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なぜ新聞人は出版人よりエラソーなのか



丸山真男Tシャツ


今度の選挙結果は、「オールドメディアの敗北」と言われたけど、オールドメディア側の反応として、いちばん面白かったのは、今のところ、これでした。


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(読書人 2026/2/12 13:29)


「今こそ」という、この気合いの入り方に、笑ってしまった。

そして、

「ほらやっぱり、左翼の最後の拠り所は、丸山真男とかだ」

と思ったんですね。


少し前に、私は、戦後日本の「リベさよ」のルーツは、丸山真男とか鶴見俊輔とかの「思想の科学」周辺だと書いたばかりでした。


不安症の子供が、不安になるとお気に入りのぬいぐるみを抱きしめるように、日本のリベラル左翼は、不安になると、丸山真男とか、鶴見俊輔とかを抱きしめるんです。

それは、戦後左翼の知的優越性のシンボルなんですね。


俗に、戦後を支配したのは「岩波・朝日文化」というけど、本当は「東大」も第3極として入っていて、「岩波・朝日・東大」文化です。

丸山は、その象徴にぴったりです(ちなみに、丸山の父親は朝日の記者)。


この丸山真男のTシャツ、私もちょっと欲しいけどね。

あと我々、非左翼のリベラルとしては、対抗上、「安藤馨Tシャツ」とかも欲しい・・・。


選挙の後、「知」の領域での「ジャイアントキリング」が必要だ、と書きましたが、丸山真男とか、鶴見俊輔とかのキリングを、誰かやってほしい。

佐藤優とか内田樹とかは、「知の巨人」とか言われているけど、それらに比べれば小物でしょう。

あと、蓮實重彦とか、浅田彰とかのおフランス関係も、出版の世界で力を持ってるから、これらのキリングもお願いしたい。


「オールドメディア」の希望


ところで、「オールドメディアの敗北」と言った場合、いくつか保留が必要だとも思いました。

オールドメディアの中の「誰」が敗北したのか、ということ。


たとえば、左翼マスコミの代表のように言われる朝日新聞だけど、選挙予測では、今回もいちはやく自民党大勝を予測して、「選挙の朝日」の面目躍如でした。

その前後の政治報道でも、いろいろ問題を起こしつつも、政治家取材で「オールドメディア」は、一定の存在感を示したと言っていいでしょう。

つまり、「事実を報じる」部分では、新聞もテレビも、必ずしも負けていなかった。


次に、「オールドメディアの敗北」と言った場合、多くはテレビ・新聞を指していたようですが、「出版」はどうなのか、ということ。

この点が曖昧です。


私は、出版界も、大きくいえばテレビ・新聞同様に左傾していると思いますが、ご存知のとおり、出版はより多様な世界になっています。

「オールドメディア」と言った場合、「テレビ・新聞」と「出版」は、分けるべきではないか、そしてその場合、「出版」と「テレビ・新聞」との関係をどう考えるべきか、という問題があると思う。


最後に、「オールドメディアの敗北」は、「オールドメディアの希望」でもあると思いました。

これまでテレビ・新聞も、出版も、自分たちの不況は「ネットのせいだ」と言ってきた。

しかし、今回の選挙結果が示したのは、それよりも「左翼偏向」が嫌われていた、ということだと思う。

上に述べたように、「事実を報じる」部分では、まだ力を発揮できる。

問題は、オピニオンでの左翼偏向だから、これを是正すれば、ネット時代にも生き残る光が見えてきます。

そういう意味で、オールドメディアには、涙を拭いて、前向きに生きていって欲しいですね。


新聞人がエラソーな理由


あと、「リベラルが嫌われる理由」として、「上から目線」でエラソーで権力的でパワハラ的だから、とよく言われました。

でも、それは必ずしも、リベラルなり左翼なりの思想的特性ではなく、メディアの、とくに新聞メディアの特性だ、と思いました。

早い話、新聞記者がエラソーなんです。

その新聞記者が、「リベさよ」思想を担っているから、「リベさよ」がエラソーに見えている、という事情があります。


私は、新聞業界と出版業界の両方で働いたから、ある程度客観的に言えると思うんです。

新聞人と出版人をくらべたら、そりゃもう新聞人は、出版人の数倍、エラソーです。傲慢です。

というか、新聞人は、この世でいちばんエラソーかもしれない。

しかも、新聞人の中で、エラソーな奴ほど、出世していく。つまりエラソーな奴が、実際にエラくなり、エラソーの2乗になるんです。

(私はテレビ業界を知らないから、はっきりしたことは言えないけど、テレビ人も新聞人並みにエラソーと聞いています)


なぜ、そうなるかというと、彼らは「リアリティの創造者」だからです。

私より少し歳上の新聞記者は、よくこう言っていました。

「報道しなければ、何事も起こらない」と。


普通の人は、新聞記者とは、世の中に起こったことを報道するんだろう、と思っている。

でも、新聞記者は、自分たちが報道するから、何かが起こるんだ、と思っています。


それを、彼らは、新聞社の中で体験的に学んでいくんです。

自分の記事で、誰かを有名にできる。あるいは誰かを罪人にできる。どっかの企業を、繁盛させることもできるし、潰すこともできる。政治家を当選させることもできるし、失脚させることもできる。

そういうふうに「現実」を、自分たちが作り出していけることを、比較的若いうちから学びます。


その「現実創造力」が大きいのは、誰かを有名にできたり罪人にできたりする社会部や、企業や政治家の生殺与奪を握る経済部や政治部だから、こういうところにいる記者ほどエラソーになるし、その過程で社会的権力をたくわえて、実際に社内で出世していきます。

ある程度は、出版人にも、同じ「権力」がありますが、新聞人にはおよびません。


この「権力」がある限り、新聞人は、出版や、あるいはアカデミアや文壇に対しても、大きな力を振るうことができます。

出版物の広告媒体としていまだに新聞は有効だし(新聞読者が紙の本を買う傾向が強いから)、出版物の評判を決めるのは新聞の書評ですし、出版物に賞を与えるのも新聞社だったりするからです。

この分野では、新聞はいまだ、テレビ以上の「権威」でしょう。

この力関係があるので、作家や学者も、新聞社を敵に回せません。

作家や学者で新聞を批判できるのは、よほど磐石の立場にある権威者か、あるいはもうネットで生きていこうと決意した人だけでしょう。


でも、メディアの布置の中で、相対的に新聞が低下して、力関係に変化が見られます。

出版も、「紙の本」からデジタルに移行することで、あるいはマンガやアニメで収益を得ることで、「新聞権力」の影響から逃れつつあります。


ただ、学者は、いまだに新聞の権力に縛られているところがあります。

もちろん、べつに有名になりたいと思ってない学者は別ですが。

しかし、世間に知られ、社会に影響力を持ちたいと思う学者は、今もまず新聞という「登竜門」を通るのが常道でしょう。

政治家や経済人も、たぶん同様です。


とはいえ、そうした部分でも、もう変化は目前です。

何より、新聞記者自身が、以前のような「万能感」を、もう持ちません。

たぶん、私より下の世代の新聞人は、もう「自分たちが報道しなければ、何事も起こらない」というようなことは、信じていません。

自分たちが報道しなくても、何事かが起きる。それは、ネットがあるからですね。ネットでも、何事かを起こすことが可能になっています。


古い世代、メディア企業の上層部に残る古い人たちとか、古い政治家、古い学者などは、まだその変化を体感していません。

だから、まだエラソーです。

でも、ネットの影響力を十分に理解している若い新聞記者とかは、もっと謙虚だと思います。


思想の上での左翼偏向がなくなり、かつ、態度の上での「エラソー」がなくなれば、「オールドメディア」の再生の道が見えてきます。

それは、「リアリティの創造者」であることを放棄する代償をともなうとしても、人々の信頼を回復する唯一の道でしょう。


私は、「新聞・テレビ」よりも、「出版」により大きな期待をかけていますが、今日はもうダラダラ書きすぎたので、続きはまたいずれ。


<参考>


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