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「概念」という概念 - 言論よ、さようなら(1) -


「概念」という概念

 今年も大詰めを迎え、昨日今日と仕事納めの方も多いころ。楽しいことも辛いこともたくさんあった怒涛の一年、私もこの記事をもって仕事納めとし、新たな気持ちで、新年から活動を再開しようと思い、筆をとりました。

 この数ヶ月、考えることや書くことから、やっぱり離れられず、ペンを片手に日々を送るなかで、私は「私がずっと違和感を抱いていたのは「概念」だったのではないか」と気がつきました。

 教育、国家、伝統、文化、政治、宗教、社会、保守、言論…

 昨年今頃から今年にわたって取り組んでいた「教育問題」にしても、実は教育という概念と現実に起こった出来事、つまり実体の噛み合わなさから起こっていたことに気がついたのです。

 「破壊は人を成長させる。だからこそ教育者は、若者の内面に踏み込み、時に破壊する必要がある」という教育論で、その現実を片づけられたとき、私はその振る舞いに、強く違和感を感じ、その出来事について批判しました。その結果、私は雑誌の連載を降りることになりました。お知らせした通り、謝罪をいただきましたが、私にとって印象的だったのは、個別の言動や振る舞いについては非が認められ、謝罪もなされたにもかかわらず、その振る舞いを正当化していた「教育論」そのものについては、終始「意見の違い」として扱われていたことでした。

 現実に起きた出来事よりも、それを生み出した「論」のほうが、守るべきものとして扱われている。問題があったとしても、それは現実の側の受け取り方の問題であり、論そのものは問い直されない。私はその出来事を、もはや追及しようとは思いません。教育について語れば語るほど、それは概念に吸い込まれ、実体を失ってしまう。ひとたび、実体に「教育」という概念が持ち込まれた途端、それは、私的な出来事を離れて、公的な、概念的な問題にすり替わってしまうのです。

 ただひとつ、私の中に残った感覚。
 体系化され、整えられた「概念」や「論理」が、現実に起きていること以上に重んじられているということ。そのようなことが、もしかすると、現代ではごく当たり前のことになっているのかもしれません。

 概念。それらは、空気のように当たり前に、信じられるまでもなく、まして疑われることもなく、世界を埋め尽くしています。
 否定するつもりはないけれど、決して定義できない、実体を持つことの出来ない「概念」ありきの世界で、実体ある私たちの生が空しく感じられ、そこに歪みが生まれることも多いのです。

 実体なきものでも、大多数があると思えば、さもあるがごとくに進んでゆきます。今、ここにないものによって出来上がってきた世界で、「今、ここ」を生きることがどれだけ困難なことかを思い知らされます。

 明治期に翻訳された言葉の多くが、概念的なもの。
 伝統、文化、社会、常識、理想、自由…そのような概念。そして、私がもっとも驚いたのは、この「概念」という言葉さえ翻訳語だったということ。すなわち、 concept を翻訳する形で成立した意味での「概念」は、明治以前の日本には存在していなかったのです。
 それらの概念は明治期、一気になだれ込み、日本語となったものなのです。

 ちょっと頭が混乱してしまいそうですが、自由という概念がなかったときの、自由さを想うとき、自由という枠にさえはまらない世界を想うとき、私はわくわくして仕方がないのです。同じように概念という概念のない世界…

 たしかに古典に触れたとき、概念を表す言葉はほとんどないのです。
 そこには、目の前にある景色、浮かび上がる情感、「今、ここ」がありありと描き出されています。概念の存在しない世界を、その感覚を、私は、想像してみることしかできません。
 生が、驚くほど具体的にゆらゆらと立ち上ってくる世界…
 もしかすると、その世界、概念を知らない世界は、心地よいどころか、あまりに生々しく、私にはむせかえるような世界なのかもしれません。が、憧れようと憧れまいと、結局私は、この時代の、この社会の、この規範の、この概念からしか、ものを見ること感じることはできないのだと、歯痒くも納得せざるを得ないのです。

 古典のものがたりを読んでも、自分で古文調の日記を書いても、和歌や俳句を詠ずるときも、概念的なものが入ると、世界観は一気に現代的なものへと変わります。

 現代は、概念的な言葉で世界が埋め尽くされそうになっている。けれども、先にも書いた通り、概念とは実体のないもの。

 これまで、こういうことを意識して暮らしてきたわけではありませんが、ただ、古くからの日本の知恵を借りながら日々の暮らしを営むなかで、ふとした瞬間に、言葉になる以前の情感や、「今、ここ」を生きているという感覚に出会うことが多くあります。私がこれまで綴ってきたものは、そうしたところから生まれてきました。
 ところが、その暮らしの実感とは対照的に、一歩外に出ると、たちまち概念の波に翻弄されてしまう。「現実を見なさい」「それは現実的ではない」と言われることもしばしば。しかし、概念で埋め尽くされたこの現代社会において、そこで唱えられる「現実」とは、いったい何を指しているのでしょうか。

 実体と概念のずれ。
 実体をもたない概念が、私たちの現実に強く働きかけてくること、とりわけ、現実の手触りを無視したまま、それらを無理に整理し、片づけようとするとき、私はいつも疑問を感じるのです。
 たしかに実感としてある幸せを、実体なき概念によって苦しみや不安として感じてしまったり、反対に、痛みを有難いことのように納得させられたり、そのようなことに出会うときにも、同じ問いが立ち上がってきます。

 私のこれまでの関心は、名づけられる以前の人々の暮らしや、そこに受け継がれてきた古い知恵、神秘や不思議へと向いていました。説明や分類の外側にある、そこにしか存在しえないリアリティ。

 漠然と感じていたその感覚は「暮らし」という選択をしてから、いっそう鮮明なものとなり、同時に、実体と概念のあいだに生じるずれや摩擦への興味もつきないのです。
 それは、「問題がある」と言われるときの問題とは違うもの。解決を求められる問題ではなく、もっと純粋な問いとして、立ち上がってくるものです。概念の世界の一部として体系づけられることを拒んできた私だからこそ、出会い気付かされる問い。そこに、これからも続けていきたい探求がある。私の現実から生まれる言葉、探求の連なりが、既存の言論、概念世界の言論を超えてゆく記録となればと願っています。

 次回は、この連載のタイトルを「言論よ、さようなら」としたきっかけ、写真家の森山大道さんのことなど書くつもりです。が、その前に、お正月。今年のおせちはAIに「黒豆のふっくら具合を自慢」と分析されましたが、来年も自慢のおせちをこしらえようと思っています!🍱

みなさま、どうぞ良いお年をお迎えください。



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