見出し画像

【百合小説】隣の彼女は秘密を知っている <12> 【創作大賞2025】

<プロローグ> <1> <2> <3> 
<4> <5> <6> <7> <8>
<9> <10> <11> <12> <13>
<14> <15> <16> <17> <18>
<エピローグ>

<前の話 次の話>


第4章

「菜奈、おはよ。朝ごはん、食べる?」

 優しい声が、寝起きの私に温かく降り注ぐ。重い瞼をあげると、もうすでに普段着を着て寝癖も整えた亮太が、微笑みながら私の顔を覗き込んでいた。

「おはよう。朝食は…いいかな。スムージーでも、飲むから」

 ふぁ、と、生理現象であるあくびが、意図したものよりも少しだけ大きくなる。今の動作は不自然に映っただろうか。彼の反応を窺うが、幸い、亮太の横顔に特に変化は見られなかった。

 いつもの習慣で、サイドテーブルの携帯に手を伸ばす。そこで、私の指先が、別の硬い箱に触れた。
 ——昨夜の、ベルベットの箱。
 私が眠った後、亮太がここに置いたのだろう。その箱からは、意識してほしい、しっかり考えてほしい、そんな亮太の声が聞こえてくるようだった。

 キッチンカウンターの上には、すでに数種類の果物とジューサーが準備されていた。私が朝のスムージーに使う、いつもの組み合わせだ。
 亮太が、私のことをいかによく見てくれているのか。その事実を改めて突きつけられたようで、胸の奥がちくりと痛む。彼のその完璧な優しさが、今は少しだけ、息苦しい。

 ソファテーブルでテレビを見ながらトーストを食べる亮太を横目に、私は、出来上がったスムージーを立ったまま口に含む。
 美花がこの場にいれば、行儀が悪い、と眉を顰めて叱っているだろうな。その、ありありと目に浮かぶ光景を想像して、私の口元から、自然と笑みがこぼれた。
 
 突如、ざぁっ、と窓を叩く激しい雨音が、部屋に響く。
 ——あの日、美花に初めて声をかけた日も、こんな雨が降っていた。その日の記憶は、今でも昨日のことのように思い出せる。

「あなたの『特別』になりたい」

 あの時の私は、本心からそう願っていたわけではない。あれは、彼女の心に、私という存在を強く印象付けるための、戦略的な言葉だった。
 私は、美花を通して、いなくなった亜紀を見ていただけ。
 
 なぜ、美花でなければならなかったのか。私が美花を、亜紀の代わりではなく、『美花』というひとりの人として特別に意識し始めたのは、いつの頃からだろう。
 …そうだ、あれは、大学で——私が、周囲から孤立しかけた、あの出来事がきっかけだった。


「こんなところに居た」

 自分の殻に閉じこもっていた私の意識を、現実に引き戻したのは、不意に聞こえた聞き慣れた声だった。

 声がした方を振り向くと、そこには、少し息を切らせ、額に汗を浮かべた美花がいた。私を探してくれていたのだろう。彼女は私の方に駆け寄る。

「中庭でパソコンって、見づらいでしょ」

 私の隣に当然のように腰を下ろした美花に、私は一度、作業していたパソコンを閉じた。そして現状を説明するように、ため息を一つ落とす。

「…もう、あのグループで作業を続けるのは、無理だよ。あまりにも適当すぎるから」

 授業で課された、グループワーク。しかし実態は、企画立案から実際の作業まで、すべてのタスクを私一人に押し付け、他のメンバーはただ雑談に興じているだけ。グループとは名ばかりの、私への作業の丸投げが続いていた。

「菜奈は完璧主義だもんね。みんなの案、いっぱい却下しちゃったんじゃない?」

 美花の指摘は的確で、私は思わず口をつぐんだ。
 確かに、そういう側面もあったと認めざるを得ない。彼女たちが提示した企画案は、客観的に見て、あまりに稚拙で、欠点が多過ぎたから。
 だとしても、だ。そこから、より良い代替案を考えようという、建設的な思考につなげてほしかった。投げ出してほしくなかった。
 …けれどそれも、彼女たちの能力に対して、私がかけた過剰な期待だったのだろう。

「はぁ…。このままだと、プロジェクト自体だめだな。どうすればいいんだろう…」

 目の奥がじんわりと熱をもち、私は思わず空を仰いだ。
 完璧主義などと評価されても、その実、何もできていない。他者と円滑な関係を構築することもできず、その結果、一つのプロジェクトさえ、まともに進行できないでいる。このままでは、単位の取得自体が危ういかもしれない。

 そんな私の負の思考を断ち切るように、美花の明るい声が響いた。

「私、今のグループ抜ける。一緒にやろ、菜奈」
「え?」

 私は驚きに、思わず目を見開いて美花を見た。
 私の知る限り、美花の所属するグループは順調なはずだ。それに、この授業において、一度決定したグループの変更は、原則として認められていない。
 例外的な措置として、教授に相応の理由を提示し、承認を得る必要があり、仮にそれが認められたとしても、成績評価へのマイナスは避けられない。美花が、そんなリスクを負う必要は、どこにもなかった。

「いや、だめだよ。美花が今のグループを捨てるのは勿体ない。大丈夫、これは私の問題だから」

 彼女の申し出は、純粋に嬉しかった。けれどだからこそ、彼女を巻き込むわけにはいかない。
 これは、私個人の、性格と能力の問題だ。私の、他人を無意識に見下してしまう、その傲慢さ。口には出さずとも、そういった態度が、非言語的に相手に伝わってしまったのかもしれない。
 今回のことは、自業自得だと思った。

 しかし美花は、そんな私の後ろ向きな考えを否定するかのように、あっさりと、こう切り返した。

「もったいなくないよ。菜奈が一人で泣いてる時間の方が、私にとっては一億倍もったいないもん。菜奈の味方でいることが、何よりも一番、大切なことだから」

 ——私の、「味方」。

 その言葉は、私の心に、深く突き刺さった。
 私にも非があることは、美花も理解しているはずだ。それでも、彼女は私の側にいると、私の味方であると、そう宣言してくれている。

 呆然と美花を見つめていると、視線がかち合った。すると、彼女の目元が、照れを隠すかのように、ふっと緩んだ。

「…もし菜奈がどんなに悪いことをしたとしても、私は絶対、菜奈の味方だよ」

 その、少しだけいたずらっぽく響く声色と、表情。それは今でも鮮明に覚えている。
 私も、その言葉の重さから逃げるように、「悪いことって、例えば何よ」と、おどけて彼女の肩を叩き、笑い合った。

 客観的に見れば、それは、ただの大学生同士の、些細なやり取りだったのかもしれない。
 けれど、私の中で、美花の存在が決定的に変わったのは——本当の『特別』になったのは、間違いなく、あの瞬間だったのだと、思う。


 窓を叩く雨音は、さらに勢いを増している。リビングから聞こえていたはずのテレビの音は、その雨音にかき消され、もう私の耳には届かない。
 空になったグラスをシンクに置き、私は、一度思考をリセットするため、そこに溜まっていたいくつかの食器を洗い始めた。

「美花、ありがとう。残り俺やるよ」

 しばらくして、トーストを食べ終えた亮太が、キッチンに皿を運びながら、そう声をかけてきた。
 彼との生活では、家事はどちらともなく分担してやっていた。そしてそれに対して、彼は必ず感謝の言葉をかけてくれる。その安定した関係性の延長線上に、彼との穏やかな未来が、容易に想像できた。

「…うん、ありがとう」

 亮太が引き続き、食器を洗う。私はダイニングテーブルの椅子に座り、彼を無意識に観察していた。

 昨夜の、彼のプロポーズ。
 それに対して、私は絞り出すように「少し、考えさせてほしい」とだけ返した。その答えは想定内だったのか、彼に驚いた様子はなく、ゆっくりと息を吐いて、「わかった。いつまでも、待つから」と、受け入れた。

 そして今朝の彼の態度は、昨夜の出来事などなかったかのように、普段通りに見える。…いや、そう見えるように彼が『振る舞ってくれている』のだろう。彼の、彼らしい優しさだった。
 
「…ねぇ亮太」
「ん?」

 私が声をかけると、亮太はすぐに作業を中断し、こちらへと向き直った。
 常に、私を最優先に置いてくれる。その誠実な姿勢は、彼の一番の魅力だと思った。そしてそれを彼に伝えようとして——、私は喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。
 私は、彼に尋ねる。

「亮太はさ、私が何か悪いことしたら、どうする?」

 私の唐突で、意図の読めない問いかけに、彼は一瞬眉を顰める。しかし、私が意味のない問いをする人間ではないと判断してくれたのだろう、彼は腕を組み、真剣な表情で考え込んだ。

「悪いことって…そうだなぁ。中身によるかも。例えば、なに?」

 亮太の、どこまでも真面目で、誠実な返事。私の突飛な問いに、真剣に向き合い、答えを探そうとしてくれている。それは、おそらく、人としての模範解答なのかもしれない。

 だが、私には、もうそれで十分だった。

「んー、いや、何でもない!思いつかなかった」
「何だよそれ」

 笑いながら言った私に、亮太も呆れたように笑って、また水を流し始める。

 亮太は、優しい。私のことを、常に第一に考えてくれるし、私も彼のことを、大切に思っている。
 半年という時間の中で、彼の魅力的な部分を、いくつも発見した。本当に素敵な人なんだと、何度も再認識した。

 ——それなのに。

「…やっぱり、違った、なぁ…」

 私の小さな結論は、激しい雨音に吸い込まれて、誰の耳にも届かない。嵐のような外の天気とは裏腹に、私の心は、不思議なほどに凪いでいた。
 そしてその静けさの中心に、たった一つの答えが、もうはっきりと、見えていたのだった。






<前の話 次の話>

<プロローグ> <1> <2> <3> 
<4> <5> <6> <7> <8>
<9> <10> <11> <12> <13>
<14> <15> <16> <17> <18>
<エピローグ>


#創作大賞2025
#恋愛小説部門

いいなと思ったら応援しよう!