会社が動き始めたのではない。最初に変わったのは、経営者の判断基準だった。
「また設備投資の話なんです。」
ある日の経営会議で、副社長が少し困った表情でそう切り出しました。
社長は行動力のある人でした。
新しい設備。
新しい事業。
新しい挑戦。
会社をもっと良くしたいという想いが強く、次々と投資案件を持ってきます。
一方、副社長は現場をよく知る人でした。
日々の仕事は誰よりも早く処理できる。
社員から相談されれば答えられる。
でも、経営判断になると自信がありません。
「本当に今、投資していいのだろうか。」
「反対したいわけではない。でも何を基準に判断すればいいのか分からない。」
その会社は業績が悪かったわけではありません。
社員もいました。
仕事もありました。
しかし、過去の投資や借入も多く、会社全体としてどこへ向かえばいいのかが見えなくなっていました。
私はその話を聞きながら思いました。
問題は設備投資ではない。
判断基準がないことだ、と。
私はすぐに投資の話を始めませんでした。
「その設備はやめましょう。」
「今は投資すべきです。」
そんな答えを出すことは簡単です。
でも、それでは次の投資案件が出てきた時、また同じことが起きます。
だから私は、まったく違う質問をしました。
「五年後、この会社はどんな会社になっていたら成功ですか。」
会議室が静かになりました。
売上でしょうか。
利益でしょうか。
社員数でしょうか。
地域への貢献でしょうか。
いろいろな言葉が出てきます。
私はさらに質問しました。
「その中で、一番譲れないものは何ですか。」
この問いから、その会社の経営が少しずつ動き始めました。
議論を重ねる中で、経営陣は一つの目標を決めました。
債務償還年数を10年以内にする。
もちろん、10年という数字そのものに意味があるわけではありません。
本当に大切だったのは、
会社全体が同じゴールを見ることでした。
私は続けて質問しました。
「では、その目標を実現するには、何が必要でしょう。」
利益を増やすこと。
キャッシュフローを改善すること。
粗利率を高めること。
投資の優先順位を見直すこと。
現場の生産性を上げること。
各事業の収益性を把握すること。
業務を標準化すること。
一つずつ因果関係を分解していきました。
ここで初めて、MVVやBSC、管理会計、KPIを使いました。
でも、それらは目的ではありません。
経営理論を導入したかったわけでもありません。
「債務償還年数10年」というゴールに向かって、会社全体の因果関係を経営陣全員で共有するための道具だったのです。
すると、不思議なことが起こりました。
最初に変わったのは売上ではありません。
利益でもありません。
副社長の態度でした。
それまで会議では、
「熊谷さん、どう思いますか。」
と私に答えを求めることが多かったのです。
ところが、ある日から言葉が変わりました。
「私はこう考えます。」
理由も説明できるようになりました。
「この投資はキャッシュフローにどう影響するのか。」
「債務償還年数10年という目標に近づくのか。」
「今は優先順位が違うのではないか。」
自分の判断基準で話すようになったのです。
私は、その姿を見て、
会社が変わり始めた
と感じました。
次に変わったのは社長でした。
以前は、
「面白そうだからやろう。」
という発想が先に来ることもありました。
その行動力は会社の強みです。
でも、ある時から質問が変わりました。
「この投資は、私たちの目指す会社につながるだろうか。」
「投資余力は十分あるだろうか。」
「今やるべきなのか。」
以前なら独断で決まっていたことが、
経営陣全員で議論されるようになりました。
私も時々質問を投げます。
「その判断は、10年以内という目標につながりますか。」
すると、副社長が数字を確認します。
社長が現場の状況を話します。
別の幹部がリスクを挙げます。
誰かが反対しても、感情的になることはありません。
全員が同じ判断基準を共有しているからです。
会議の雰囲気も大きく変わりました。
以前は社長が話し、周囲が聞くだけだった会議が、
「現場ではこうです。」
「この数字を見ると別の課題があります。」
という議論に変わっていきました。
特に印象的だったのは、それまで目立たなかった社員の声が評価されるようになったことです。
業務フローを整理し、役割を明確にすると、誰が会社を支えているのかが見えるようになります。
これまで当たり前だと思われていた仕事が、会社にとって重要な価値だったことが分かる。
すると、その社員自身も自信を持ち始めます。
会議の空気が少しずつ明るくなり、前向きな意見が自然と出るようになりました。
数年後。
当初掲げた債務償還年数10年以内という目標は達成しました。
数字だけ見れば、財務改善の成功事例です。
でも、私が一番うれしかったのは、その数字ではありません。
その頃には、私は会議で答えを出す場面がほとんどなくなっていました。
社長が問いを立てる。
副社長が数字で確認する。
幹部が現場の視点を加える。
全員が同じ判断基準で議論し、最後は社長が決める。
私がいなくても、会社が意思決定できる状態になっていたのです。
私は年間400件以上の経営相談をしています。
その中で確信していることがあります。
会社が動かない原因は、能力不足ではありません。
社員が悪いわけでもありません。
幹部が悪いわけでもありません。
多くの場合、経営者自身が
「何を基準に判断する会社なのか」
を言葉にできていないだけです。
だから私は、最初に答えを出しません。
まず、ありたい会社の姿を整理します。
その姿から逆算して、数字を見ます。
そして、数字から現場の行動へ落とし込みます。
私が大切にしているのは、
強み → 価格 → 粗利 → 投資余力 → 持続成長
という流れです。
未来にも投資できる会社であり続けるために、投資余力をつくることを目指しています。
MVVも、BSCも、管理会計も、KPIも、そのための手段です。
経営者がぶれない判断基準を持つための道具に過ぎません。
今日の整理
もし今、
投資判断のたびに迷ってしまう
幹部との議論が感情論になってしまう
会議を開いても結論が出ない
「会社を良くしたい」という想いはあるのに、何から手をつければいいか分からない
そんな状態なら、足りないのは知識ではないのかもしれません。
必要なのは、新しい経営手法ではありません。
「自分は、どんな会社をつくりたいのか。」
その判断基準を整理する時間です。
会社は、制度だけでは変わりません。
最初に変わるのは、経営者です。
そして経営者が変わるのは、答えを教えてもらったときではありません。
「これが自分の経営だ」と腹落ちしたときです。
私は、その瞬間に立ち会い、経営者が自分自身の判断基準で意思決定できる状態をつくることを、この仕事の使命だと考えています。
※本記事の事例は、守秘義務に配慮し、一部内容を変更・再構成しています。
もし今、一人で考え続けていることがあるなら、一度整理してみませんか。
私は、事業承継後の後継者、第二創業、新規事業責任者を中心に、経営者が自分で意思決定できる状態をつくる伴走支援を行っています。
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熊谷 篤
実戦経営アドバイザー/中小企業診断士
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