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36歳でスイッチを切るまで。〜慶應・証券・コンサル、投資家ポジションの作り方。〜|リタイアと仕事の話④|私自身の部屋

入社して半年で、18キロ太りました。

スーツのボタンがはちきれた日のことを、今でも覚えています。

急に体が大きくなって、自分の体の大きさが把握できていなかったせいか、

道をあるいていると、看板によくぶつかったりして(笑)

それが、証券会社での私の20代でした。

音大中退でスタートした私がどうやって投資家のポジション作りをしてきたのかお話ししたいと思います。


商社で知った、業界の構造。

南米から帰国して、次に選んだのが商社でした。

これも期間が最大3年という縛りがある契約でしたが。

海外と貿易というキーワードへの関心から、

「貿易の花形」と言われる商社で働く機会をどうやって手に入れるか、

それだけを考えていた時期がありました。

実際に働いてみると、業界の構造が見えてきました。

商社というのは、一言で言うと「運ぶプロ」です。

物流・決済・通関を担い、すでに売れているものを効率よく流すのが本業。

まだ売れていないものを市場に根付かせるのは、実は得意じゃない。

だから、メーカーが「商社に任せれば海外で売ってくれる」と思うのは、

大きな誤解で。それが海外輸出の一番最初にみんながハマるポイント。

商社は売る火種を持っていない。

なんたって、お客様はバイヤーさんだから。

バイヤーさんが欲しがりそうなものを持ってくるのが仕事であって、

メーカーの販路開拓支援が仕事じゃないんです。

そこを履き違えていることが多い。

企業だけじゃなくて、公的機関を使った支援のプラットフォームでも。

火種はメーカー側が作って渡さないといけない。

そして、キャリア面で見るとどうか。

薄利多売の構造だから、利益率が低く、走り続けるしかない。

人材育成に使える予算も限られる。

この構造を、現場で肌感覚として理解できたのは、

派遣・業務委託という立場で中に入って、動き続けたからだと思っています。

貿易の実務、輸出入規制、関連する機関はどこか、営業、サプライヤー交渉。

参加してもいいという勉強会には全部参加しました。

自分の置かれた枠を越えてやれることは何でもやり切りました。

社員にならないかという話もあったけれど、

そこに安定を求めていたわけじゃなかった。

3年縛りのルールが来たタイミングで、契約更新せずに辞めました。

この時学んだ「商社の構造」は、

後にコンサルとして海外進出支援をするときに、

何度も何度も役に立ちました。

▼ 商社で学んだことを、もう少し詳しく書いています。 なぜ商社に任せても、輸出は増えないのか。→ 近日公開予定


お金と友達になるために、金融へ。

次に考えたのは、「どの業界が一番、人にお金を使ってくれるのか」。

そして同時に、もう一つの動機がありました。

今まで、なんとなく怖いと思って避けてきたお金と投資。

リタイアするにはお金が必要。

そして、そのお金と仲良くなるには、

お金のことを一番深く勉強できる場所にいるのが一番だ、と思ったんです。

怖がって避けるんじゃなくて、友達になる。

リーマンショックも経験して、お金に振り回される人生がもう嫌だった。

だから、次の目標を金融業界に置きました。


9年かけて、慶應を卒業した。

ただ、高卒のままでは、金融はどこも採用してくれない。

20代で同世代がキャリアをスタートしている中、

4年間通学で大学に通うのは、また出遅れると思った。

コストとキャリアのバランスを考えた末、

通信制で卒業を目指すことにしました。

どうせやるなら付加価値が高いところで、ということで、慶應の経済を選びました。

通信制と聞くと、レベルが低いように聞こえるかもしれません。

でも実際の卒業率は約1〜2%と言われています(※)。

学部でも卒論があるし、卒業面接は2回落ちると一生卒業できない仕組み。

仕事をしながら進めた、課題と、試験と、夏季の通学。

勉強を始めて、結局、卒業するまで9年かかりました。

でも卒業してみると、卒業証明書は通学の学生と同じもの。

今でも、ホーチミン市にある三田会にお邪魔すると、

慶應卒の同志として、温かく迎え入れてもらえます。

海外で労働ビザが取れているのも、大学卒業資格を取っておいたから。

やってよかったと、心から思っています。

※卒業率は時期により変動します。慶應義塾大学の公式情報をご確認ください。


証券会社で、お金と友達になった。

金融業界に入って、世界が変わりました。

当時、大学の単位は全部取り終えていて、

あとは卒論と卒業のための面接・プレゼンのみという段階。

ポテンシャル採用で、社員として拾ってもらいました。

証券会社の本社には、今まで出会ったことのない優秀な人がたくさんいる。

始業前の新聞読み合わせでは、

先輩社員が日経新聞をもとに鋭い質問を投げかけてくれたり、

自分で分析した見解を発表したり。

飲み会の席で、テキーラのショットを飲んだ後に、

真顔で「99×99を数字を一つずつ減らして、間違わずに1×1まで計算できるか」

と聞かれて、冗談かと思ったけれど、

隣にいた2年上の先輩が、何の躊躇もなくやりきっていたのを見た時、

世界が違うなと思いました。

同期からも毎日刺激をもらいながら、

勉強できるものは全部させてもらいました。

新人の業務として毎日アサインされたのが、

マーケットクローズ後のアナリストレポートの作成。

おかげで、毎日マーケットを見るという習慣が、このときに自然とついた。

ストレス環境はすさまじくて、

入社して半年で18キロ太って、スーツのボタンがはちきれたこともあります。

でも、投資に関しても、何に投資するかという話だけじゃなく、

どんな投資にどんなリスクとリターンがあって、

どうポートフォリオを組めばリスクを最小化できるのか、

先輩たちから徹底的に叩き込んでもらいました。

インサイダー規制が厳しい環境でしたが、

ルールが許す範囲で、習ったものは全部実際にやってみる、

ということを続けていくうちに、

漠然としていた「お金への不安や恐怖」との付き合い方がわかってきた。

複利の力を体感したのも、この頃です。

ロバート・キヨサキが言っていた「お金が自分のために働く感覚」を、

小さな規模ではあったけれど、確実に体感し始めて。

「あ、これだ」と、リタイアに向けての方向性が確信に変わったのも、

ベトナムに渡航する前の、この20代の頃でした。

▼ 証券会社で学んだお金の話は、こちらでも書いています。 若い時こそ、利害関係を先に設計する。


コンサルへ。そして、タイムラインを35歳に決めた。

29歳になる1ヶ月前、証券会社を退職して、

現地のコンサル会社に転職し、ベトナムに渡航しました。

それが2016年のことです。

コンサルを選んだのは、色んな業界の知識が一気に詰められるから。

英語・フランス語・スペイン語という武器も活かせる。

そして、父にしてあげられなかった中小企業の支援を、

今まで社会にいただいてきた経験をフルに生かして、

海外進出という軸で実現できる。

コンサルで積む経験や知識、今まで積んできた私の生き方そのものが、

自分にしかない専門性につながると思いました。

そして、次のタイムラインを、35歳と決めた。

稼いだお金は全部投資に回して、

会社をやりながら、人の会社でも社員・業務委託・アルバイト、

経験できるものは全部やってきた。

だから、いまだに、日本人会に行くと、

「ジェトロのアドバイザーさん」とか「進出コンサルタントの!」とか以外に

「あ!人材紹介の営業の◯◯さん!」とか、

「あのマガジンの執筆をしていた人だ」とか、

「日本人バーのバーテンダーさん!」なんて声をかけられることがあります。

名刺はいつも5〜6種類持ち歩いていました。



36歳で、スイッチを切った。

当初の目標より1年遅れたのには、理由があります。

会社を売却した後、コロナが来ました。

海外進出の支援をメインにしていた私のビジネスは、

物理的に人が国を越えられなくなって、一気に止まった。

そのフラストレーションをぶつけるように、

慶應・早稲田・東大出身のきれっきれの経営陣と、

十数カ国の国籍のメンバーが一緒に働く、

立ち上げからまだ間もないスタートアップに正社員としてジョインしました。

「メッセージが来たら10分以内に返信」が当たり前の、

誰よりも最速で最大に成長、というイケイケの環境。

要求レベルの高い大手戦略系コンサルティングファームのクライアントを満足させながら、

まだ組織がぐちゃぐちゃな中での仕組みづくり、

経験もメンタルも不安定な若手メンバーの育成、

グローバルチームとの連携。

朝も夜も週末も関係ない、という日々が続きました。

リタイアを目標にしていた人間が、

その直前にわざわざ正社員で飛び込む。

われながら、矛盾していると思います。

でも今振り返ると、それは「やり残し感」だったんだと思います。

お金の仕組みはできていた。

でも、まだやり切れていない気がした。

そこまでやり切って、ようやく「お腹いっぱい」と思えた頃、

ちょうどいくつかのことが重なりました。

当時、ベトナムに来る前から長く付き合っていた彼と別れた。

女性としての身体的なタイムラインと、

ちゃんと向き合わなければいけないと感じるような

体の変化が出始めていた。

そして、今の夫と出会ったのも、

ちょうどこのスタートアップで「お腹いっぱい感」を感じ始めた頃でした。

子どもをつくろうという話が、二人の中でとんとんと進んだ。

人生の軸を切り替えるなら、今しかない。

そう思って、スイッチを切りました。

それが、36歳でした。


「投資家のポジションを取る」ということ。

社会の底からスタートした私が、

死ぬほど働き続けてきたのは、ただ豊かになりたかったからじゃない。

自分の人生の舵を、自分で握りたかった。


お金は、そのための道具です。

投資家のポジションを取るというのは、

株を買うとか、不動産を持つとか、そういう話だけじゃない。

自分の時間をどこに使うかを、自分で決められること。

やりたくないことをやらなくていい状態を、作っておくこと。

そして、人生の大きな転換点を、

自分のタイミングで選べること。

36歳の私がスイッチを切れたのは、

お金の仕組みを作ったからだけじゃなかった。

「やり切った」という実感と、

「今しかない」という確信が、

同じ瞬間に重なったからでした。

次回は、セミリタイアしたのに「働くのが好きすぎた」という話を書きます。


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※このシリーズに出てくるお金の話は、私自身の経験と考え方をもとにした記録です。投資・資産運用には必ずリスクが伴います。特定の金融商品の購入や投資行動を推奨するものではありません。判断はご自身の責任でお願いします。


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