南京事件考7):アパ代表らの否定論と笠原十九司による反駁、および反日プロパガンダ
アパホテル代表らの否定論と笠原十九司による反駁、および中国による反日プロパガンダ
緒言:歴史的事実と仮説としての「動機」
1937年12月の日本軍による南京占領に伴う事件は、日中間の歴史認識における最大の懸案であり続けている。本稿は、アパホテルグループ代表の元谷外志雄氏らによる事件否定論の具体的な主張を詳述する。特に、アパグループが主催する懸賞論文で田母神俊雄氏が最優秀賞を受賞した事実は、否定論の背景にある「コミンテルン陰謀説」が単なる個人的見解を超え、保守言論界隈で共有される一つの動機付け仮説となっている状況を象徴するものとして捉える。この仮説を検証しつつ、笠原十九司氏ら肯定派による論駁を検証し、東京裁判の「三十万人以上」という数字が持つプロパガンダ的機能に対する批判的立場を明確にした上で、「量ではなく質」を重視すべきという結論を提示する。
アパホテル客室に南京事件否定本を設置
第一部:南京事件否定論の主張と「コミンテルン仮説」
南京事件の否定論は、物理的な不可能性、証拠の捏造、そして国際的な陰謀という三つの論点から構成され、その核心は、事件の存在そのものを中国側のでっち上げであると断じる点にある。

1. 「人口二十万」論と物理的な不可能性
否定論者が事件の虚構性を証明する主要な論拠は、当時の南京市の人口動態に基づく主張である。元谷外志雄氏の著書『本当の日本の歴史 理論近現代史学』には、以下の通り記されている。
中国は日本軍が南京で三十万人を虐殺したと主張しているが、そもそも当時の南京市の人口は二十万人であり、三十万人を虐殺し、その一ヶ月後には人口が二十五万人に増えていたなどあり得ないことだ。(中略)そもそも日本軍が南京に侵攻したのは、一九三六年、張学良が蒋介石を西安で拉致監禁した西安事件をきっかけに、コミンテルンの指導で第二次国共合作が成立したことで、国民党政府軍は中国共産党への攻撃をやめ、国民党政府軍に共産党勢力が入り込み、日本軍を挑発して、日本を戦争へ引きずり込んでいったことが背景にある。(中略)上海事変で勝利した日本軍は、敗走する国民党政府軍を追撃し、国民党政府の首都であった南京を攻略し、同年十二月十三日に南京占領。このとき敗残兵が住民に対して略奪、虐殺を行なった。それらの敗残兵が民間人の衣服を奪って便衣兵(ゲリラ)となったことから、日本軍は便衣兵の掃討作戦を行った。便衣兵(ゲリラ)の殺害は国際法上認められているものであり、一般住民を虐殺したのはこの敗残兵達(督戦隊が撃ち殺したのは、逃亡中国兵であった。)であった。しかし、こうした事実が歪められて、情報謀略戦として、「南京三十万人虐殺説」が流布されたのである。
1.まず、「『南京大虐殺なること』に関する『犠牲者名簿なるもの』は唯の一人分も無い。」(上海大学歴史学部・朱学勤教授による。平成十九年十二月二十日付産経新聞)。この一点だけ捉えても「南京大虐殺なること」が如何に荒唐無稽な作り話であるかは既に立証された様なものである。(仮に、「南京大虐殺」なることが真実であるならば、「三十万人」という数字の何割かの「犠牲者名簿」が存在しないはずがない。)
2.「南京大虐殺」の犠牲者は、「三十万人」ということになっているが、日本軍が南京を制圧した昭和十二年十二月十三日当時、南京市内には、約二十万人の民間人しかいなかったという記録があり、併せて、約一カ月後、昭和十三年一月十四日の時点では、人口が五万人以上増えて、約二十五万人~三十万人になっていたという「南京安全区国際委員会記録」が残っている(田中正明著『南京事件の総括』二十九頁)。
3.日本軍が南京を占領する約一カ月前、昭和十二年十一月より翌年の九月迄、蒋介石率いる国民党は、ほぼ毎日の様に、欧米のマスコミ関係者を集めて、記者会見を開き、日本軍に対するイメージダウンの目的で、日本軍の不法行為等について嘘八百の発表、宣伝工作を続けていた。そして、その回数は延べ三〇〇回にも及んだという。処が、当時、国民党は「南京大虐殺」などという事を一度も言ったことが無かったという。何故か?それは、その様な事は全く起きていなかったから言わなかっただけである。仮に、当時、南京で「大虐殺」が起きていたならば、其の事を其の記者会見の場で取り上げないはずがなかったであろう。
4.「南京大虐殺記念館」等に展示されている写真は、全て合成写真または、「通州事件」等、中国人が日本人を虐殺した写真を始めとする、全く別の写真であることが、東中野修道教授(亜細亜大学)によって証明されている。もしも、南京大虐殺なる事が真実であるならば、その証拠写真が一枚も無いはずがない(東中野修道・小林進・福永慎次郎共著『南京事件「証拠写真」を検証する』草思社)。 (所謂)「南京大虐殺なること」が有ったと問答無用で決めつけたのは、「極東国際軍事裁判」、(所謂)「東京裁判」の中である。それでは同裁判の内容は一体如何なるものであったのか? 東京裁判を傍聴した冨士信夫氏は、『南京大虐殺はこうしてつくられた』(展転社)の中で、「南京大虐殺」なることが全くの虚構であることを裁判記録として記している。
5.朝日新聞は昭和十二年十二月二十日の朝刊半頁を費やして、『甦る平和都市南京』と題する(平和この上ない、当時の南京の)写真特集を掲載している。この風景こそ虐殺否定の何よりの証拠と言えよう(『南京大虐殺の総括』三十二頁)。
6.「南京に大虐殺が有ったと言う様な記録は、中国側の第一級公式資料である何應欽上将の軍事報告の中にさえ、その片鱗も見出せない。」(『南京事件の総括』八十二頁)。
7.「当時、朝日、東日、読売、日経、など全国紙の各支局を始め、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣していた。これらのプレスマンが異口同音に言うことは、『東京裁判で、南京でのあの様な事件が有ったと聞いて驚いた。』」(同百十一頁)。
8.「中国国民党が、作り話を含めて、日本軍の不法行為を糾弾する為に、一九三八年七月七日、国民党の中央宣伝部が「印刷」した蒋介石の『国民に告ぐる書』のどこを探しても、そこには『南京大虐殺』の文字は見当たらない」(同二百九十六頁)。
その他、多々ある。
因みに当時の南京市の人口20万人説を喧伝したのは、田中正明だったそうだ。彼は、戦前・戦時中は松井石根の私設秘書としてアジア解放運動に従事した。
2. コミンテルン陰謀説の構造と「アパ懸賞論文」との関連性
否定論の根底を支える動機付けの仮説がコミンテルン陰謀説である。この説は、日中戦争から日米戦争に至るまでの一連の出来事を、ソ連のコミンテルンによる陰謀とスパイ活動によって日本が「嵌められた」結果であると捉える。
このコミンテルン陰謀説が、アパグループの主催する言論活動と深く関わってきた事実は、その説の広範な影響力を示す。2008年にアパが主催した「真の近現代史観」懸賞論文の第一回最優秀賞(藤誠志賞)を受賞したのが、当時航空幕僚長であった田母神俊雄氏の論文であった。
田母神論文は、この陰謀説を明確にトレースし、日中戦争をコミンテルンの謀略によるものと断定している。
この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。(中略)これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。(中略)コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。
元谷氏の著書と田母神氏の論文が、日中戦争の動機と日本の行動に対する説明を「コミンテルンの明確な意図」という共通の仮説に求めていることは、この陰謀説が、単なる個人の意見を超えて、特定の保守言論界隈における「正史」として機能してきた構造を明らかにしている。否定論者は、この仮説を根拠として、日本軍には南京で虐殺を行う動機はなかったと主張するのである。
第二部:笠原十九司氏らによる否定論への反駁と論点の再構築
笠原十九司氏を筆頭とする肯定派や主流歴史学は、否定論の論拠、特に当時の人口動態の観点から、資料の正確な解釈と歴史的文脈の提示を通じて反駁している。
1. 「人口二十万」論の資料的批判
笠原氏らは、「当時の南京人口二十万」という数字は、日本軍の進攻前に大多数が避難した後の城内に残留した民間人の概算であり、その後の戦闘や便衣兵掃討作戦における犠牲者の数とは別個に論じられるべきだと主張する。当時の南京市には、避難しきれなかった周辺農村部からの難民や、戦闘中に民間服に着替えた敗走兵が大量に流入しており、人口動態の単純な比較による否定は、当時の複雑な状況を無視していると批判される。
2. コミンテルン陰謀説に対する歴史学的批判
田母神論文や元谷氏の主張の根底にあるコミンテルン陰謀説については、歴史学の主流な見解からは、その歴史的根拠の薄弱さが指摘されている。歴史学者の秦郁彦氏は、この陰謀説の論拠が、特定の著作の根拠不明確な情報に依拠しているに過ぎず、ソ連や日本側の公式資料に基づく裏付けを欠いていると断じる。
くだんの田母神論文は「ソ連情報機関の資料が発掘され…最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」と書いた。根拠としてあげられているのは、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』のほかに『黄文雄の大東亜戦争肯定論』と櫻井よし子編『日本よ、「歴史力」を磨け』だが、後の二冊は『マオ』の受け売りだから、同じ周り灯篭を眺めたに過ぎないともいえる。(中略)田母神俊雄は「盧溝橋事件にしても、中国軍が最初に発砲したことは今では明らかになっている」と述べた後、「侵略どころかむしろ日本は戦争に引きずり込まれた被害者である」と断じる。さらに飛躍して「実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた…目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった」と結論づけた。「シナ事変をはじめたのは中国側で、泥沼にひきづり込んだのはアメリカとイギリスでした」と論じる渡辺昇一史観と同工異曲かもしれない。因果関係を説明するのに、結果から原因へさかのぼる安直な論法だが、コミンテルン陰謀論者の間では珍しくない。蒋介石ばかりかルーズベルトや東条英機でさえも被害者に仕立てられるのだが、さすがに直取引は説得性が弱いと考えてか、側近や部下たちのシンパやスパイに踊らされたという構図にする例が多い。
日中戦争がコミンテルンの明確な計画だけで勃発したとする見解は、当時の日本軍部の対中強硬姿勢や、国民党内の派閥抗争、そして中国側のナショナリズムの高揚といった複雑な歴史的要因を過度に単純化していると批判される。
本稿は、コミンテルン陰謀説を「仮説」として扱うものの、その仮説が、日本軍自らの行動を正当化し、責任を外部に転嫁するための論理的手段として機能してきたという政治的な側面を看過することはできない。
3. 日本政府見解と元将兵の証言の重み
肯定派は、否定論に対し、日本側自身が認めてきた事実の重みを強調する。日本政府は「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」という公式見解を堅持している。さらに、元将兵からの証言は、虐殺の「虚構」論に対し、現場で非人道行為が発生したことの確かな証拠を提供する。
旧陸軍将校の親ぼく団体「偕行社」が1983年、南京事件の情報提供をよびかけたときに、予想に反して元将兵から虐殺を告白する手記が多く寄せられ機関紙「偕行」に掲載されました。(中略)
これらの事実は、中国のプロパガンダとは別の次元で、日本軍の一部による軍紀違反と非人道行為の存在を客観的に示している。
第三部:数字を巡るプロパガンダ戦と「量ではなく質」への回帰
南京事件の犠牲者数を巡る論争の核心は、単なる「数」の確定ではなく、その「数」がもたらす政治的・プロパガンダ的な効果にある。
1. 「象徴的表現」論の拒否とプロパガンダの悪質性
笠原氏らが東京裁判の「三十万人以上」という数字を「大量虐殺があったことの象徴的な表現」として捉えるべきだという見解は、筆者として是認しがたい。特定の具体的な数字を「象徴」として残存させることは、その数字が内包する政治的な攻撃性、すなわち中国の反日プロパガンダの卑劣さを結果的に容認することにつながる。東中野修道教授らによる証拠写真の捏造の指摘は、中国側が事実検証ではなく、情報操作によって論争を有利に進めようとしたプロパガンダ戦の悪質性を如実に示している。この悪質な情報操作は、「虐殺があったか否か」の事実認定とは別に、日本に対する国際的な非難の構造が、純粋な史実のみに基づいていなかったことを証明している。
2. われわれが採るべき立場:「量ではなく質」の直視
したがって、われわれが採るべき立場は、極端な否定論に傾倒することなく、またプロパガンダによって誇張された「数」に盲目的に従うことでもない。それは、当時の保守派知識人であった徳富蘇峰や作家の火野葦平らが示した「量ではなく質」の姿勢に立ち返ることである。
徳富蘇峰は、その『終戦後日記』において、日本軍の行為を厳しく断罪している。
過日ーー昭和二十年十一月十九日及び二十日ーー本多熊太郎翁と会見したる際、翁が南京に特派大使となって赴きたるに、外出すれば、あらゆる女性は、老婆から少女に到るまで、影を見て逃げ隠るるを恠(あや)しみ、その故を問うたるに、(中略)答えて曰く、これは南京攻略の影響が、今なお全く消え失せない為めである。その時の日本軍の乱暴は、想像もつかぬ事で云々と、語ったという事を、予に語った事がある。(中略)今更これを思い出すだに、我々は世界に対して、面目次第がないと思う。かかる将兵で、大東亜聖戦などという事は、余りにも口広き話ではないか。(昭和二十一年二月三日午後、晩晴草堂にて)
徳富蘇峰のこの述懐は、虐殺の「数」ではなく、日本軍が犯した非人道的な行為そのものの重さを問題視している。

徳富蘇峰:[1863-1957]評論家。同志社中退後、自由民権運動に参加。のち民友社を設立、「国民之友」「国民新聞」を発刊し、平民主義を主張。日清戦争後は政府と結び、国家主義の鼓吹者となった。著「近世日本国民史」など。
同様に、戦争協力者として知られた作家の火野葦平も、自らの良心に従い、戦場での実態を以下のように告白している。
残念ながら、日華事変以来、太平洋戦争の戦勝時代、敵地を奪取した日本の占領部隊は、勢あまって現住民を苦しめたことがなかったとはいえない。殺人、暴行、掠奪、放火、強盗、強姦──人間の正常心を失った戦場の鬼となって、それらの行為をした。

火野葦平:[1907-1960] 福岡県出身の小説家。「糞尿譚」で芥川賞を受賞し、『麦と兵隊』などの兵隊三部作で国民的作家となった。
徳富蘇峰と火野葦平の文章は下記notoより重引
これらの証言が示すのは、犠牲者の「数」(量)が数十万であったか否かに関わらず、日本軍の一部による非戦闘員に対する非人道的な暴行(質)が発生した事実である。プロパガンダによって肥大化された「数」の呪縛から離れ、自国の将兵が犯した行為の質を直視し、それを歴史の教訓として位置づけることこそが、歴史論争における建設的かつ倫理的な道筋であると確信する。
