。
これは、かなり危うい。
制度は作れるかもしれない。
研修も発注できるかもしれない。
資料も作れるかもしれない。
でも、人がどう学び、どう変わり、どう現場で使えるようになるのかを知らなければ、人材開発は浅くなる。
人事は、人を扱う仕事ではない。
人が変わる条件を扱う仕事である。
まとめ
人事やHRは、「教育」を忘れていないか。
この問いは、研修を増やそうという話ではない。
むしろ、研修だけで教育した気になるな、という話である。
教育とは、経験を学びに変えること。
学びを行動に変えること。
行動を次の経験につなげること。
判断の前提を更新すること。
人が変わるまで、環境と関係を整えること。
これを忘れると、人事は選別に寄る。
できる人を探す。
できない人を分ける。
伸びない人を本人の問題にする。
研修を入れて終わる。
制度を作って終わる。
でも、本来の人事は、そこに留まらないはずである。
人は変わる。
ただし、勝手には変わらない。
経験がいる。
問いがいる。
支援がいる。
基準がいる。
安全がいる。
負荷がいる。
言葉がいる。
時間がいる。
人事が取り戻すべき教育とは、この全部を組織の中に置くことである。
人事は、教育を研修部門に閉じ込めてはいけない。教育を、評価、配置、管理職、キャリア、組織文化の中へ戻さなければならない。
これが、これからのHRへの提言である。
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根拠・確認メモ
Baldwin & Fordの研修転移研究では、研修で学んだ内容が職場へ一般化され、維持されるには、受講者特性、研修設計、職場環境が関わると整理されている。
Kolbの経験学習理論では、経験はそれ自体で学習になるのではなく、内省、概念化、実験を通じて学習になる。
Argyris & Schönの組織学習論では、行動修正にとどまるシングルループ学習と、前提や価値を見直すダブルループ学習が区別される。
Ericssonらの意図的練習研究では、熟達には単なる経験年数ではなく、弱点に焦点を当てた練習、負荷、フィードバックが必要だとされる。
Edmondsonの心理的安全性研究では、チーム内で対人リスクを取れることが学習行動に関わるとされる。
出典:
Baldwin, T. T., & Ford, J. K. (1988). Transfer of Training: A Review and Directions for Future Research. Personnel Psychology, 41(1), 63-105. https://gwern.net/doc/psychology/1988-baldwin.pdf
Kolb, D. A. (1984). Experiential Learning: Experience as the Source of Learning and Development. Prentice-Hall.
Argyris, C. (1977). Double Loop Learning in Organizations. Harvard Business Review. https://hbr.org/1977/09/double-loop-learning-in-organizations
Argyris, C., & Schön, D. A. (1978). Organizational Learning: A Theory of Action Perspective. Addison-Wesley.
Ericsson, K. A., Krampe, R. T., & Tesch-Römer, C. (1993). The Role of Deliberate Practice in the Acquisition of Expert Performance. Psychological Review, 100(3), 363-406. https://projects.ict.usc.edu/itw/gel/EricssonDeliberatePracticePR93.pdf
Edmondson, A. (1999). Psychological Safety and Learning Behavior in Work Teams. Administrative Science Quarterly, 44(2), 350-383. https://www.jstor.org/stable/2666999
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