【S7|日本のデザイン】神事としての大相撲---完成してしまったデザイン #5(最終回)
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第5回(最終回)|完成してしまったデザインは、語られなくなる
ここまで、大相撲を「デザイン」という視点から見てきた。
競技としての強さでもなく、
興行としての成功でもなく、
なぜこれほどまでに長く、違和感なく存在し続けているのか。
その理由を探ってきた。
振り返ってみると、大相撲はとても不思議な存在だ。
誰かが「素晴らしい」と声高に評価しなくても、
誰かが「守らなければ」と旗を振らなくても、
気づけば、そこにある。
説明されなくても、理解されている。
更新され続けているのに、変わっていない。
これは、デザインの世界では、ほとんど理想に近い状態だ。
多くのプロダクトやサービスは、
時代に合わせて言葉を足し、意味を足し、機能を足していく。
そうしなければ、置いていかれてしまうからだ。
けれど、足し続けることは、
同時に、壊れやすくなることでもある。
説明が必要になる。
理解されないと成立しなくなる。
支持されないと、続けられなくなる。
大相撲は、その道を選ばなかった。
核を、最初から動かさなかった。
神聖な場としての土俵。
清める所作。
勝負の前に挟まる静けさ。
それらを守り続けた。
その代わり、
周辺は柔軟に変えてきた。
屋内化し、照明を入れ、映像を使い、
外国出身の力士も受け入れた。
けれど、
触ってはいけない場所には、触れなかった。
守ってきたのは、形式ではない。
思想でもない。
場のデザインそのものだ。
だからこそ、大相撲は、
「何をしているのか」を説明しなくても成立する。
理屈よりも先に、身体が受け取る。
意味よりも先に、空気が伝わる。
私はこれを、
「完成してしまったデザイン」と呼びたい。
完成してしまったデザインは、
もはや語られなくなる。
語られなくなるから、
批評されにくい。
でも、壊れにくい。
それは、
日本人が「考える前に信じている形」に
静かに触れているからだと思う。
現代のデザインは、
どうしても説明過多になりがちだ。
意義を語り、
価値を提示し、
意味を共有しようとする。
それ自体は、悪いことではない。
けれど、ときどき思う。
説明されなくても信じられる形を、
私たちは、どれだけ持っているだろうか。
大相撲は、
その数少ない例のひとつだ。
だから、
時代が変わっても、
人が入れ替わっても、
相撲は相撲のままでいられる。
これは、
デザインが目指せるひとつの到達点だと思う。
派手でなくてもいい。
新しく見せなくてもいい。
語られなくなっても、残っていく。
そんなデザインが、
この世界には、まだ必要なのだと思う。
完
ここまで読んで、
もし何かが静かに残っているなら、
それはまだ言葉になっていないだけかもしれません。
※もし、ご自身の中で「何を守り、何を変えるべきか」に迷っているなら、その基準を一緒に整理することもできます。
→ 言葉になる前のものを、構造として捉え直す
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