見出し画像

作者胎内十月図③~江戸の流行作家京伝のアイデアついに出産、ってなんのこっちゃの黄表紙

 アイデアを生み出すことを出産にたとえたマンガ絵本の作品だが、そこに、黄表紙きびょうしとはなにかを示しながら、それでもやっぱりふざけている。ふざけながらも、黄表紙とはどんなものかが、そこはかとなく見えてくる。
 黄表紙きびょうし作者さくしゃ胎内たいない十月図とつきのず」は、山東京伝さんとうきょうでん(1761~1816)作画、文化元年1804年、鶴屋つるや喜右衛門きえもん刊。
 上中下三巻の現代語訳を三回に分けて紹介する三回目、最終回。

 


下巻
十二

 とかく草双紙くさぞうしの作者は、精気せいきをつくし、気根きこんやさねば、よい趣向しゅこうは生まれないとて、精気せいき菩薩ぼさつさずけしは、

○ありがたい、ありがた山の自然薯じねんじょ
○ならずの森の尾長鳥おながどりの卵
○ええい、ままよの、ままの川のうなぎ
大木たいぼく切り口きりくちふといのねの、大木の切り口のような牛蒡ごぼう太煮ふとに

などにて精気せいきをつける。
 
女房「私が聞いても、悪いこじつけと思うから、読者はもっと思うでしょう。さあさあ、無駄口むだぐちをたたかず、さっさとおまんまをお食べ」
京伝「お公家くげ様には、作者は桜で、うば桜ならぬうば作者、おれも今年で二十七年戯作げさくをするので、アイデアもつきるはずさ。二十七歳で年期があける遊女と同じさ。
戯作げさく不器用ぶきようは、ままならぬ」 


ここに出てくる「言葉」たちを擬人化した黄表紙「辞闘戦ことばたたかい新根あたらしいのね」はこちら、

 


十三

十月め
 十月目とつきめは、いやでもおうでも作品を生み出さねばならず。ところが、どう考えてもアイデアが出ず、さるも木から落ちるがごとく、木から落ちたサルの形ができる。
 そのうえ、阿弥陀あみだ如来にょらいならぬ、一寸いっすんさき闇陀やみだ如来にょらいが、この月を担当し、
「良かろうが悪かろうが、かまわずに作れ作れ。いくらおもしろくとも手柄てがらとならず、おもしろくなくってもはじにもならぬ。そこが草双紙くさぞうし、やりっぱなしの作品さ」
と、ふとぱらにしめしたまう。
 
「こうなってきては何でもこじつけで早く生み出すがよい。とかく古い人たちに相談することだ」
と、金平きんぴら見越みこし入道、桃太郎、はちかつぎ姫、薄雪うすゆき姫などという赤本時代の古強者ふるつわものをまねいて相談したまう。
 
闇陀如来「おのおのがたをおまねきしたのは、古きをたずねて新しい趣向しゅこうを知るではないが、よいなおしはござらぬか、どうだどうだ」
京伝「しかし、穴子あなご蒲焼かばやきと草双紙は、焼き直しができぬものだ」
 
古強者たち「わしらのように、虫食いだらけの古本となっては、日ざらしのたなに並べられたままで、再生紙にもされませぬ。とかく今は、岩井粂三郎くめさぶろう(後の五代目半四郎)や沢村源之助(後の四代目宗十郎そうじゅうろう)のような若手歌舞伎役者でなければ主役はとれぬし、坂東三津五郎みつごろうや岩井喜代太郎きよたろう、尾上栄三郎(後の菊五郎)でなけりゃ、女はうれしがりやせん」
「昔の時代のわれわれは、宝永ほうえい四年1707年の富士山大爆発で関東に砂が降ってきたことや、享保きょうほう十三年1728年に江戸城にぞうが来たことのほかは何も知りません」
「年老いた役者の二代目市川団十郎の若作り、山中平九郎が大うけをした舞台を、お目にかけたい」

 


十四

 作者、因果いんが地蔵尊じぞうそんのもうし子として、ようやく一つの趣向しゅこうはらんだけれども、はや十月とつきち、臨月りんげつとなったものの、とかく作品が生まれかねるので、版元はんもとからは、
「生まれましたか。どうだどうだ」
と日々の催促さいそくに家中こまって、お医者様をまねいて、
「早く生まれるお薬を」
たのみけるが、お医者様も、いまだかつて作者がはらんだ子を見たこともなく、医学書にもなく、いろいろな名医がさじを投げておことわりするなかで、一人のとんちのきいたお医者様がうけあって、新しい薬を調合ちょうごうして与えたまう。
 
女房「わたしも初めて妊娠にんしんしているところに、この人もはらみまして、わたしは照れてしまいます」
京伝「早く生もうと思えども、どうにも生まれない」
 
薬の成分は、
教訓きょうくんつらの皮、趣向しゅこう工夫くふう、案じ、地口じぐち、こじつけ、ちょいとした文才、知恵ちえ絵心えごころ気根きこん下手へたの横好きの「へた」を取ったもの
 
医者「とかく毒断どくだちが肝心かんじんでございます。作者の毒断どくだちともうすのは、ちんぷんかんをなまかじりに、故事来歴こじらいれきを生かじりにすべからず、仮名かなづかい、片言かたこと、てにおはのあやまり、草双紙にはゆるします」

 


十五

 お医者様のお薬のおかげにて、作者は産気さんけづき、
「そりゃ、生まれるは」
と、版元はんもとの番頭、若い者、丁稚でっち板木はんぎり、板摺いたずり、販売員まで連れて、かけつけ、腰をき、足をかかえ、上を下への大騒ぎ。花嫁の初産ういざんもおよばぬ騒動なり。
 
女房、しゃしゃり出て指図さしずをする。
「ああ、ふがいない男だ。もっといきみなさい。気のきかねえ」
京伝「そのようにがやがや言われては、気がって、趣向しゅこうが生まれない。ああ、草双紙くさぞうしの趣向を生むのは苦しいものだ。これで親のおんを知った」
 
男「そこが作者の辛抱しんぼうだ。もっといきんだら今に生まれましょう。しかし、あまりいきんだら、あざのある作品が生まれるかも知れぬ」
産婆さんば「わしも、この年まで多くの子を取り上げたが、作者のはらんだのは、はじめて出会いました。つるしたひもを、しっかりにぎりなさい」
左の男「これは難産なんざんとみえる。そうせつながっていちゃあ、どうせ、ろくな作品は生まれめえ」
丁稚「ひどく虫がかぶり陣痛じんつうが起こってるようだ。よくよく作者は虫のいい、勝手なものに見える」
男「この鰹節かつおぶしは産後の胞衣えなおさめるときに一緒に入れるから必要だ。それ、米を持ってこい。米も納めなければならない。しかし、草双紙を生んでも胞衣えなはあるまい、ならあるけど」

 


十六

 作者は、びたりり返ったり、おおいに苦しみけるが、大勢おおぜいの願いで、ようやく生み落としたのは、のろまの玉子のような作品、しかも三つ子にて、上中下巻三冊の草双紙くさぞうしなり。最初に生まれたのを上太郎と名付け、次を中次郎、その次を下三郎と名付ける。
あんずるよりむがやす
と、ことわざにいうとおり、版元はんもとはもうすにおよばず、作者の仲間一同、大喜びに喜びけり。
 
 作者が、黄色のくさい玉を飲んだと夢に見てできた作品なので、草紙ぞうしくさ草紙ぞうし、また黄表紙きびょうし名付なづけるが、あまりにひどいので、後に、絵草紙えぞうし草双紙くさぞうしと言いえたり。
 
 赤本あかほん赤子あかごの泣き方も特別なり、
板木はんぎぁはんぎぁ」
と泣く。
 
女房「急いで生んだ作品だから、誤字ごじ脱字だつじがあるかも知れぬ。番頭さん、気をつけて確認しておくれ」
番頭「産後の様子もようござりますか」
 
京伝「野郎やろうのおさんは、風邪かぜをひいて寝ているみたいだ」

 


十七

 因果いんが地蔵尊じぞうそんのおかげにて、せつない思いをして、ようやく生み出した三冊本、どうでろくな作品ではござりませぬが、そんな子ほどかわいく思うのが親心なれば、悪いところも、良い良いとご評判にしてくだされ、ひとえに願いたてまつりそうろう。
めでたしめでたし
 
子「あの本どこの本、鶴屋つるやの本、まとめてくばろう、茶番ちゃばん芝居の宴会えんかいで、全部買おうと評判評判」
子「流行はやるは上手じょうず、売れぬは下手へたさ」
 
画面左は、京伝店の薬「読書丸どくしょがん」「小児しょうに無病丸むびょうがん」の宣伝。 

 


 こうしてやっと一つの作品が生まれる。
 作中に出てくる京伝の女房は、百合ゆり。彼女は、後妻であり、もと遊女の玉の井たまのいであった。寛政十二年1800年に結婚し、京伝が亡くなる文化十三年1816年まで結婚生活が続くが、子どもはいなかった。十四場面で、「妊娠している」と言っているが、その子は生まれていない。
 子どもはいないが、多くの作品が、京伝の子どもとして今に残っている。
 
出版事情をあつかった京伝の黄表紙には、こんなものもある、

作者の創作秘話、というか朋誠堂ほうせいどう喜三二きさんじのおちゃらけ創作話はこちら、

東海道中とうかいどうちゅう膝栗毛ひざくりげ」の十返舎一九じっぺんしゃいっくの黄表紙作品はこちら、

 

いいなと思ったら応援しよう!