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教室のドアの向こう→『社会』?「社会」?


▽今回の音楽



教室のドアの向こう

リーガルリリー - 『教室のドアの向こう』


とある高校の卒業式にて、卒業生代表の女子生徒がスピーチを行った。

その締めの言葉はこうだった。

「私は、社会の歯車になりたいのです」

集まった人々は心底感動し、感心したようで会場からは盛大な拍手がおくられた。

私は…。




One for all, All for one
ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために


スポーツにおいてよく使用されるスローガンで、元々の文脈で使われていた意味合いと現在のニュアンスはたしかに異なりますが、しかし、
みんなの中に私が居て、だから、みんなのために在れる私でいたいと、
「社会」性を育むに非常に確かな肌触りをもつ和訳であると感じます。


ところであなたは「すばらしい新世界(BRAVE NEW WORLD)」という小説をご存じですか?





この物語の中には「私はみんなのもの」という用語が出てきます。

作中の歴史において人類存続の危機ともいえるほどの戦争を経験し、その根本原因が非合理極まりない、「ひとりへの愛」、だとされたのです。
簡単に説明すると、
「愛とは根本的に差別」、ということであり、
だれかを愛しているとき、「愛する者」と「それ以外」にわけている。
「それ以外」のものはどうでもいいと。
どうでもいいとまでは言わなくても、「愛する者」のためなら犠牲にしてもかまわないと。

このような「理性」なき、「ねちゃねちゃ」した執着がつもりつもって、存続の危機にまで人類を追いやったので「私はみんなの公共物」というように不特定多数の人々と性交渉をすることが望ましいとされているのです。

このころには人工的に『社会』維持に必要な数の人間を工場生産的に作成できるので、妊娠の機能は特定の個体にのみ与えられていて、あくまで性行為は『社会』システム維持上必要なものにすぎず、そこに至っては「私はみんなもの」であるのが望ましく、むしろ「特定の相手の私」というものに強い嫌悪感を覚えるのです。
すべてが『社会』「維持」のための合理性なのです。

さて、

あなたにはまだ、
「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」と、
「わたしはみんなのもの」の違いがわかりますか?

単純な言葉尻として、そして意味としても、突き詰めていけば同じようにも思えてきますが、それぞれの肌触りが違うことを認識していただきたいのです。

これが「社会」と『社会』の違いでもあります。


この二つの「社会」と『社会』が、さらにはもっと多くの社会(【】、()、《》、[ ]、<> etc…)が、日常において一つの単語として会話内で話されているということ。

明らかに違うものでも人々は特に違和感を持たず会話ができているということ。

言葉にはそういった盲点があること(「言葉は嘘をつく」)。


その言葉の盲点を利用し公然と秘密であり続けることができること。


私が言いたいことがわかりますか?


そして、概念から顕現する意味の多様さを隠れ蓑として「核」となる「本質」が見えなくなってしまうこと。

Dについて③「プラトン」啓蒙とは何か👁「洞窟の住民たちへ」


あなたにお伝えしたいことの一つが、こういった擬態をする者たちが案外この世界にはたくさんいるのだ、ということです。

嘘からホントウへの反転について、嘲笑と思いやりと潜伏者の判別について、音楽について


彼が何を表現しているか理解できるようになるでしょう。
また、実はこの世界には鍵を持っている者が理解できる前提の物事が沢山溢れていることも見えてきて、ホントウの世界の一端がみえてくることでしょう。

「わかることを言ってくれる人が良い人」
「わかる説明をしてくれる人が賢い人」
「わかりやすさこそ追求すべきもの」
「わかってくれる人とだけ関わりたい、わかる人とだけ関わりたい」

まずはそれらに閉じ込められていることに気がついていただきたいのです。

雑記12 先日見た夢②「ままとおかあさん、河童と警察、主観と客観」



説明しなければわからない、というのは説明してもわからないということだ

1Q84






つまり言葉とは「箱」に「概念」を入れ込むことで構成されている、と考えます。

この「概念」こそ「言霊」と言えるのではないでしょうか。

Dについて③「プラトン」啓蒙とは何か👁「洞窟の住民たちへ


これは正しく以下の記事で私が触れた、「りんご」という箱(クラス)に🍎の概念(プログラム)を組み込むことで、「りんご」を宣言すれば他者と意思疎通ができる、という主張と重なり、またこれまでの記事で述べてきた通り「概念」がそもそも神である、という主張とも重なるのです。

「表」Dについて「表」①


そのような法則が言葉にあることに気がついた時、とても恐ろしいことができてしまうことにも気が付きます。

例えば「知恵」という言葉を長年使わず、「知識」という言葉で代用し続けることでこの世から「知恵」を消すことができるのです。簡単に言えば「りんご」という箱に🍎だけでなく🍐も入れてしまって、「梨」という言葉を使用しなくなれば、この世から「梨」をなくしてしまうのです。

「表」Dについて「表」①


ニュースピークの基本的な原理は、表す言葉が存在しないもののことは考えることができない、ということにある。たとえば、自由の必要性を訴えたいとき、蜂起を組織するとき、これを言い表す「自由」や「蜂起」といった単語がなければ自由を訴えたり組織をつくったりすることは可能かどうかである。「われわれの言語の限界は、われわれの世界の限界でもある」ともいえる[注 7]。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ニュースピーク


………


とある高校の卒業式にて、卒業生代表の女子生徒がスピーチを行いました。

私が覚えている彼女は、やわらかな雰囲気を身に纏いとても関わりやすく、それでいてとても強い芯が内側にあることを感じさせる少女でした。

彼女がスピーチ内で語ったのは、その3年間の学生生活中、おかあさんやおとうさん、友人や先生方に沢山助けられたということでした。

みんなといられてよかったと。とても感謝していると。

そして締めの言葉に彼女はこう言ったのでした。

「私は社会の歯車になりたいのです」と、

ここでいう社会とは、文脈的にみて明らかに『社会』ではないでしょう。
つまりこの締めの言葉は、彼女なりの『社会』への反抗であったと考えられるのです。

(私はこれから『社会』システムの取り換え可能な部品になるのではない)

(おかあさんがいて、おとうさんがいて、兄弟や友達がいる。
 そんな「社会」の一部になるのだ)

それを敢えて「社会の歯車」、という『社会』的肌触りの表現を使うことで『社会』の意味を反転させた。

つまり、社会という単語の「箱」に組み込まれていた、『社会』という中身(プログラム・概念・力)を「社会」に入れ替えなおして、社会を修正し、
自分の進む未来を人々の前で宣言したということです。

そして集まった人々はそれを理解したから感動し、感心したように盛大な拍手をおくったのだといえます。

もちろん、これほどまでに高度な言語ゲームの戦略を彼女が全て計算して作り上げたとは考えにくく、同様に聴いていた人々に関してもこのゲーム戦略の深みを意識的に理解していたとは到底思えないわけです。

それでも彼女は事実それを成し遂げ、さらに人々は言ってみれば無意識的な、魂と表現することができるほどに深い部分でそれを感ずることができたのです。

統治の都合、世界の在り方、慣習や歴史的文脈による暗黙の了解、

そういった諸々など全く意に介さない無知さに、ある種の智慧が含まれうることや…

「河を渡す橋」祈りの対象とカタチ「クマを背負う者」


昨今に学問と呼ばれているものを下手に妄信すると、こういった「ある種の智慧」がわからなくなる傾向があります。
シンプルに彼女が額面通り「社会の歯車」になりたがっていると捉えて、「彼女は立派だ」とか、「彼女は社会の醜さを何もわかっていない」、としてしまうのです。

そういった学問の盲点がある、ということも覚えておくとよいでしょう。

というより、ニンゲンには盲点があるという大前提があって、もしかしたら、それを照らし啓けば世の中が良くなるとは必ずしも限らない、ということなのかもしれません。



世の中がおかしな方向へ進んでいるように感じる方も多いと思いますが、その根本の大きな原因の一つに「言葉が乱れている」ということがあります。


言葉を取り戻すのです。


あなた自身の想いが乗った言葉を。


それを「世界」に対して宣言することで、あなたの輝く未来が開かれることでしょう。


教室のドアの向こうで



最後までお読みいただき、ありがとうございます。






遥か太古の昔、言葉はまだコミュニケーションのツールではなく、傷を癒したり、物を浮かせるためのものでした。

やがて言葉が意思伝達のために使われていきますが、その頃の言葉はあらゆる意味や概念を、漏れや差異なく完全に、適切に表しており、よって人々の間にすれ違いや、勘違い、嘘といった具合のものは存在しませんでした。

しかし、そのような完全に説明可能な、すべてが満ち足りた世界では人々の「生きていく力」は衰退し、滅びに向かってしまうのです。故に、いわゆる「バベルの塔」と表現されるような、言葉の完全性の崩壊が生じました。

もしくは

これまで何度か記してきたように、「概念」であったり、「意味」であったりというものは、ユング派の言うところの「普遍的無意識」に「居る」、「存在」である、「元型(アーキタイプ)」や「異形の者たち」の「かけら」であるのです。
つまり、それらは言葉が完全性を保っていた時代は適切にこの世界に表現されてきていたものたちだが、そこから言葉が全ての意味を説明できなくなった、「言葉にならない」が生まれたことで、普遍的無意識領域にいる存在達はこちら側の世界に簡単には現れることができなくなってしまったのです。故に「存在」たちは、「ニンゲン」という「装置」に自らを表現・体現してもらおうと「欲動」としてニンゲンの内側に生じるのです。

上記の内容には別の領域の話や、私個人の解釈も含まれてはいるので、気になった方はぜひ調べてみていただきたいところではありますが、こういった考え方を「小文字の他者(対象a)」と呼びます。




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