【百合小説】隣の彼女は秘密を知っている<14>【創作大賞2025】
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第5章
2
カーテンを引き、ホテルの部屋にやわらかい朝日を入れる。その窓は大きく開放的で、窓辺にはゆったりと座れるスペースが設けられていた。私はそこに腰を下ろし、街の景色を見下ろす。たくさんの人が行き交い、なんだか慌ただしいような、そんな雰囲気にも見える。
年末の繁忙期。この一年で一番忙しい時期に、私は上司に有無をいわせず無理やり有給休暇を取り、一方的に仕事を休んでこのホテルに来た。
「…もしかしたら、仕事、クビかもなぁ」
これまで、仕事は本当に真面目に取り組んできた。有給休暇なんて、上司から「しっかり取れ」と怒られるほど、積極的に取ることはなかったし、他の人の急用に合わせて自分が予定を変えることも頻繁にあった。きっと驚かれているだろうな、と苦笑する。
例えば今、仕事が無くなったらどうすればいいだろう。実家に戻るか。いや、きっと親に心配されるし、それからきっと、結婚や見合いの話になるだろう。妹からの反応も怖くてカミングアウトもできないし、ろくに心が開ける、頼れる友人だっていない。
——きっと菜奈だったら、助けてくれるんだろうけど。
その考えを打ち消すように、私は頭を強く振った。
せっかく遠方に来ているんだ。休みも取っているし。私の目的は夜、あのバーに行くことだったから、それ以外の時間に予定は無い。私は薄く化粧をし、最低限の荷物だけ持って、部屋から出た。
◇
見かけたレトロな喫茶店に、ふらりと立ち寄る。菜奈も私も喫茶店が好きで、生活圏内の喫茶店はチェーン店を含めほとんど全て制覇したと思う。基本的に、私はメロンソーダで、菜奈がプリンを頼むのが常だった。しかし今日は、私はあえて、両方とも頼んだ。
「お待たせしました」
出てきたプリンを見て、思わず「わぁ」と感嘆の声を漏らす。そのプリンは、レトロな花柄が彫られたグラスに、完璧なビジュアルで鎮座していた。上にチェリーと少しのホイップが載っており、その下には深い茶色のカラメルがちょうどいい量かけられている。器を揺らしてもそこまで揺れない、固さもある。
「菜奈が喜びそう」
写真を撮り、自分の口角が上がっているのに気が付いた。いつでも菜奈のことばかり考えているなと、自分ながらに呆れるほどだ。この写真だって、撮ったってもう、意味はないのに。
菜奈の好きな、苦めのプリン。それをメロンソーダで流し込みながら、私は昨日マスターから言われた言葉を頭の中で反芻していた。
「美花さんが一番辛いのは、本当に、そのセクシュアリティのせいでしょうか」
どういう意味だろう。私が今までこんなに辛い思いをしてきたのは、間違いなくそれのせいだと思ってきた。それが、何か間違っているかもしれないということ?私には理解ができなかった。
その時、誰かの嗚咽が、ひどく場違いな音として、不意に耳に届いた。視線を声がした方に向けると、カウンター席に女性が一人座っており、遠目からでも大粒の涙をぼろぼろと溢しているのが分かった。
——いいな、あんなに泣けて。
彼女は人生の終わりかのような、絶望の表情をしている。顔はぐちゃぐちゃで、周囲の人間にどう見られようが気にならないほど、自分の気持ちでいっぱいなのだろう。もしかしたら、私と同じくらい、今辛いのかもしれない。
一瞬、もしかしてあの子もレズビアンかも、と頭に過る。私は思わず、彼女と店主の会話に耳を澄ませた。
「辛すぎる。死にたい。もう私、ひとりぼっちになった」
「…悲しいねぇ」
号泣する女性を、店主が慰めている。その二人の様子に、昨日の自分を重ねて、胸の奥が苦しくなる。
「ずっと、何年も、好きだったんだもんねぇ。失恋は、辛いよねえ…」
その店主の言葉に、あぁやはり彼女は同じ状況だったんだと、そこに奇妙な連帯感が生まれた。痛みを分かち合う仲間を見つけたような、複雑な感情が込み上げる。
しかしその直後、彼女の発した言葉に、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「私には、彼しかいなかったの。彼だけがいれば、他には誰も、いらなかったのに」
——彼。
当然のこと、だった。なぜ彼女をレズビアンだと勘違いしていたのだろう。昨日の自分と重ねすぎていたからか。彼女は、ごく一般的な、異性愛者だった。
ふと、頭の中に一つの疑問が浮かぶ。
彼女と私の違いは、どこにあるのだろう。何年も大好きだった、特別な人に、想いが通じなかった。そのことに、絶望して、もう何もかもがどうでもよくなってしまった。
「…そういう、こと…」
心の声が、そのままこぼれ落ちる。マスターの言っていたことが、ようやく私の胸にすとんと落ちた。
何度考えても、私と彼女には、何の違いも無い。私が今、一番辛いこと。それは、レズビアンだからとか、そういうことでは、なかった。
「…菜奈に失恋したことが、こんなにも、辛いんだ………」
言葉にした、その瞬間。
堰き止めていたものが決壊するように、大粒の涙がとめどなく溢れた。
私は今まで、自分の辛さに真正面から向き合うことができていなかった。セクシュアリティを盾に、この辛さに蓋をしてしまっていたのだ。
今思えば、分かりきったことだ。
ずっと一緒にいて、ずっと大好きだった菜奈に、彼氏ができたこと。
そしてその彼女が、結婚してしまうこと。
それは、菜奈が女性か男性かなんて、何も関係がないことだった。
私は席に座ったまま、全身の水が無くなってしまうのではと思うほど、涙を流し続けた。
涙が止まった時に残ったのは、透き通るような心の静寂。それは、今までに感じたことのない、清らかな安らぎだった。
◇
「自分の環境のせいで、自分が本当は何に悲しんでいるのか、わからなくなる人は実は少なくないんです。でもそれで、いつまで経っても前に進めなくなってしまった人も居ますし…難しいですよね」
マスターは、これまでに色々な人を見てきたのだろう。全てを見通していたかのように、穏やかな眼差して私に微笑みかけた。その微笑みに包まれるように、私も穏やかな気持ちになる。
「ここに来た意味が、ありました。ありがとうございます」
深々とマスターに頭を下げると、彼女はいえ、と軽く頭を振った。そして少し、心配そうにこちらの顔を覗き込んだ。
「これから、どうするんですか。その、彼女とは。…伝えは、しないんですか」
「………」
伝えることも、考えた。私のこの気持ちを昇華させるには、どうすることが一番なのか。でも伝えたとして、菜奈に逆に、辛い想いをさせてしまうのではないかとも思う。…それに。
「…怖い、んです」
「怖い?」
私は、拳をぎゅっと握り、グラスに反射する自分の顔をじっと見つめた。
「女の人が好き」だと伝えた時の、菜奈のあの反応。彼女の、受け入れられないとでも言うような、少し怯えの混じったあの視線。
「…あの反応をされた時、すごく、背筋がぞっとしたんです。あれをもう一度味わうくらいなら、もう…伝えなくてもいいかも、って」
「………」
マスターは少し沈黙し、何かを深く考えるように目を閉じた。やがて、言葉を選ぶように、だが確かな言葉を、口にした。
「…本当にあなたの好きな彼女は、あなたのことを否定するような子、なんですか?」
マスターの言葉に、私ははっと息を呑んだ。
自分でも感じていた、違和感。菜奈ほどの完璧で、いい子が、他人のセクシュアリティを否定するような意見や振る舞いをするだろうか。
私のことを特別だと言っていた彼女が、そのことで私を否定したり、するだろうか。
「自分の知らないことを知らされた時、人はどうしても、戸惑ってしまいます。でもそれは、必ずしも否定の意味とは限らない。…そう、思いませんか」
その話し方は、まるで私の心の内側から湧き出た言葉が、そのまま口にされているかのようだった。目の前の霧が晴れるかのように、突然視界がはっきりする。今まで見えていなかった真実が、鮮やかに浮かび上がったように思えた。
「…私、ここに来て、本当によかった」
私はもう、目に浮かんだ涙を隠すことはしなかった。目を細めると、それは頬を伝い、テーブルに落ちる。
その時、スカートのポケットがわずかに震えた。着信を告げるその振動に、私はスマホを取り出し、画面を見る。そこに浮かび上がったのは、久しく見ていなかった名前——深月菜奈。
私の心臓が、小さく、跳ねた。
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