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告知における医者の義務を考えてみた

昨年、今年と2年続けて、私は同じ病院で、両親ががんの告知を受けるというつらい経験をしました。

昨年の4月に、母がすい臓がんにかかっていると告知され、余命1カ月~3カ月という宣告を受けました。そして今年の4月には、父が前立腺がんの告知を受けました。
1年という短い期間に告知を2度も経験して、私はそのあり方に強い疑問をもちました。
今の告知スタイルは、患者の寿命に悪影響を与えるリスクがあるのではないか、という疑念を抱いたのです。

「病は気から」という言葉があります。これは患者の精神状態が病状を大きく左右するので、悲観的に考えてはいけないということです。
「病気」という字を見ても、逆から読めば「気の病」になります。気持ちのありようが、病に大きく影響することは昔の人も見抜いていたのです。

言葉が人に与える影響が驚くほど大きい例を紹介します。
良い例としては、蔵相として昭和恐慌を克服し「日本ケインズ」とも称された高橋是清の話があります。
彼は、アメリカ留学中に騙されて奴隷のような生活を送ったり、ペルー銀山開発では無一文になったりするなどの絶望的なピンチを何度も経験しました。
それでもその度に立ち上がり、内閣総理大臣にまで上り詰めたのです。
だるまのように転んでも起き上がり続けたので、「だるま宰相」とも呼ばれました。
彼がそのような奇跡的ともいえる大出世を遂げられたのは、幼少期に周囲から「お前は幸福者だ(運がいい)」と言われ続けて育ったことにより、「自分は運がいい」と思い込むことができたからだと言います。

逆もあるはずです。
子供時代から否定され続けると、強いコンプレックスを抱くようになり、少しの挫折に負けて「やっぱり自分はダメなんだ」と、引きこもってしまう人も多くいます。

告知の恐ろしさもそこにあります。
医師は、社会で最も信頼されている職業のトップレベルに位置しています。信頼度が高いということは、患者が医師の言う言葉を信じ込んでしまうことになります。だから、医師は言葉の使い方には責任を持つ必要があるのです。
告知の仕方を間違えてしまうと、病気を治す職業であるはずの医師が、むしろ「毒」を投与するのと同じ結果を招いてしまう危険性があるのです。

認知神経科学者のターリ・シャーロット氏の著書『脳は楽観的に考える』(柏書房)では、悲観的ながん患者は楽観的な患者に比べ、死亡率が激増することが語られています。
悲観的な患者やうつ病患者ががんを告知されると、大きなストレスを抱え、食欲不振や不眠を招くことで体力が低下し、がん細胞に対する抵抗力を弱めてしまうリスクがあります。
体力のない高齢者ほど、その傾向は強くなるでしょう。

体力や気力が落ちれば、つらいがん治療を乗り越える力も失ってしまいます。その苦痛に耐えられず、自ら命を絶ってしまう患者も出てしまうのではないでしょうか。
事実、がん患者は、病気でない人と比較して自殺率が約85%も高いという報告があります。告知がいかに「生きる気力」そのものを折ってしまうかを物語っています。

日本でがんの告知が「隠すもの」から「伝えるもの」へと大きく転換したのは1990年代後半からといわれます。
しかし、告知が当たり前の時代だし、病院の方針だから従わないわけにはいかないと機械的に考えてしまうのは、告知のあり方の進歩を妨げる「思考停止」にならないでしょうか。

今年4月から「自転車の交通ルール厳格化」が施行されていますが、それと同じ違和感を抱いてしまうのです。
自転車が車道を安全に走れる環境が整っていないのに、法律だけが決まってしまうことに疑問を感じる声を多く聞きます。
なるほど、人を守るための法律なのに、危険な車道のほうが多い環境下では、むしろ命に関わる事故を増やしてしまうリスクがある。これでは本末転倒です。
それと似た矛盾が、現在の告知スタイルにある気がするのです。

もちろん、告知しないままではいられないという現実や、がんを隠すのは難しいという現実があるのはわかります。

まず、がんであることを知ってもらわないと、その治療を進めることはできません。

また、がん治療の進歩で様々な治療を選べるようになりました。
それなのに、がんを隠したままでは、どの治療法を選ぶかを患者に決めてもらうことができなくなってしまいます。

告知を避けても、インターネットでがんに関する情報が簡単に手に入る時代です。
症状や薬、治療から、自分がどんな病気にかかっているか、調べればわかってしまいます。

それに、ホスピスに転院すれば、自分の余命が短いことも悟ってしまいます。
終活や残された人生をどう生きるかを決めるために、告知が必要だという面も確かにあります。

隠したために、医師や家族が恨みを買うことになれば、双方が嫌な思いをしてしまうでしょう。

だから、告知が不要だとは言いません。 告知の「仕方」を考えてほしいというのです。

私の母が救急車で救命室に運ばれた時、その場で医師は今後どのような告知を受けるか予想を述べました。
患者や家族のショックを和らげる配慮は一切なく、事務的に、考えられる最悪の事態を洗いざらい伝えるというものでした。
その後に現れた看護師も、入院の手続きを説明するだけで、心のケアはありませんでした。
私はあまりのショックの大きさに重度のうつ状態になってしまいました。

幸い、母は認知症が進んでいましたので、告知を受けても自分の病気を忘れることができました。
でも母の頭がしっかりしていたら、気の小さい母はくよくよ悩み、さらに余命を短くしてしまったかもしれません。
健康な私ですら病人のようになってしまうのですから、重病を抱えた母には耐えられるものではなかったでしょう。

余命宣告は、患者にとっても家族にとっても「死刑宣告」に等しいものです。
それを何の気遣いもなく、天気予報を語るように淡々と、最悪の事態まで告げてしまう。それでは、患者や家族は強い鞭で心を叩かれ続けるようなダメージを受けてしまいます。

武田鉄矢さんはラジオ番組『今朝の三枚おろし』で、ターリ・シャーロット氏の『脳は楽観的に考える』を読んだ感想を語るなかで、「余命は聞かないほうがいい」と発言しています。
私はそれを聞き、思わずうなずいてしまいました。

余命宣告を聞くことは、寿命をさらに縮めるだけでなく、残された貴重な時間をどん底の気分で過ごすことになってしまいます。
「残された人生をどう充実させるか考えたほうがいい」と提案されても、病室のベッドに拘束され、家族との面会までも制限されているのに、充実した人生を送れるはずがありません。

急性期病院は、治る見込みのある患者を対象にしています。そのため、余命宣告を受けた患者に対するケアは充実しているとは言い難い側面があります。
病院側は場違いな患者を早くホスピスへ転送させたがりますが、ベッドが空くのを待つ間に、意識も体力もどんどん弱っていきます。
余生をどう過ごすか考えられる大切な時間を、心のケアが希薄な場所で過ごすことは、余計に患者の心の病を進めてしまいます。

率直に言えば、余命宣告など患者の健康を損ねる毒にこそなれ、プラスになる薬にはならないのです。ストレートに告知する価値がどのくらいあるのか、正直わかりません。

告知は一律的ではなく、患者のタイプや重症度によって変えるべきです。
告知が当たり前であることがゴールだとは思えません。きっと、その先の段階があるはずです。
告知をすることで医者の義務を終わらせるのではなく、告知が患者の健康にどのような悪影響を及ぼすかまで責任をもつ。病気を治すことが医師の使命であるならば、一人ひとりに適した告知のあり方を考え抜くことこそが、本来の義務であるはずです。
そうした柔軟な判断と、その後の対応策を確立する医療システムの進歩を願ってやみません。


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