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現代に生きる世捨て人⑧ 横尾忠則──老いてなお遊ぶ

人生後半は完成ではなく、自由へ向かう

人生の前半、私たちは上手になろうとして生きている。

失敗しないようにする。正しい答えを出そうとする。評価されるものを作ろうとする。社会の中で認められようとする。

若い頃には、それが必要である。何も知らないところから始まるのだから、学ばなければならない。技術も社会のルールも覚えなければならない。

けれども人生後半になると、別の問いが現れる。

上手になることだけが、人生なのだろうか。完成することだけが、人生なのだろうか。

その問いに、鮮やかに答え続けている人がいる。横尾忠則である。


横尾忠則は、日本を代表する美術家である。グラフィックデザイナーとして出発し、絵画、版画、舞台美術、装丁、執筆など、さまざまな表現を続けてきた。

しかし横尾忠則の面白さは、単に長く活躍していることではない。年齢を重ねても、同じ場所に留まらないことにある。

普通、人は年齢を重ねるほど、自分の型に閉じこもりやすい。

これが私のやり方だ。今さら変われない。

そうして少しずつ、世界が狭くなっていく。

しかし横尾忠則は違う。

新しい表現を試す。昨日までの自分を壊す。完成された作家像に安住しない。まるで子どものように遊び続ける。


人は年齢を重ねるほど、「分かったつもり」になりやすい。

世の中はこういうものだ。自分はこういう人間だ。

経験は知恵になる。けれども同時に、経験は檻にもなる。

若い頃に身につけた成功体験が、その人を縛ることがある。かつて評価された方法を、ずっと手放せなくなることがある。

横尾忠則は、その檻を壊し続けている。

分かったことに安住しない。完成した自分に満足しない。むしろ、分からないままでいる。変わり続けるままでいる。

だから新しいものが入ってくる。

創造とは、完成へ向かうことだと思われがちである。しかし本当は、創造とは壊し続けることなのかもしれない。

昨日の自分を壊す。慣れた表現を壊す。「自分らしさ」さえ、ときに壊す。


これは勇気のいることである。若い頃より、年齢を重ねてからのほうが難しい。

なぜなら、人は年齢を重ねるほど、守るものが増えるからである。

名声。実績。肩書。周囲の期待。

それらを持つほど、人は冒険しにくくなる。失敗したくない。評価を落としたくない。

けれども横尾忠則は、どこかでその恐れから自由である。失敗さえ作品の一部にしてしまうような軽さがある。

人生後半には、この軽さが大切になる。

若い頃の失敗は怖い。評価が下がる。仕事を失うかもしれない。

しかし人生後半の失敗には、別の意味がある。もう誰かに点数をつけてもらうだけの人生ではない。

絵を描いてみる。歌ってみる。文章を書いてみる。人に見せるつもりのないノートを作ってみる。

うまくいかなくてもよい。それを楽しめる自由がある。


良寛を思い出す。

良寛は、偉い僧侶として権威をまとわなかった。子どもたちと遊び、笑い、書を書いた。周囲から見れば、役に立たない時間だったかもしれない。

しかし良寛は知っていた。遊びの中に、人間の自由があることを。

遊びとは、怠けることではない。結果から自由になることである。役割以前の自分に戻ることである。

横尾忠則にも、同じ遊びがある。

絵を描く。しかしただ仕事として描くのではない。遊ぶように描く。驚くために描く。自分でも予想できないものに出会うために描く。

人生後半に必要なのは、立派になることだけではない。もう一度、遊べるようになることなのだと思う。


ニーチェは精神の成熟を三つの姿で語った。ラクダ、ライオン、そして子どもである。

ラクダは重荷を背負う。人生前半の多くはラクダの時代だ。義務を背負い、評価に応え、耐える。

やがてライオンになる。世間の価値観に「否」と言う。自分の人生を取り戻す。

しかし最後に現れるのは、子どもである。ラクダとして背負い、ライオンとして否と言ったあとで、なお世界に驚く子どもである。

横尾忠則の姿には、このニーチェの子どもが見える。

多くを経験した人が、なお遊ぶ。多くを作ってきた人が、なお壊す。多くを知ってきた人が、なお分からない場所へ向かう。

これは若作りではない。世界に驚き続けることである。


ユングが語った「個性化」もここに重なる。

人生後半は、社会が求める自分ではなく、魂が求める自分へ帰っていく時間である。

誰かの期待ではなく、自分の内側から湧いてくるものに従う。

成功より好奇心。完成より実験。評価より創造。安定より変化。

だから年齢を重ねても、世界への驚きが消えない。


人生後半には、終わるものが増える。

仕事が終わる。役割が終わる。社会の中心から少し離れる。

すると空白が生まれる。何をすればいいのだろう。

そのとき多くの人は、新しい役割を探そうとする。

しなければならない活動を探す。しかし「しなければ」になった瞬間、また新しい義務になる。

横尾忠則は、別の方向を示している。

役割ではなく、遊びである。意味があるからやるのではない。面白いからやる。評価されるからやるのではない。心が動くからやる。


老いとは、驚けなくなることではない。

むしろ、余計な競争から離れることで、もう一度驚けるようになることかもしれない。

若い頃は、何を見ても評価に結びつけてしまう。これは役に立つか。これは成果になるか。

しかし人生後半には、そうした問いから少し自由になれる。

ただ面白い。ただ不思議だ。ただ心が動く。

その感覚を取り戻すと、人は再び創造的になる。

創造は、芸術家だけのものではない。

暮らしを工夫することも創造である。庭を手入れすることも、日記を書くことも、老い方を自分で選び直すことも創造である。

人生後半の創造は、派手でなくてよい。誰にも見せない絵でよい。台所の一皿でよい。自分の心が少し動くなら、それは創造である。


老いには、若い頃には得にくかった自由もある。

競争から降りられる。人と比べなくてよくなる。自分の失敗を少し笑える。意味のないことを楽しめる。

横尾忠則の生き方は、その自由をよく示している。

立派な老人にならなくてもよい。もっと遊んでよい。もっと驚いてよい。もっと変わってよい。もっと失敗してよい。


タモリは、力を抜く自由を教えてくれた。黒柳徹子は、好奇心を生きる自由を教えてくれた。五木寛之は、下山する自由を教えてくれた。養老孟司は、自然へ帰る自由を教えてくれた。イチローは、競争の果てに残る習慣を教えてくれた。瀬戸内寂聴は、苦しみを抱えたまま生きる勇気を教えてくれた。星野道夫は、自分を小さくする自由を教えてくれた。

そして横尾忠則は、老いてなお遊ぶ自由を教えてくれる。

人生後半は、完成する時間ではない。もう一度子どもになる時間である。

老いとは、終わりではない。創造の形式が変わることである。

立派な老人になるより、遊べる老人になる。完成された人になるより、変わり続ける人になる。

そのほうが、魂はずっと自由なのかもしれない。


今回の問い

あなたは最近、何かを「役に立つから」ではなく、「ただ面白いから」という理由でやったことがあるだろうか。

もし誰にも評価されないとしても続けたい遊びがあるとしたら、それは何だろうか。


Kashimono / Karimono
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