プライバシー保護が大らかな時代に、三浦綾子さんが困ったこと
三浦綾子さんのエッセイ集『生きること 思うこと〜私の信仰雑話~』(新潮文庫)を読んでいます。
その中に、三浦家に毎日のように、突発的に見も知らぬ人が相談に訪れて困った、という話が書かれていました。
今では考えられない話ですが、昔は有名人の住所や電話番号を簡単に知ることができました。
プロ野球選手名鑑には自宅の住所や電話番号が平気で載せられていましたし、単行本の巻末にある「奥付」には、著者である作家の自宅住所や電話番号が印刷されているケースが普通にありました。
また、図書館などに置かれる『文藝年鑑』などの人名録にも、連絡先として自宅住所が堂々と掲載されていました。
住所や電話番号がわからなければ、仕事の依頼はできないし、ファンレターやプレゼントも送れない。弟子入り志願にも行けないというのが、当時の社会の理由だったのかもしれません。
事実、志村けんさんは、ザ・ドリフターズのリーダーだったいかりや長介さんの自宅へ直接押しかけて弟子入りを志願していますし、笑福亭鶴瓶さんも六代目 笑福亭松鶴さんの自宅に、事前の連絡も紹介もなく突撃しました。
この本のエッセイが書かれたのは昭和47年。まさにそれが「当たり前」の時代だったのでしょう。
しかし、三浦さんの家に来た人たちの相談内容を見ると、当たり前で済まされないような、現代の感覚では驚くようなことばかりです。
電話では、夫婦喧嘩をした妻に家出をされて困っている夫や、嫁姑問題に苦しむ嫁からの相談が例に挙げられていました。
自宅には、突然夜中に顔面蒼白の青年が現れ、「彼女に振られて、どうしたらいいか」という相談があったと記されています。
中には、自分を有名人だと名乗る女性に訪問されたこともあったそうです。彼女は気味の悪い声を立てながら家の中にずかずかとあがってきて、7時間も大声でわめき、泣き、はしゃぎ、大変な騒ぎだったと言います。
礼儀をわきまえない見も知らぬ人の相談に、なぜ乗る必要があるのかとも思いますが、本人が「自殺したくなるほどの悩み」だと言う以上、断るわけにもいかず、最初からその話を聞かなければならなくなった、と事情が明かされています。
しかし、そのせいで相談を受ける時間が長くなり、原稿を書くという本業の時間が奪われて困った、と本音が述べられていました。
また、当人にとって生死に関わるような深刻な悩みであることから、相談者が帰ったあとも、すぐに仕事に戻れなくて困ったようです。
事件に発展して、自殺や親子心中、殺人になったらどうしようと不安になり、執筆に集中できなくなってしまうからです。ひどいときは、苦になって1週間も眠れなかったこともあったそうです。
これでは仕事にならず、睡眠時間をいくら削っても締め切りに間に合わなくなると、札幌のホテルに部屋をとって、そこで仕事をすることもあったようです。
家に帰る元気も失い、しまいには「在宅恐怖症」にとりつかれるまで追い込まれてしまった、とも言います。
私は今、認知症の父親の介護をワンオペでしていて、自分の執筆時間をとるのにひどく苦労しています。
しかし、三浦さんのこの壮絶な苦労に比べれば、まだマシなのだと思わされました。
三浦さんが『氷点』でデビューしたのは42歳でした。それから流行作家として活躍し、77歳で天に召されました。
作家生活35年の間に、約100冊(小説55冊、エッセイ集42冊、童話・戯曲など数冊)の単行本を出版しています。
単純に計算すれば、1年に3冊近い本を出し続けなければ、この数字にはなりません。
三浦さんは若い頃に結核で長く闘病し、その後も数々の病に冒されました。このエッセイに書かれたように、有名人であるがゆえのトラブルで執筆の時間を奪われることも多くあったでしょう。
その過酷な環境のなかにあって、これほど膨大な作品を、しかも多くの名作を残したのです。逆境に負けない強靭な精神力には、尊敬の念を抱かずにはいられません。
時代は変わり、現代ではプライバシー保護が厳しくなっています。
しかし今度は、悪意のある投稿者によってネットに悪口を書かれたり、デマを流されたり、住所や電話番号を晒されたりするリスクと隣り合わせになりました。形を変えた過酷さは、今も存在しているのです。
作家になることより、夢が叶った「その後」を維持する方が、はるかに大変なのです。
人気作家であり続けるには、才能だけではなく、悪意にしなやかに対処できる精神力の強さも必要なのだと、深く実感させられました。
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