夏目漱石の『こころ』をどう読むか476 Kの昼飯
Kは昼飯をどうしていたのか?
Kの下宿代は先生が払っていた。しかしKと先生が待ち合わせをして昼飯を食べる場面はない。下宿に戻れば飯を出してくれるとしても、Kはその他の生活費全体をどうしていたのだろうか。
鉛筆はどうしていたのか?
専門書はみんな立ち読みで済ますのか?
話を壊すことを前提にして敢えて考えてみれば、まず最初に言えることは
・先生の遺書に書かれている内容が全て正しいとは限らない。
……ということだ。やや唐突ながら、実はそういう可能性もないではないという傍証もある。
その前に先生と静の可笑しな関係性を確認しておこう。
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外に仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」
作中597回出現する「先生」の文字の278回目は静の口から発せられたものである。自分の夫、しかも無職の夫を「先生」と呼ぶ妻はめったにいまい。これは「私」の「先生」が感染したものだろう。
静は件の「どこへ行ったか中ててみろ」や「殉死でもしたらよかろう」発言に見られるようにどこか妙な言語感覚の持ち主だ。その前提を踏まえて、次の会話はどうだろう。
「みんなはいえないのよ。みんないうと叱られるから。叱られないところだけよ」
私は緊張して唾液を呑み込んだ。
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好いお友達が一人あったのよ。その方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
奥さんは私の耳に私語くような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後なんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、雑司ヶ谷にあるのは」
「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪らないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」
私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。
この会話に見られるKらしき人物「その方」と語り手である静との距離感は、先生の遺書にあるKとお嬢さんとの距離感とは明らかに異なる。Kを飽くまでも先生のお友達として、自分との関係性は無い者の如くに語っている。先生の遺書の中では、「お嬢さんは泣いていました。奥さんも眼を赤くしていました。」とあり、下宿人に対する情で眼を赤くした奥さん以上に、静はKの死に感情を揺すぶられていたことが分かる。
なのになぜ「その方」なのか?
ここは静の純白な無邪気さと読んできたが、かりに純白であり無邪気であったとして、自分とKの距離をここまで空けなくてはならないものだろうか。
そしてまた静はここで先生の性質が前のように戻ることを望むのではなく、まるで先生の過去を暴きたがっているように思える。
さらに言えば先生は遺書を静だけには見られたくはないとして、静の反論を防ごうとしてはいまいか。
いやいや。さすがに先生の遺書に書かれている内容が全て正しいとは限らないとしてしまうといくらでも別の話が出来上がってしまう。
静のものの云い「その方」と語り手である静との距離感は、よくある時間の経過に伴う存在感の消失であろう。仮に昔親しかったとして今はもうフルネームさえ出て来なくなっていたのかもしれない。時間の経過とは事程左様に残酷なものだ。
さて、結論。
Kは昼飯を食わなかった、というのがこの疑問の答えである可能性が高い。
しかし『三四郎』の名古屋の夜と同じように、人が飯を食う生き物だということを忘れていて、夏目漱石がうっかりKの昼飯のことを忘れていたという可能性もないではない。和歌山の女も晩飯を食べていない。
なんせ近代文学はグルメガイドではないのだから。
