青信号だけで生きてきた私が、止まった日
住宅街を抜けて、大通りへ出る。
職場までは、あと五百メートルくらい。
校門までの間に、横断歩道が六つ。
信号は四つある。
左へ曲がった瞬間だった。
手前の信号。
奥の信号。
車。
向こうから歩いてくる人。
学生の列。
バス停に並ぶ人。
自転車。
あと何歩で横断歩道に着くか。
どの信号なら、そのまま歩いて職場まで行けるか。
全部が一気に頭へ流れ込んでくる。
考えているわけじゃない。
勝手に映像になる。
ある朝。
住宅街を抜けて、大通りへ出る。
肩にかけたバッグの持ち手をぎゅっと握ったまま、少しうつむいてアスファルトを見ながら
歩いていた。
気づいたら、
横断歩道をいくつか通り過ぎていた。
開店準備中のクレープ屋を通り過ぎる。
コンビニの前まで来たところで、
ふと足が止まった。
あれ?
横断歩道へ体を向けて顔を上げる。
赤信号。
私は立ち止まっていた。
向かいには、黄色いラーメン屋の看板。
T字路を、バスと車が行き交っている。
普段は素通りしてしまう景色が、
一枚の写真のように、そこにあった。
そういえば、小学生の頃からそうだった。
食パンをトースターへ入れる。
そこから5分間の勝負が始まる。
ココアパウダーを少量のお湯で溶く。
牛乳を入れて、電子レンジは2分10秒。
その間に洗面所へ行く。
顔を洗う。
妹が洗面所へ入ってきたら、
ぶつからないように少しだけ体をずらす。
戻ってくる頃には、「チン」と鳴る。
マグカップを持ってダイニングへ戻る。
パンも焼き上がる。
5分、ぴったり。
別に、時計とにらめっこをしていたわけじゃない。そうすると、一番無駄がなかった。
自然とそうなっていた。
信号も同じだった。
気づけば、青信号だけで職場へ着いている。
ある日、その話を生徒にした。
毎朝、青信号だけで職場へ着くこと。
赤信号で止まると、なんだか負けた気がすること。
青信号だけで職場へ着くと、
「今日も勝った。」
そう思うこと。
何と戦っているのか、
自分でもよく分からないこと。
全部話した。
生徒は少し笑って言った。
「え?そんなこと考えたことない。」
私は、その一言に驚いた。
考えていないのか。
みんな。
でも、
こんなことに脳を使わなくてもいいのにな。
と思いながらも、
気づけば翌日もまた、
青信号だけで職場へ着いていた。
その頃、息子が学校へ行けなくなった。
夫は三度休職していて、
今も、うつ病と付き合いながら働いている。
いつ倒れてもおかしくない。
だから、
私が仕事を辞めるという選択肢はなかった。
その日も、職場で生徒の後ろ姿を見ていた。
パソコンの画面。
教室の時計。
窓。
机。
生徒は静かにリモート学習を続けている。
でも、
頭の中では止まらない。
仕事は辞められない。
↓
送迎どうしよう?
↓
父。
↓
七十八歳。
↓
毎日は難しい。
↓
子育てサポート。
↓
登録。
↓
一時間五百円。
↓
時給なら働いた方が残る。
↓
昼食を作る。
↓
毎朝しんどい。
↓
給食は?
↓
給食だけ登校。
↓
父は、その時間なら送れるか。
ここまで考えて、ようやく一つ終わる。
でも、
その頃にはもう次のことを考えている。
その瞬間だった。
急に胃の奥が持ち上がった。
うっ。
とっさに口を押さえる。
椅子を引く。
教室を飛び出す。
廊下を早足で進む。
一番奥のトイレ。
便座を上げる。
「おえっ……」
何も出ない。
もう一度。
「おえっ……」
何も出ない。
便器をつかんだまま動けなかった。
吐くものがないのに、
身体だけが吐こうとしていた。
その日は、午後で早退した。
翌日と、その次の日も仕事を休んだ。
息子もお腹を壊して学校を休んだ。
最初の一日半は、
何をしていたのか、あまり覚えていない。
マッサージチェアの向きを、
テレビから窓へ変えた。
ただ、ぼんやり外を眺めていた。
今日は、窓ガラスがきれいだった。
公園の桜の葉が揺れている。
視線は、その上にあるカラスの巣へ向かった。
ずっと眺めていた。
少し前まで雛がいた巣は、
空っぽのようだった。
休みの最後の日。
給食の時間に合わせて、
息子と学校へ向かった。
教室へは入れず、
別室でタブレットを開く。
少しだけ勉強をする。
給食の時間。
親友が給食を運んできた。
あの日以来、
学校で会うのは初めてだった。
息子は少し緊張していた。
幼稚園の頃からの親友なのに、
学校ではうまく話せなくなっていた。
それでも、
少しだけ言葉を交わした。
帰り道。
「疲れたね。」
私が言うと、
息子も小さくうなずいた。
「疲れた。」
その一言だけだった。
たっぷりぼんやりして、
たっぷり眠った。
翌朝。
また、同じ道を歩いた。
背中に朝陽を感じながら、長い坂を上る。
住宅街を抜けて、大通りへ出た。
あ。
目の前の横断歩道には、車がいない。
向こうの歩行者用信号は、
緑が点滅し始めていた。
今のうちに、この横断歩道を渡ろう。
私は、信号のない横断歩道を渡った。
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