【小説・ヴィーナス症候群】(136)恋に勝つための服
第1章 気まずい雰囲気
瀬名川会長が辞任したのは、ほんの数日前のことだった。
事務局内で、本人がスマホの画面を見せながら「青春の躍動」だ何だと自分で悦に入っていた少女たちのテニススコートや陸上ユニホームの写真――それを見た階上つばさが、警察に通報した。
そのまま理事会に辞表が提出され、辞任。報道まではいかなかったが、組織の空気はがっつり沈んだ。
神田の雑居ビル三階、いわゆる「ヴィーナス児」の当事者団体・コルチカムの会事務局。
朝から、守実徹は電話とメール対応に追われていた。
助成団体、支部、理事会、関係先……どれも一応の理解は示してくれたが、軽く受け流せる話ではない。
机の上には対応メモが何枚も散らばっていた。
「ええ、はい。辞任届は理事会に。はい、今後は事務局で対応しますので……」
その向かいで、つばさは静かに紙を綴じていた。
両肩の義手はよく整備されている。作業もスムーズ。
だが、彼女の目は書類ではなく、時おり守実に向かっていた。
(……わたしが通報しなきゃ、こんなことにならなかった、って思ってるかもしれない)
守実は何も言わない。ただ淡々と処理をこなしている。
でも、あの夜の沈黙を、つばさは忘れていなかった。
「つばさちゃん、これ郵便局お願いできる?登記の原本返送分ね」
「……はい。助成金の控えも出してきましょうか」
「助かる」
そんな空気のまま、午前十時。
インターホンが鳴った。
つばさが先に立ち上がって、ドアを開ける。
現れたのは、ベージュのトレンチをきっちり着た40代くらいの女性。センター分けの黒髪、たぶん韓国人。
「こんにちは。ハヌルブランドから来ました。ワタシ、スタッフ、ハン・ミンジです。今日、トルソーさんのこと、相談したくて……来ましたです」
つばさは一瞬、反応が遅れた。
「HANEUL」の社名の入った名刺を見るまでもなく、相手の名前と目的がはっきりしていて、言葉もちゃんと通じてる。でも妙に真っ直ぐで、戸惑う。
「Feliceさんから連絡いただいてたハヌルさんですね。どうもどうも。私が事務局長の守実と申します。まあ、お掛けください」
守実がそう言って応接椅子を指さすと、ミンジは深く頭を下げて、静かに座った。
コートの前ボタンまできっちり留めていて、足元の置き方も妙にまじめ。
つばさは思った。
(……なんか、すごいの来たな)
第2章 「あなたが、立ってください」
「こんにちは。ハヌルブランドから来ました。ワタシ、スタッフ、ハン・ミンジです。今日、トルソモデルのこと、相談しに来たです」
応接ソファに腰かけたミンジは、ベージュのトレンチの前ボタンをきっちり留めたまま、姿勢よく座っていた。
センター分けの黒髪。語順にクセはあるけど、言いたいことははっきりしてる。
守実が名刺を受け取りながら、ゆるい調子で応じた。
「Feliceの人事の方から連絡いただいてました。ええと、韓国の……ハヌルさんですね。どうぞどうぞ」
守実が手で軽く合図する。つばさは書類整理を止め、隣の応接椅子に移った。
義手の指先でスカートの裾を直し、姿勢を正す。

机の上に置かれた「HANEUL」の名刺のロゴを見た瞬間、脳内に勝手に文字が浮かんだ。
(……ハネウルって、“ハネウル体売る”のハネウル、だよね)
ネットで見かけたやつ。オフショル、ミニ丈、極細ストラップ。見せるのが前提の服。男ウケ、とか。
あんな服を、ヴィーナス児が着て立つ――いや、着るだけなら誰でもできる。でも。
(……あんなタイトな服、ちゃんと着こなせる自信、わたしにあるかな)
ミンジが言った。
「先週、Feliceの展示会、見ました。腕ない女性、すごくきれいに立ってたです。服が、生きてるみたいでした。うちのブランドにも、必要です、そういう方」
守実は「ふむ」と小さくうなずき、タブレットにメモを取りながら口を開く。
「つまり、求人を出したいということでしょうか?」
「はい。でも、やり方、よくわからないです。Feliceの人事の方が、“コルチカムに聞いたらいい”って……」
「なるほど。じゃあこれは、会報の求人枠かな。つばさちゃん、ちょっと話聞いてあげて」
「はい」
つばさがミンジの方に向き直ると、視線が自分の肩口あたりに刺さってるのがわかった。
義手の付け根。悪気があるとは思わなかったけど、ちょっと正直すぎる。
そのままミンジが、目をそらさずに言った。
「あなた、プロポーション チョンマル 良いです。あなたが、うちの、トルソモデル、してほしいです」
突然すぎて、つばさは思わず笑ってしまった。
「いやいやいやいや。他のブランドならともかく、ハネウルだけはちょっと……。服、けっこうタイトで体の線も出ますよね。オフショルとか、ミニ丈とか」
「でも、アナタ、立ち方、すごく、きれいです。服に、さわらないです。空気が、通ってる。ハヌル、そういう人、必要してます」
守実が、ぽつんと言った。
「つばさちゃん、ブラックかどうか、見極める意味でもいいんじゃない?」
つばさは少し黙ってから、ぽつんと聞いた。
「……でも、ずっと気になってたんですけど、こういうの着て、ソウルのミョンドンとかカンナムとか歩いてたら、襲われたりしませんか?」
ミンジは一瞬だけ黙ったあと、きっぱり言った。
「服がセクシーでも、それで襲う人、悪い人です。服が、悪いじゃないです」
つばさはうなずいたものの、ほんの一瞬だけ、別の言葉が喉まで上がりかけた。
(でも……やっぱり “ハネウル、体売る” だし)
でも、それは口にしなかった。
ミンジが少し間をおいて、言葉を選ぶように続けた。
「イントネッで、ヘンなこと、たまに書かれてる。うちのこと。でも、うちは体は売ってないです。服と、“見せたい心”だけです」
つばさは黙って聞いていた。
ミンジの言葉はたどたどしいけど、嘘は混ざってなかった。
ミンジは少し胸を張って言い添えた。
「ハヌル、“恋に勝つ服”です。そういう気持ち、ある人に、似合う服です」
「……恋に勝つ、か」
少し黙ってから、つばさは口を開いた。
「まあ……広告出していいところなのかどうか……一度、私がやってみましょう……!」
ミンジの顔がぱっと明るくなった。
「ホントに……アリガトウゴザイマス!」
守実はすっと立ち上がり、デスクに戻りながら言う。
「じゃあ、出張扱いで現場入ってきて。交通費は、今諏訪さんに確認しておくから」
つばさは立ち上がり、義手の指でスカートの折れを直した。
(ほんとにやるんだな、わたしが)
(……ハネウルの服を着て立つ、か……)
