嘘からホントウへの反転について、嘲笑と思いやりと潜伏者の判別について、音楽について
嘘について、あなたと共に「思考」の旅へ出かけたいと思います。
前提として、ニンゲンはそれぞれの鏡(ガラス)に、それぞれの「世界」を映して、生活というゲームをしています。
あるニンゲンの一群は恋愛シミュレーションゲーム、
ある一群はブロックを積み重ねて建築をしたり、
街づくりや運営のゲームを営む人々もいます。
牧場や農場、会社の経営で収益を稼ぐゲームもありますし、
かたやある一群はシューティングゲームで敵を撃ち、
ある一群は戦略シミュレーションで自らの陣営を拡げます。
ある一群はRPGで広大な世界を、何か心躍るものを求めて巡ります。
ただ、一般に私たちが思うようなスマートフォンアプリや家庭用ゲームソフト等と、私たちが人生において営むゲームでは大きく異なる点がいくつか存在します。
一つに、上記のような様々なゲームすべてが大きな一つの盤面の上で繰り広げられているということです。
そんな中あるゲームと別のゲームを比較したとき、Aのゲームには存在するが、Bのゲームには存在しないパラメーターであったり、AにもBにも存在するが、意味合いや重要さが異なってくるパラメーターが存在することが見えてきます。
例えば、恋愛シミレーションゲームに、「親密度」でも「愛情」でいいですが、そういったパラメーターがあったとして、それはこのゲーム内において意中の相手とのゴール(クリア)に辿り着くために最も重要なパラメーターであるといっても良いでしょう。
一方で街づくり、運営のゲームをしているプレイヤーにとっては、その世界内における個々人の恋愛の「親密度」や「愛情」をわざわざパラメーターにすることは少ないと思われますし、あったとしても、労働人口や若者人口を増やして、街の維持・繁栄のために必要な副次的な数値になることが多いでしょう。
もし恋愛シミュレーションをしている個体が、街の運営ゲームをしている個体の話を聞く機会があって(講演会等)、その中で家族内での「愛情」の大切さや、地域や企業内での「親密さ」について話があったとします。
それは恋愛シミュレーションゲームのプレイヤーにとって、非常に嘘くさく感じることがあるはずです。
それはまさに、それぞれのゲームでパラメーターの意味合いが異なるからなのだといえます。
「いつも言葉は嘘をはらんでいる」、ということです。
「言葉は嘘をつく」、という表現も私は好きです。
少し話が逸れますが、それぞれ各個体のゲームによりパラメターの有無、意味合いが異なる、つまり「言葉は嘘をつく」、ということですが、そうすると、たとえば「政治に関心をもつ」とか、「世界情勢を意識する」,というのは非常に難しい事だと思いませんか?
何故なら、多くの人々にとってまったく別のゲームだからです。
もちろん、「社会の中で、国の中で、世界の中で生活している上で、それらはあなたに非常に関係があることなのだ」、という理屈は実際のところ、多くの人々が理解しているはずです(それもあやしいケースもありますが)。
しかし、理屈としてわかっていても、ゲーム上わからない、ということです。
ゲーム上わかろうとするなら今自分の行っているゲームを一端脇に置かなければなりません。人はそれが不快で仕方ないのです。
ゲームは一日1時間、なんて言われて、あなただって少しくらいの苛立ちは感じるでしょう?
そして、自分が熱中しているゲームが「相対化」されて、ただの数多ある内の一つに過ぎないと突き付けられることに関しても、人は非常に不快なものなのです。
そういった都合上、基本的に「統治」というゲームや「世界のパワーバランスのシーソーゲーム」といったものは、目に見えて共通の大きな盤面が混沌化してからはじめて、多数の人々に問題意識として昇ってくる。反対にいえば、盤面が揺らがなければ人々は「政治」や「世界情勢」を自らのゲームを置いてまで知ろうとはしない、ということです。
それどころか盤面が揺らぎ、ゲームの外の広大な「現実」や、深淵な「真実」を突き付けられてもなお、特定の個体に関してはゲームを決して手放してなるものかと、むしろ意固地になって倒すべき敵を探し始め、誰かの戦略シミュレーションゲームの駒となっていくのです。
「大切に抱きしめてた宝物がある日急に偽物と明かされても、体中に染みついている嘘を信じていく」、ということです。
人々はそれぞれにそれぞれのゲームを行っているとして、
「言葉は嘘をつく」のだとして、
そうであるならニンゲンは存在そのものが嘘つきかもしれない、とも思えてきます。
しかし、それぞれがそれぞれに、別々にやっているゲームで、
考えてみればそれでも、
人と人が繋がって「社会」が形成されているのは非常に不思議なことだとは思いませんか?
人と人は言葉を交わす、
言葉は嘘をつく、
つまり、人と人は嘘で繋がっているのだと言えるかもしれません。
私は日本語を高く買っています。つまり、そこには、その話(デイスクール)において非常に洗練された社会的きずなを支える完璧さがそなわっているのが認められるからです。
(中略)
誤解を恐れないで言えば、日本語を話す人にとっては、嘘を媒介として、ということは、噓つきであるということなしに、真実を語るということは日常茶飯事の行いなのです。
さぁ、今回も心を揺らしてください
嘘は「善」?
それとも「悪」?
擬態について
グノーシス主義についてこれまでなんども触れてきました。
・グノーシス主義の基礎理解〜光は貴方の中に、けれども…
・「くるみ割り人形」不自由であることを誇れるだろうか「ねずみの王様」
・「多数派と少数派」呪縛解放⑥ 宗教という鎖 🈭「ヤコブのユメ」
グノーシス主義は残された文献の少なさから正統派キリスト教からの批判を通した実態把握しかできず、簡単にいえば追いやられたり、征服されたりと、正統側になれない故のペシミズム(悲観主義)が現世、物質世界からの解脱願望へ繋がったとされましたが、ナグ・ハマディ写本の発見により、このグループが実際は、~主義と簡単に一括りにできないほどに多様な価値観をもっており、ある一派に関しては正統派に対して一定の理解と、一定の協調が必要というような趣旨の内容まで写本の中にはあったのです。
追いやられる、という経験は時に選民思想を生み出します。
この痛みを経験した私たちこそが選ばれた者である、と。
グノーシス派の者たちは必ずしもそれだけではなかったということです。
その上で非常に興味深いのですが、
正統派のゲームと、グノーシス派のゲームの違いについてです。
正統派が行っているゲームは「統治」と「拡大」でした。
その時々で役を決めていたら司祭(使徒の後継者を自認)の権威を保てない。 自分達都合のようにも見えますが実際は当時のキリスト教徒はローマから迫害されていて、基盤を造る必要があり、権威は実際問題必要であったと思います。 そういう意味でグノーシス的な各々が各々の内面に目を向けて、各々が各々の真理を言っていたら、基盤を造ることはできなかったとも本では述べています。 また、グノーシスの修行的信仰スタイルは大衆を取り込むのには向かないこともカトリック側が勢力を大きくした要因であるとも。
一方グノーシスの一派の行っているのは「本来の自己への回帰」、つまり、現世は本来の自己が物質の肉体に閉じ込められ、それを忘却させられる世界であるとし、忘却した記憶を取り戻すために分裂した「二つのものを一つにし」、本来自己との一体であることを「思い出す」、ということです。
その上で現在正典とされる共観福音書の一つマタイによる福音書の一文と、グノーシス派のトマスによる福音書の芥子種についての記述を比較してご覧ください。
天国は、一粒の芥子種のようなものである。ある人がそれを取って畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると野菜の中で一番大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる。
弟子たちが言った、「天国は何に似ているか、私たちに言って下さい」。彼が彼らに言った、「それは一粒の芥子種のようなものである。(それは)どんな種よりも小さい。しかし、それが耕されている地に落ちると、地は大きな枝をつくり、空の鳥の際れ場となる」
どちらも文面としてはほぼ同じことを述べていますが、両者のゲームによる意味の違いがわかるでしょうか?
マタイ福音書を正典とする正統派はほとんど言葉どおりに天国とは何かを説明しています。これは天国が本当にあるかないか、ということではなく、人々に共通の天国感を醸成し、「社会」を形成するためのものと解釈できます。
一方でグノーシス派は「天国」というものを本来的自己との繋がりを取り戻した「状態」ととります。どこかに「天国」があるのではなく、すでに自分自身が「天国」になる、ということです。ですから、ここでいうところの芥子種が大きく枝をつける耕された地は、本来的自己を知覚せんとする信者達自身を指しているのです。
文面としては同じことを書いているがゲームが異なるゆえに違うことを述べている。そうすると非常に興味深い事ですが、たとえば特定のグノーシス派と正統派はいくつかの聖書の内容においては、同じ場に集い、同じ内容を唱えることができるのです。それでいて全く違うものを見据えながら。
あなたにお伝えしたことの一つが、こういった擬態をする者たちが案外この世界にはたくさんいるのだ、ということです。
その上であなたはこの擬態をどのように捉えますか?
この記事の文脈を飛び越えて、あなたのすぐ隣で笑い合っているその人がもし、擬態ニンゲンだったら、あなたはそれをどう捉え、何を感じ、その者との関係をどうしますか?、ということを問うています。
擬態して、信じていた私たちを内心馬鹿にしながら、嘲笑しながら、何食わぬ顔で一緒に笑っていたと、気味の悪さや怒りの感情を持つでしょうか。
あるいは違うことに苦しみながらも、その場を壊さないように、どうにか共にあろうと思いやってくれていたのだと、そのように愛おしい気持ちを抱いて受け止めるでしょうか?
あるいは「潜伏者」と捉え「私たち」を守るためにタタカイますか?
そして嘲笑と、思いやりと、潜伏の違いをあなたはどのように判別しますか?
善意と悪意の判別があなたにできますか?
そもそも「善」と「悪」は明確に区分けすることができるのだろうか?
私が最も恐れているのは、人のホントウの気持ちはわからないのだから、
「善」も「悪」も分けることはできないのだから、
疑わしいものは全員ギロチンにかければいいと、
というより、現状そうしなければ「私たち」の生存を守れないと、
そうやってあのときのような惨劇が繰り返されることなのです。
ところでフランス革命が混沌とした要因の一つに国中枢がスパイに牛耳られているという「妄想」があったのです。
あれれ??
たしかに私だって潜伏者は怖いです。
そういった者達がいると思うと不安になります。
しかしそれと同様に恐ろしいのは、つい最近こういった内容を知り、不安によって自身による判別の意思を失ってしまう人々なのです。
そういった都合上、基本的に「統治」というゲームや「世界のなかでのシーソーゲーム」といったものは、目に見えて共通の大きな盤面が混沌化してからはじめて、多数の人々に問題意識として昇ってくる、反対にいえば、盤面が揺らがなければ、人々は「政治」や「世界情勢」を自らのゲームを置いてまで知ろうとはしない、ということです。
それどころか盤面が揺らぎ、ゲームの外の広大な「現実」や、深淵な「真実」を突き付けられてなお、特定の個体はゲームを決して手放してなるものかと、むしろ意固地になって倒すべき敵を探し始め、誰かの戦略シミュレーションゲームの駒となっていくのです。
これを読んでいるあなたに知っていただきたいのは、盤面が混沌と化して初めて物事を知っているのでは感情が追い付かず、現に危機が目の前に迫っているのにも関わらず、例えば「不安を煽るな」などと、変わらず目を逸らし続けたり、意固地になってゲームをむしろ固く握りしめることしかできなくなってしまう、ということです。
いざという時に穏やかにいられるための訓練が「心を揺らす」ということなのです。
どうか今のうちに、「どうせ」だとか、「やっぱり」だとか、「所詮」だとかいう言葉を捨てて、未規定の「世界」と、その「世界」に触れて生じる期待と、不安でさえも味わうようにしてください。
そうやって心を揺らすことがあなたのブレーキになるのですから。
話があちらこちらに行っていますが、ここまで嘘について語ったので、ホントウについても少しだけ触れたいと思います。
制限された「自我」の機能上、「こちら側」の世界ではいつも言葉はすべてを説明し得ない、言葉は言葉である時点で嘘をついているのだといえます。ならホントウのことなどこの世界にはどこにもないのではないかとも思えてきます。
きっとそうなのでしょう。
ですから私たちはあくまで制限された意識どうしで嘘を媒介にして「社会」を形成し、仮像からホントウ(「実態」)があることを知覚するしかない。
もっといえば、ホントウのことがあるのだと信じ込むしかない。
ここに至りあなたはあなたのゲームに戻ってくることができるのです。
そしてそのゲーム上においてあなたは、ホントウ(実態、事物、元型、イデア、あの頃、あちら側、先祖、精霊)のカタチとして「世界」を生き抜いていくのです。
ホントウのゴールを目指して祈りを捧げ続ける日本人の元型が
「元型」、即ちその文化が最終的に辿り着こうとするホントウのゴール、「文化の型」
ニンゲンがニンゲンである限りそれが在るべきカタチであり、
あなたがあなたのままでいる、ということなのだと思います。
文章も長くなっていますがもう少しだけ。
「いつも言葉は嘘を孕んでいる」
これは椎名林檎さんの「ありあまる富」という曲の歌詞です。
「言葉は嘘をつく」
というのも、かなりマイナーではありますが、私が今でも好きなイツエというバンドの曲名です。
「大切に抱きしめてた宝物がある日急に偽物と明かされても、体中に染みついている嘘を信じていく」
これはMr.Childrenさんの 「フェイク」という曲の歌詞です。
一旦ゲームを脇においてみると案外みんな普通に「世界」について語っていたりするのです。
あなたの日々の生活の中で(この人が言いたいことは何なのだろう)と考えることができる余白の時間を持てると良いと思います。
ゲームを脇に置く時間のことです。
音楽には様々な楽しみ方があります。
上記ように歌詞から作詞者の想いを感じ取ったり、
みんなで歌って踊って楽しんだり、
楽器に挑戦して聴いているだけではわからなかったイントロや間奏、ギターソロやベース音、そういった伴奏に美しさを感じたり、
音楽と溶け合ってディオニソスと一つになったり、
歪んだ周波数と正しい周波数の違いを知ったり、
そもそも振動が音楽であるのだと気がついて、
雨音、川のせせらぎ、鳥や虫の鳴き声、木々が風に揺れる音、子どもたちの笑い声、光と、「世界」に音楽があふれていることに胸が熱くなることも、
それらの「実態」に想いを馳せることも。
宇宙からみれば、私たちはまだ、瞬きすら未熟な赤子も同然なのだから、
今はただ、「世界」を全身で味わうのがいいでしょう。
その先であなたがホントウのカタチで在れるように
穏やかに
・タイトル画像
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