【小説・ヴィーナス症候群】[182]憧れ竹林時計
鎮貪舎――戦前にチンドン屋から始まった広告代理業は、今や国内外に名を馳せる老舗広告代理店となった。その庶務課は今日も涼しい空気に包まれていた。
舘合翠(たてあい・みどり)は、義手で伝票をめくりながら、机の隅に置かれた社用スマホをちらちらと気にしていた。
「……今日も、出てきてないんですよね?」
「うん。先週の大井競馬場みたいなことになってなきゃいいけどな」
「“火星の馬券はどこだ”ってノミ屋に絡んで、警察に保護されて……さすがに出禁でしょうね、もう」
係長・西松。今や彼の存在は、庶務課の最大の不確定要素であり、翠の業務の半分だった。
かつてはパリやニューヨークをまたにかけ、数々の世界的ブランドを手がけた伝説の広告マン。けれど、突然失踪し、数ヵ月後、中国と北朝鮮の国境で保護。瀋陽の日本領事館から連絡があったという一件以来、人格も生活も崩壊してしまった。
療養を理由に本社庶務課へ異動してきたものの、彼がまともにデスクに座る日は、ほとんどない。
ひどい時は伊豆諸島の青ヶ島まで回収に行ったこともあった。
そんなある午後、役員フロアの動きがにわかに騒がしくなった。
「フランスから来客って。しかも、あの時計ブランドのエグゼクティブだってさ」
「副社長が出るってことは、相当だね……翠ちゃん、お茶出しお願いできる?」
「はい」
翠は立ち上がり、義手でトレーを整える。あくまで庶務課としての業務だ。会議の内容には一切関与しない。ただ、動作は静かに、目立たないように。

応接室のドアを開けた瞬間、フランス人の男が話している声が聞こえた。通訳が隣に立ち、柔らかく訳している。
「ニシマツ。あの人は、私の憧れだった。彼の“時間をまとう”という表現が、日本市場での販路を拡大し、我々のブランドに新しい命を与えてくれた……」
翠の足が一瞬だけ止まった。義手のトレーが微かに傾き、カップがカチリと鳴る。
その音に、男がふと目を向けた。視線が翠に重なる。
彼女は慌ててトレーを正し、テーブルにカップを置いて、そそくさと引き返そうとした。
その時だった。通訳が、やや困惑したような表情で問いかける。
「……給仕のあなたが、ニシマツを知っているのですか?どこで知り合ったの?」
翠はその場で固まった。自分が声を出したわけではない。ただ、「ニシマツ」という言葉に、反応してしまっただけだった。
総務部長がすかさず割って入る。
「彼女は庶務課の社員です。お茶出しに来ただけですので。どうぞ、続きを」
部屋の外に出されながら、翠は小さく唇を噛んだ。
“どこで知り合ったの?”――そんなの、毎日じゃないか。現実の西松係長は、もはや憧れでも何でもない。紙屑を撒き散らし、無意味な言葉を呟き、行方不明になるばかりの壊れた男だ。
けれど、その“壊れたもの”を拾って、繕って、それでも日々向き合っているのは、他ならぬ自分だ。
事務室に戻ると、課長が受話器を置いたところだった。
「舘合さん。西松係長、見つかったよ」
「……また警察に保護されたんですか?」
「うん。今度は茨城。水海道ってとこで、竹林の中に座ってたんだって」
翠は一瞬、目を見開いた。
「……北海道?」
「いやいや、“みつかいどう”。つくばのちょっと手前くらい。通報した人の話じゃ、竹の根元で“時間が詰まってる”って、何かずっと唱えてたらしい」
「……で、迎えに行くのは私、ですよね」
課長は、少しだけ視線を逸らしながら、苦笑した。
翠はため息をついた。
デスクの隅に置かれた、あの時計ブランドのノベルティクロックが、午後三時を告げる。
――時間をまとう、ね。
「……行ってきます。“憧れ”の係長を、お迎えに」
彼女は立ち上がった。義手の関節が、小さく音を立てた。
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