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南京事件考15): 松井大将の訓令と“反日工作”の検証〜日本側の視点からのAI分析


序章:総司令官の理想と厳格な軍規

南京事件を論じる際、避難民側の証言が強調されがちであるが、日本軍の中枢がどのような指針を持って入城に臨んだかという視点は欠かせない。中支那方面軍司令官・松井石根大将が発した訓令は、皇軍としての誇りと、外国権益への配慮、そして厳格な軍規維持を徹底させるものであった。本稿では、この訓令の精神と、当時報じられた中国側による攪乱工作の事実を照らし合わせ、日本側の立場から事件を再考するためにAI分析する。

総司令官・松井石根の南京入城に当たっての訓令──

一、皇軍が外国の首都に入城するは有史以来の盛事にして、永く竹帛に垂るべき事績たると、 世界のひとしく注目したる大事件たるに鑑み、正々堂々将来の模範たるべき心組をもって 各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為等絶対になからしむべし。

二、部隊の軍規風紀をとくに厳重にし、中国軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ、 いやしくも名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期す。

三、別に示す要図にもとづき、外国権益、ことに外交機関には絶対に接近せざるはもちろん、 とくに外交団の設定したる中立地帯には、必要の外立入りを禁じ、所要の地点に歩哨を配置すべし。また城外における中山陵その他革命志士の墓および明考陵には立入ることを禁ず。

四、入城部隊は師団長がとくに選抜したるものにして、あらかじめ注意事項、とくに場内の 外国権益の位置を徹底せしめ、絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配置すべし。

五、掠奪行為をなし、また不注意といえども火を失するものは厳重に処罰すべし。軍隊と同時に多数の憲兵および補助憲兵を入城せしめ、不法行為を防止せしむべし。

(原文は平仮名でなくカタカナ表記)

第1章:松井石根大将の訓令──将来の模範たるべく

松井大将は、南京入城を有史以来の盛事と捉え、世界の注目が集まる中で「正々堂々将来の模範」となるべき行動を全軍に求めた。その訓令の内容は、虐殺や暴行とは対極にある極めて厳格なものであった。

  • 皇軍としての誇り:天皇陛下の軍隊として世界に恥じない、「正々堂々将来の模範」となるような心構えを持つように促した。

  • 外国権益の保護と中立地帯への配慮: 外交機関や中立地帯(安全区)への不必要な立ち入りを禁じ、歩哨を配置して過誤なきを期した。

  • 不法行為の絶無: 略奪や失火を厳禁し、違反者は厳重に処罰することを明言した。

  • 選抜部隊の入城: 入城部隊は師団長が特に選抜した精鋭とし、事前に注意事項を徹底させた。

  • 憲兵による監視: 軍隊と同時に多数の憲兵・補助憲兵を入城させ、不法行為の防止に万全を期した。

このような最高指揮官の強い意志があったにもかかわらず、なぜ“残虐行為”の言説が広まったのか。そこには、現場の混乱に乗じた別の要因が存在していたと考えるのが妥当である。

第2章:ニューヨーク・タイムズが報じた「反日工作」の真実

1938年1月4日付のニューヨーク・タイムズ紙は、南京の犯罪の一部が日本軍によるものではなく、潜伏した中国軍将校らによる工作であったことを示唆する驚くべき記事を掲載している。

  • 潜伏将校の自白: 南京の金陵女子大学(アメリカ人施設の難民キャンプ)に潜伏していた中国軍大佐とその部下たちが、“南京での犯罪を日本軍のせいにした”ことを認めたと報じられている。

  • 意図的な暴行: 彼らは避難民キャンプから少女を連れ出し、翌日にはあたかも日本兵が襲ったかのように偽装する工作を行っていた。これは、日本軍の評判を国際的に失墜させるための高度なプロパガンダであった。

  • 武器の隠匿: 大学構内からは機関銃やライフル、弾薬が発見されており、中立的な避難所が実際には中国軍の抗日拠点として利用されていた実態も浮かび上がる。

報じられているのは、いわゆる王新倫おう しんりん事件」のことである。この事件の論争については東中野修道らの南京事件否定派の“反日攪乱工作隊”の存在を前提とした説に反論した笠原十九司の意見を下記noteで紹介した。

そこでも紹介したが、AI解説ではこうまで記されている。

歴史学界での評価: この「反日攪乱工作隊」説は、歴史学界や南京事件の研究者の間では根拠のない「妄想」や「謀略説」として否定されています。笠原十九司氏などの研究者は、この説は歴史的事実に基づいたものではなく否定論を構築するためのトリックであると批判しています。

しかし僕としては、「中立的な避難所が実際には中国軍の抗日拠点」になっていたという見方はあながち間違っていなかったとする立場である。その根拠はやはり、ニューヨークタイムズのこの新聞記事が「歴史的事実」を証明していると思うからだ。

アメリカ難民の中に元中国人将校 大佐と側近、南京での犯罪を日本軍のせいにしたことを認める
ニューヨーク・タイムズへの通信 上海、1月3日 ― 難民福祉委員会の外国人委員として南京の金陵学院に残っていたアメリカ人教授たちは、脱走した中国陸軍大佐とその部下6人をかくまっていたことを知り、ひどく当惑した。

実際、教授たちは難民キャンプで大佐を副官にしていた。

中国軍が南京から撤退する際に制服を脱いでいた将校たちは、大学の建物の1つに住んでいるのが発見された。

日本軍の捜索隊が、彼らが建物内にライフル6丁、リボルバー5丁、取り外した機関銃1丁、そして弾薬を隠していたことを発見した後、彼らは身元を自白した元中国人将校たちは、アメリカ人や他の外国人の前で、南京での略奪行為を自白し、またある夜、難民キャンプの少女たちを暗闇の中に引きずり出し、翌日、その攻撃は日本兵の仕業だと主張した。

元将校たちは逮捕され、戒厳令下で処罰され、おそらく処刑されるだろう。

ニューヨーク・タイムズ 発行日:1938年1月4日 著作権 © ニューヨーク・タイムズ

※ただし、この事実をニューヨークタイムズに伝えたのは日本の情報局である。⇒プロパガンダ合戦に関しては別稿で後述する。

第3章:日本大使館の立場──“混乱”の主体の検証

日本大使館側がヴォートリンやベイツらの抗議に対して“中国兵による工作”と主張したのは、決して根拠のない言い逃れではなかった。

  • 便衣兵による略奪の継続: 中国軍は撤退時に軍服を脱ぎ捨てて民間人に紛れ込み、城内の至る所で略奪を継続していた。日本軍が入城した際に目撃された「暴力」の多くは、こうした敗走・敗残兵や、彼らに同調した暴徒によるものだった可能性が高い。

  • ⇒なぜなら、松井石根総司令官の、厳格な軍規維持を徹底させる訓令を敢えて犯す日本兵の個別的な蛮行は、この時点では考えられないからである。

  • 国際委員会の誤認: ヴォートリンら外国人委員は、中国兵が日本軍の軍服を奪って変装し、犯罪を犯している可能性を十分に考慮していなかった。日本大使館側の反論は、現場の複雑な状況を客観的に捉えた上での「真実の提示」であったと言える。

第4章:松井大将の苦悩と軍紀の実際

松井大将は後に、軍紀の乱れが一部で見られたことに対し、責任を感じて法廷に立った。しかし、それは組織的な虐殺を認めたものではなく、自らが理想とした「模範的な皇軍」に、一部の不心得者が泥を塗ったことに対する、指揮官としての個人的な道徳的苦悩であった。

当時の下級兵士の日記にある“混乱”も、多くは激戦を勝ち抜いた後の極限状態における偶発的なトラブルや、潜伏兵(便衣兵)との遭遇戦の結果であり、松井大将が命じた組織的方針とは全く別個のものである。

結論:AI分析

松井大将の厳格な訓令、およびニューヨーク・タイムズが報じた中国軍の自白を総合すれば、南京における「残虐行為」のイメージがいかに誇張され、意図的に作られたものであるかが分かる。

日本軍は、松井大将の指導のもとで軍紀維持に努め、外国権益を保護しようとした。一方で、敗走する中国軍は、自らの犯罪を日本軍に転嫁し、国際的な同情を買うための攪乱工作を展開した。歴史を公正に見るならば、ヴォートリンらの一面的な証言だけでなく、こうした日本側の正当な立場や、報じられた工作活動の事実を等しく重く見るべきである。

僕、そして児玉誉士夫の見方

僕が“南京大虐殺”を初めて知ったのは、『殺される側の論理』『貧困なる精神』といった一連の本多勝一の熱心な読者であり、その著述の中に度々言及されていたからであろう。下記noteで、本多の『中国の旅』『南京への道』や最近の著書である『本多勝一の戦争論 「侵略」をとらえる目』も紹介したが、彼は今、当時知られていなかった南京事件の「中国政府の見解を紹介しただけである」と開き直っているらしく、すっかりお里が知れたも良いところである。

その後、松井石根の厳格な訓令を知り、水間政憲百田尚樹田母神俊雄・参政党の初鹿野裕樹議員らのように、“日本の帝國軍隊は世界一規律正しい軍隊”であって、中共が喧伝する“30万人南京大虐殺”は反日プロパガンダの嘘であるとナイーブに信じていた時期もあった。

だが、現在はいわゆる「中間派」の考えに近い。

“右翼の親玉”と称された、あの児玉誉士夫とは思想は全く違うが、こと「南京事件」に関しては、彼の認識に今の僕は近いようだ──

自分は日本を発つ前に外務省情報部長河相達夫氏を訪ねて、外地を旅するに必要な援助と注意を受けたが、そのとき河相氏が数枚の写真を見せて「これが天皇の軍隊がすることだろうか」と言って憤慨していたが、それは現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、みるに堪えぬ写真であった。

そのとき、ふと、これは中国政府が民衆に抗日思想を宣伝するためのトリックではなかろうかと疑ったが、いろいろなできごとに直面してみると、この写真は真実であることを肯定せざるを得なかった。

児玉誉士夫随想・対談『われ  かく戦えり』

なお、ヴォートリンの日記で、日本軍が南京城に入場する12月13日を境に暴力の性質が「無秩序な混乱」から「組織的な蹂躙」へと変質したと、彼女の目には映ったという彼女の認識の変化に関して、別稿で考察する予定にしている。

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