雑記12 先日見た夢②「ままとおかあさん、河童と警察、主観と客観」
夢というものはその個人を「存在」レベルで深く表しうるものであること。
そのことについて私は多くの文量をさき、沢山の記事でお伝えしてきたわけで、ですから、そのような説明をしてきた私自身の見た夢と、その解釈を人前に公開するということは少し恥ずかしくもあるわけです。
それでも先日見た夢は、やはりなんとも私らしい夢で、これまでの記事の内容と上手くリンクしていると感じたため、ここに残しておきたいと思います。
まず前提のお話で、現実(「こちら側」)にて関係性の深い知人が子猫を飼い始めました。子猫は非常にわんぱくでかわいらしく、私が指を近づけると両手でそれをつかんで小さいお口と歯でカミカミしてきます。
ただ私は猫アレルギーで、あまりじゃれ合っていると、咳や痒みが止まらなくなるので、子猫のことを非常に愛おしく思いながらも、あまり深くは関わらないようにしていました。
さて、その上で夢の内容に移っていきます。
私は廃墟となった工場を歩いていました。廃墟とはいっても使われなくなったのは比較的最近のようで、一般に我々が想像するような廃墟廃墟してない。時間帯は昼。陽射しが差し込み墟内は非常に明るい。
ふと私の足元に黒い靄が生じ始めました。

その靄はカタチとなり、件の子猫になったのです。
子猫は立ち上がり、私の足に抱き着いて邪気無い口調で私に言ったのです。
「まま、まま、おかあさんのところに行くー」
私は子猫が私のことをママと思ってくれていることを深く嬉しく思うと同時に、「おかあさん」のところへ行ってしまうことをとても悲しく思い、引き止めたいと思いました。
けれど、それは抗うべきでないもので送り出すべきなのか、もしくはそれでもくい止めんとするべきなのか、
そうやって判断ができぬまま、子猫は私の足から離れて角を曲がってどこかに行ってしまいました。
私はなんともいえぬ気持になりながら廃墟を後にします。
その間子猫の言葉の意味を考えていましたが、すこし歩いた先で私は非常に興味深い光景を目にします。廃墟裏の空き地にて再びさっきよりも大きな黒い靄が生じ、そこをゲートのようにして、というべきか、もしくはそれから粘土のようにカタチが捏ね上げられていく、というべきか、なんにしても、その靄から河童が生じてくる。それも一体ではなく何体も、何体も。

その河童たちはゾロゾロと公道を目指す。私はこれは不味いと感じる。
すると、公道に河童たちが差し掛かる寸前に、気がつけば「警察」が行く手を封鎖している。
河童たちと警察たちはなにやら話し合っているが、やがて河童たちは諦めたかのように道を引き返していき、さらには黒い靄の中に還っていく。その姿はどことなく寂しさを感じた。
すると何者か、一人の男が私の前まで近づいてきた。これは警察の一人であったかもしれないし、唐突に現れた人物だったかもしれない。記憶が曖昧だ。
彼が言うには、「このことはくれぐれも内密に頼みます」、ということだった。
さて夢の解釈に進みます。
上記の夢は私のこれまでの記事の内容の多くを含んでいます。
まず子猫が私のことを「まま」と呼んでくれていました。
私は生物学的にも、社会的性別としても男なので、一般的にはおかしな点だと思われるのでしょうが、その辺りはユングやグノーシスの考えを通っていることもあり、特に違和感を覚えず、即ち、私のことをママと思ってくれる生き物がこの世界にいることはありえないことではない、と思えているが故に夢のなかでもそれがあらわれたのでしょう。
アニマとはユング心理学における非常に重要な概念であり、一言で表現するなら「内なる異性」です。
「人間の心には「内なる異性」が存在しており、男性の内側にいる女性を「アニマ」、女性の内側にいる男性を「アニムス」、と呼びます。」
「新しい」ってどんな色?
「内なる異性」は多くの場合自我(表層意識)の補償的性質として夢の中に顕れ、また神話や伝説、童話や御伽噺などにもその顕れをみることができます。
「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人(単独者)にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがたは、「御国」に入るであろう」
荒井献
購談社学術文庫
p158
そのうえで、私(まま)と「おかあさん」は区別されている。
「おかあさん」とは「あちら側」から「こちら側」にやってきた、
「こちら側」の最深部にいる存在で、ある時は「死」に、ある時は「恐怖」に、ある時は「愛」に、ある時は「救済」に、ある時は「許し」に繋がっている。
死とはなんでしょうか?
様々な捉え方があり、その多くが美しいと感じますが、その上で以下の考え方をお伝えします。
「死とはおかあさんを迎えにいくことである」
「?」の種が生成されたでしょうか。
その種を大切にして水を与え続けてください。
いつか素敵な花が咲くことでしょう。
子猫は私の元を離れて、「おかあさん」の方(「あちら側」)に行くということです。それをどう捉えるかの問題があるとして。
その上で全体像をみると、これは以前の記事で紹介した「まんが日本昔話」の「きつね女房」と大枠では同じ構図であることがわかる。
簡単な要約としては、人生の節目で自我の安定化機能が揺らぎ、「裏」に堕ちそうになった主人公の成信が、女房(実はきつねが化けていた)が代わりに「あちら側」に行くことによって、「表」に繋ぎとめられる、というものです。
黒い靄は「欲動」で奈落から湧き上がる寸断されしディオニソスの残滓。
それらに直接的にニンゲンが触れることで自我の安定化機能は崩壊し「裏」に堕ちる。それを防ぐためにニンゲンはアポロンを作動させて「欲動」に「こちら側」で経験情報として保持したカタチを当てはめる。ニンゲンはカタチに落とし込むことで初めて「事物」、即ち「存在」に対処できるのであります。
それは以下の記事たちでお伝えしてきました。
私の中で「欲動」が強く影響をもたらし、「裏」へと引っ張られそうな状態であったのを、「欲動」の一部に子猫のカタチを映し(「きつね女房」でいうところの成信の妻)、子猫が代わりに「あちら側(おかあさん)」へといくことで、そして私は「表」に繋ぎとめられる。という構造。
このとき子猫はアニマ(内なる異性)、その中でも「私を「こちら側」に連れ戻してくれる異性」の役割を持っている。
内なる異性は「自我」と「無意識」の橋渡しをする存在として「境界」に顕れる。
内なる異性の顕れは大きく分けて「私」を「こちら側」から連れ去ってくれる異性と、「私」を「こちら側」へ連れ戻してくれる異性の顕れをもつ。
(SIRIとIRIS)
その後の展開の「河童」と「警察」もこの地続きである、とまずは考える。
つまり、本筋の安定化機能を壊そうとしていた「欲動」の本隊は「河童」たちである。もし子猫よりも先に河童に遭遇していたら私の安定化機能は壊されていたと考えて良いかと思う。「きつね女房」では安定化機能が壊れかけている様子を「苗が反対に植わっていた」と表現されていた。それがきつねの女房が「あちら側」へと還ることで元に戻した。
私の夢の「河童」=「苗が反対に植わっていた」、である。そして、
「きつね女房によってそれが元に戻る」=「警察」であると考える。
子猫が私を守ってくれた、と考える。
その上で私が腑に落ちないのは、私はそんなに警察を信じてない、ということで、単純に警察=秩序、という関係性でそのカタチを用いたのだと考える。
もっというなれば、フロイトのいう「超自我」をカタチとして用いるために警察が使用された、と考える。
そうすると、河童は「欲動」つまりラカンの「対象a」で考えた通り、フロイトのいうところの「イド(欲動)」で超自我と欲動のバランスをとることで自我が安定化する、というフロイトの精神力動論を河童と警察でやっていることがわかる。
ところで今回の夢の河童、これは以前の夢の記事でいうなれば「クマ」である。
この「異形のものたち」つまり「欲動(対象a)」に対して、幼少期の私はカタチに当てはめられず、精神が壊れぬように一目散に逃げましたが、以前の記事においてはそこに熊を当てはめて観察し、それでもあくまで対処はせずにその場を去りました。今回の夢に関しては河童のカタチを当てはめて、その上で警察という超自我をおいて精神を安定化させた、ということになります。それが成長なのか、退化なのかはわかりませんが、少なくともそう変わったという事実が読み取れます。
そして、私がさらにこの夢で問題提起したいのが、「主観と客観の境目の問題」です。
どういうことかと申しますと、
フロイトは自身の精神分析療法において、クライエントの人々と関わる中で精神力動論の考えを編み出していきました。精神分析学の理論はそもそもが再現性や客観性に欠け、その個人の解釈が強くなる傾向はあるとはされますが、それでもフロイトにしてもユングにしても、人々とのカウンセリングの中で作られたある種縦断研究による精神のモデル、構造を世の中に提示しているわけです。
ですから、そういったニンゲンを研究してつくられたモデルに私の夢が合致していても、それはおかしな話ではない、といえるわけです。だとしたらこれはある種客観的なモデルに私の夢が当てはまった、といえます。
ただここで問題は、私はフロイトやユングのモデルを用いて様々な物事の解釈を文面に起こしてきた、ということで、彼らのモデルを経験要素として内側に取り込んでいるわけです。そうなると、私の自我、精神の安定化機能に有用なカタチとアポロンに判断されて彼らのモデルが利用された可能性があるわけです。
つまり、縦断研究によって構築された一定客観的なモデルであるからあてはまったのか、
もしくは、それが安定化機能に有用なカタチだから主観的に利用したのか、
主観と客観がグラデーションに交差しているのです。
しかし、本来は物事とはそういうことであろうと思うわけです。
主観と客観に明確な区別はつけることはできず、客観性を担保しようとする枠組みをつくった時点でそれは自我を安定化させるための非常に主観的に便利な枠組みになる、ということです。
おそらくニンゲンとは「そういうもの」なのだろうと。
果たしてそれはホントウに脱却されるべきものなのだろうか?
それについて私はいまだに答えが出ない。
実のところ私が本当に皆さんと一緒に考えていきたいことがこのことで、
「人間とは本当にそこまでしなければ争いを止めることができないのだろうか?」
ということなのです。
ぜひともあなたと一緒にその答えを模索していきたいのです。
後日談になりますが、件の猫は上記の夢の二日後、保護団体に渡されることになりました。元々知人も病気等厳しい状況の中で近所の方から飼い主になってほしいと頼まれていた中で、その知人自身も猫アレルギーが発症したことがきっかけでした。
ひとまず次の飼い主は見つかったようですが、少なくとも私にはあの子は「あちら側」に行ってしまったことになります。
そうすると、成信の妻は「アニマ」で、その存在は成信の妄想であったのか?
そうではありません。
これも中々伝わりずらいとは思うのですが、「コンステレーション」という内的課題と現実世界がリンクするように事象が顕現することをいいます。
村上春樹氏の「1Q84」に、これに近い事柄が述べられています。
脱線してしまいますが、ここに記しておきます。
主人公の天吾に母はいない。
少年時代は父と二人で暮らしていたが、父は某放送局の集金人であり休日になると天吾をつれて各家に集金に向かうのでした。
天吾にはその時間が心が張り裂けそうになるほど苦痛だったのでした。
天吾には幼少のころから脳裏にくっきりと張り付いた映像があり、それは、母と思われる女が、誰か父とは違う男と「している」、という内容でした。その内容から天吾は集金人の父を、本当の父ではなく、映像の中の男が本当の父であると考えていたのでした。
大人になって、一人で暮らすようになり、セックスフレンドである人妻がある日突然姿を消します。天吾はこれとは別の流れで、とある宗教団体とのいざこざに巻き込まれており、その関連でその人妻がいなくなったのだと考えます。この件に関して結局最後まで真相が語られることはありません。ただ、天吾の脳裏に焼き付く映像が彼自身が未来で行っていたこととリンクする、ということ、そして母と同様突然目の前からいなくなってしまう異性の存在、というように事象が天吾の内的世界の課題にリンクするように起きている、ということです。
よけいにわかりにくくなってしまったかもしれません…
ニュアンスだけでも伝わると幸いです
(中略)
そして妻は消えてしまいます。
これはアニマが再び無意識世界(まっくらもり、)に戻っていった、という意味でもそうですが、現実の妻もいなくなったのでしょう。
つまり、メタ的な視点になりますが、物語の構成上、成信の観測点が「表」に戻ってくるのに必要な「アニマ」を表現するために妻が必要であった。
そして、「表」に戻ってきた時点で成信の人生に、彼女が必要な期間が終わり、いなくなってしまったのです。
そういった「物語の構成上の都合」が現実世界でも当てはめられることが「コンステレーション」といえるかもしれません。
そういったことになるでしょう。
ここで重要になってくるのが以下の観点なのです。
「そこは新しい星たちが生まれるための暗闇」
「星たち」は欲動、すなわち「力(スパーク、精霊etc...)」のことで、「暗闇」は無意識とすることができるでしょう。
チカチカと生成と消滅を繰り返す、蠢く欲動たちは、「言葉にならないもの」として、直接触れたならば発狂に至る。
故にそれらにカタチをつける。
人形、動植物、鉱物、車、山脈、海、森林、宇宙。あらゆる形態。
言葉をつける。誰かと語り合う。
そうやって「安定化」させて自我が形成される。それが「共感」というものの本質といえるでしょうか。
このとき、あらゆる「形態」を、「誰か」を共感や安定の道具に利用することしかできない醜い生き物がニンゲンなのか?
もしくは、本当は「形態」や「誰か」もあなたにいつも語りかけていて、その媒介者に「欲動」つまりは「可能態(デュナミス)」があると捉えるのか(D)?
https://note.com/kinuzuka/n/nb38f94912217?sub_rt=share_b
後者を選択するなら、肉体は動物や植物、あるゆる「形態」、あらゆる「誰か」に触れることで得られる電気信号(要素)の保存媒体となり、「欲動」を通して結びつき、夢の中で語りあうことができるでしょう。
それは抑圧された心が見せる幻想ではなくて、「形態」や「誰か」とたしかにコミュニケーションをとっているのです。
そうやって沢山の旅をして「黄金のハート」を持ってこちら側に帰ってくる、ということ。
そうして得られた鍵で、また「現実」の扉を開くこと。
https://note.com/kinuzuka/n/na7fe2f43a523?sub_rt=share_b
まさに「ユメがホントウになる」といえるでしょう。
https://note.com/kinuzuka/n/n17ad5db1d839?sub_rt=share_b
今回の夢において、あの子猫を私は安定化機能のために用いた、という観点と並立して、あの子猫と夢を通してコミュニケーションをとった、と考えるのです。
さらにいえば、河童や警察ともコミュニケーションをとったといえるでしょう。
より正確にいうなれば、子猫、河童、警察として私が理解した「事物(存在)」ということになりますが、では、現実のあの子猫はまったく関係のない存在なのか、というとそうでもない、と考えるわけです。
ニンゲンは「存在」を通して現実のカタチとコミュニケーションをとる。
ニンゲンは現実のカタチを通して「存在」とコミュニケーションをとる。
現実のカタチと、「存在」もニンゲンを通してコミュニケーションをとる。
ニンゲンの安定化機能は元々そのための機能であったのです。
故に「万物の霊長」であったのです。
辿り着いた場所の先にも、
隣にも後ろにも上にも、下にも、
まだ世界があることに。
「私(吾)」はその何処へでも行けることに。
「私(我)」も何処へでも行ける個体であったことに。
それが万物の霊長たる「ニンゲン」、であったことに。
「あった」のです。
ここからはおまけになりますが、あなたはキューブリック氏の作品を見たことがありますか?
彼の作品は人によっては意味が分からず、退屈で、まったく面白くないと、そう感じられるかもしれません。
ただ、基本的に「わからない」、というのは鍵を持っていないからなのです。鍵とは、わかるための鍵です。
今回の記事を鍵として是非、彼の遺作、「アイズ ワイド シャット」をご覧ください。
彼が何を表現しているか理解できるようになるでしょう。
また、実はこの世界には鍵を持っている者が理解できる前提の物事が沢山溢れていることも見えてきて、ホントウの世界の一端がみえてくることでしょう。
「わかることを言ってくれる人が良い人」
「わかる説明をしてくれる人が賢い人」
「わかりやすさこそ追求すべきもの」
「わかってくれる人とだけ関わりたい、わかる人とだけ関わりたい」
まずはそれらに閉じ込められていることに気がついていただきたいのです。
ホントウの正しさとは?
「そういうもの」?
「あった」もの?
少なくとも、この質問を理解できるような、文脈を理解できる個体であってください。
これから先、ホントウにそういった個体は絶滅していきますから。
・タイトル画像 絵|大花 町(たいか まち)
