書くこと。記憶の放出。
昨日は、珍しく赤裸々な、というか、今しか書けないな、と思う文章を書かせてもらった。
昨日見た光景が、あまりにもドラマだな、と感じたためである。
読者に何を感じ取ってほしいという目的もなく、ただ、自分が感じたままに書いてみた。
以前から何度かお話しているが、私は、手首を切るような、血が滴るような文章を書いて公開してはいけないと思っている。
手首を切るような文章とは、元々はエッセイ投稿サイト「かがみよかがみ」の編集長・伊藤あかりさんの言葉だ(それを、ライターの師匠・佐藤友美さんから教えてもらった)。
書いて自分が傷つくような文章は書いてはいけない。書くなら、手首ではなく、既に爪や髪となった文章を書くように、という意味である。
昨日、私はわざわざ家庭裁判所の話を書いた。
理由は、この出来事が、私にとって爪や髪になったのか、実際に試したくなったからだ。結果としては、もう、だいぶ爪だし髪だな、という感覚だった。
書くという行為は、自分の記憶を放つ行為でもあると思う。
記憶を思い起こし、文章に落としこむ。そうすると、自分の身体から、完全に出て行くわけではないけれど、少し、外に放たれる。
外に放たれた文章は、私の外で固まって、私の中からは解放される。
そうやっていろんなことを書いては解放して、空いたところにあたらしい何かを蓄えて、また書く。
書く人生と言うのは、そういうものなのかもしれない。
P.S.
奈良県下はどこにでも鹿がいるわけではい。
説得力は皆無だが。
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