八角墳=敗戦処理説
古墳を歩けば、古代史がわかる!7世紀中頃~8世紀初頭の八角墳(サライ.jp)
>「蘇我氏が大きな方墳を採用する一方、天皇は自らの権威の強化を求めて新たな形の古墳を模索するようになります。そこで創り出されたのが八角墳(はっかくふん)です。道教などの中国の思想で、八方とは国土全域を示します。国土全域を治める象徴として、八角形が天皇陵に取り入れられたのでしょう」
>相原嘉之さん(奈良大学教授・58歳) 昭和42年、大阪府生まれ。奈良大学文学部文化財学科卒業。奈良国立文化財研究所、滋賀県文化財保護協会、明日香村教育委員会文化財課課長などを経て現職。近著に『飛鳥・藤原京と古代国家形成』。
牽牛子塚古墳は八角墳の墳形からも(大田皇女の墓と見られる)越御門塚古墳の存在からも斉明天皇陵説(乙巳の変を契機に一度退位した皇極天皇が重祚(復位)して斉明天皇)が妥当だと思うのですが(そうであるなら、間人皇女や大田皇女の没年から中大兄皇子の築造になりますが)(UFOめいた皇極天皇陵(斉明天皇陵/牽牛子塚古墳/越智崗上陵)と蘇我氏と物部氏の遺恨|古墳時代史解題)、日本書紀の「皇太子謂群臣曰、我奉皇太后天皇之所勅、憂恤萬民之故、不起石槨之役」という記述とは矛盾します。これをどう考えるかですが、多分、斉明天皇が崩御した時には、詔にあるように(斉明天皇紀に「詔群臣曰、萬歲千秋之後、要合葬於朕陵。」)建王と合葬すると共に(恐らく菖蒲池古墳に)(橿原市の世界遺産構成資産候補の菖蒲池古墳は蘇我入鹿の今来の小陵(双墓の片割れ)か|古墳時代史解題)、不起石槨之役だ(私の陵を造るな)と言ったのでしょう。この皇太子の言葉は天智天皇6年の時の言葉として日本書紀に乗ることになると思いますが、実際は天智天皇6年の「合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女於小市岡上陵」で石槨之役を起こしたのだと思います。
これに関連して、(乙巳の変以前で蘇我氏の権勢が絶大だった)皇極天皇2年の築造とされる忍坂の舒明天皇陵(八角墳)も本当はこの時(天智天皇6年)に八角墳として築いたのではないかと考えます。天智天皇6年には遣唐使が帰ってきており、ウィキペディア参照ですが、この遣唐使は「旧唐書本紀などに拠れば高宗の封禅の儀(即位式)への参列を求めた使節であるとされる。翌666年1月に封禅の議は既に行われており、道中日程を考えれば時機を逸しているが、劉徳高に比べ守大石の官位がかなり高いこと、劉徳高が封禅の儀の会場である泰山に近い地域の役人であったことなどから、送使とは言いつつ、式典参列を意図した使節である可能性が高い。」なので、(泰山は道教の聖地であり)道教の知識を得て、唐との融和の意図をもって、八角墳を築造した可能性が高いからです。
これが日本で不人気な政策だったので(要は八角墳は白村江の戦いの敗戦処理だったので)、史料上の改竄や説明の欠落があったのではないでしょうか?日本書紀は飛鳥時代を知る為の根本史料であって無暗に疑うべきではないと思いますが(戦後から今に至るまで無暗に疑う人が少なくないのですが)、歴史学では二次史料(一次史料を基に後から編纂・編集・叙述されたもの(正史・実録・軍記物・系図など))にあたり、権力に都合の良い改竄や誤謬が含まれている可能性もまたある訳です。
なお、この記事で今(情勢が全く異なる)現状の日本政治で中国に融和姿勢を見せるべきと主張する意図は全くないです(寧ろ逆です。日米基軸で侵略を跳ね返すのはこれからです)。念の為。
2026年1月16日追記)八角墳が道教の影響ということを前提とすると(法隆寺の八角堂は奈良時代の国宝建築です。聖徳太子の佩刀であったと伝えられる(事実かどうか分かりませんが)七星剣も道教の影響と言われますね)、蘇我氏が活躍していた皇極天皇2年に八角墳を築いたというのは、信じ難いということになります。乙巳の変が宗教戦争ということに近年は学界で異論があるようですが、蘇我氏(馬子(嶋大臣)・蝦夷(豊浦大臣)・入鹿(鞍作))の異名は仏教に関わりのあるもので(稲目も仏教の導入で尊敬されていたと思われ:都塚古墳は「和製階段ピラミッド(頭塔・土塔・熊山遺跡)」の起源か?|古墳時代史解題)、蘇我氏=仏教の図式は間違いないと思われ、乙巳の変も孝徳天皇が仏教よりだったこともあり(孝徳天皇紀に「尊佛法、輕神道」)、近江に寺院が多く建てられていたことからも、識字層を担った仏教は乙巳の変に関わらず、引き続き重視されていましたが、道教の影響があるとすれば、何処でどのように?となります。
天武天皇が道教を重視していたフシはありますが(天武天皇の五行認識|古墳時代史解題)、問題は中大兄皇子(天智天皇)はどうだったかですが、どうも白村江の敗戦処理で道教を導入したのではないかと考えた次第です(日本の方でその事実を隠したとしても、唐の記録にそれっぽい事実が残っています)。基本的には隋=仏教、唐=道教です。
AIの意見)この仮説は興味深いですが、学界では道教の日本伝播は唐経由の仏教融合が主流です。さらなる議論として、天武の五行認識や唐の高宗の影響を深掘りすると良いでしょう。
>唐は李氏が老子を祖先とし、道教を国教に(高宗・玄宗期に特に顕著)(AI調べ)
古墳時代史解題注:天智天皇6年の遣唐使は、旧唐書本紀等によれば、高宗の封禅の儀(即位式)への参列を求めた使節
参考①:唐の道教をめぐる高句麗・新羅と入唐留学生の諸問題(土屋昌明)
>日本には道教の文化要素は入っているが、従来の研究によれば、中国の道士は入っていないし、 日本人で道士になった者もいない。日本が唐から道士をもちこむ契機が、記録によれば2度あったが、周知のように、1度目の開元23年(735)閏11月の中臣名代の申請では「老子経」と「天尊像」だけを懇願して道士の来日は要請しておらず、2度目の天平勝宝5年(753)の鑑真招請の際には玄宗から道士の同行を求められたのに対して、春桃原らを長安に残して道教の学習をさ せるという口実によって拒んでいる。これに対して朝鮮半島の国では、後述するように、この2度の契機より百年以上も前に唐から道士が入ったことを示す史料がある。
参考②:日本に道教は組織として定着せず(道士拒否の記録あり)、仏教経由の呪術・陰陽道として入りました。白村江後、唐との外交(664年の郭務悰使節など)で文化交流が進み、道教要素(八卦など)が流入した可能性は高いです。あなたの仮説通り、天智天皇が敗戦処理で唐の影響を受け、道教を導入したフシはありますが、日本側が唐皇帝の祖先崇拝(老子)を避けたため、限定的でした(AI調べ)。
2026年1月16日追記①)天武天皇の五行認識に関して言えば、とりあえずは、中大兄皇子の限定的な道教導入を見ていた天武天皇が、政権を取って、自分なりに解釈して政策を推し進めた感じなのかなと思います。
2026年1月16日追記②)談山神社(妙楽寺)と修験道は関係が深く、聖林寺と談山神社(妙楽寺)は関係が非常に深い。興福寺と談山神社の抗争が知られますが、談山神社(妙楽寺)は鎌足の兄=定慧絡みで、道教を限定的に導入する窓口として機能したのでは?
>「定慧絡みで道教を限定的に導入する窓口」という見方は、直接証拠はないものの、多武峰の「観」の記述、定慧の唐留学、修験道との親和性、興福寺抗争の文脈を総合すると、かなり説得力のある仮説です。妙楽寺は純粋仏教寺院ではなく、道教的要素を「限定的に」取り込みやすい窓口として機能した可能性が高いと言えます(AIの意見)。
2026年1月16日追記③)白村江の敗戦が天智天皇2年(663年)、唐の封禅の儀が行われる泰山に近い沂州の劉徳高の来日に伴い(白雉4年(653年)の遣唐使で唐に渡り法相宗を学んだ)定恵が帰国したのが天智天皇4年(665年)、同年に(大海人皇子と同郷とも言える)守大石を筆頭に道教を国教とした高宗の封禅の儀に出席すると称して(間に合わず)、遣唐使を派遣(同じ頃に定恵は死去。高句麗僧が誄をつくっている)。その遣唐使が帰って来たのが(守大石の名は見えず)、天智天皇6年(667年)。日本書紀の記述では遣唐使の帰国に先立つ天智天皇6年(667年)に斉明天皇陵の築造開始。
基本的には神道を守る為に道士の派遣は断ったのだと思いますが、また別の陰陽道として道教を導入したのでしょう。
道教の影響は仏教にもありました。特に天台宗だと思います。天台宗は隋と関係の深い宗派で、唐との関係を考えて、道教の要素を取り入れたのではないかと思います。妙楽寺(談山神社)も当初は法相宗だったようですが、平安時代には天台宗になっています。これに対して興福寺は法相宗で、開祖の玄奘は唐の高宗の信頼を得たと言い流行ったようです。
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