卒業の日 #1 父の泣き顔
3/2 17:00
卒業式の前日。
学校から智花が家に戻ると、
台所の明かりが、もう点いていた。
「ただいま」
「おかえり」
父だ。
その横で、鍋が小さく、ふつふつと音を立てていた。
煮込みの匂いが、ゆっくりと部屋に広がる。
智花は制服のまま、入り口に立った。
「明日、卒業式」
「うん」
父は、菜箸で鍋をかき混ぜる。
味見をして、少しだけ塩を足す。
「来られる?」
問いかけは、軽くしてみた。
父は、コンロの火を弱めた。
「……行けたら行く」
振り向いた顔は、いつも通りだった。
「そっか」
それ以上は聞かない。
「行かない」のではない。
父の「行けたら行く」は、だいたい本当だ。
行けるように、段取りする。
そういう人だ。
*
智花は、一旦部屋に入った。
扉を閉める直前、火が元の強さに戻る音がした。
ベッドに腰を下ろす。
本棚には、父から譲り受けた「日本の歴史」。
分厚い歴史の本を真面目な顔で読み、
休日は「信長の野望」を延々としている。
このせいで、智花も戦国武将が大好きになった。
今では、父よりも知識がある。
自分の好きなことは、とことん楽しむ。
そんな父のそばで育った。
小さい子どもだと思っていた自分が、
もう、高校の卒業式だ。
明日、来るだろうか。
智花は、そっと目を閉じた。
*
3/3 7:00
卒業式当日。
朝は、少し冷んやりしていた。
けれど、もう光は春のそれだ。
空も、よく晴れている。
父は、いつもより早く家を出たようだ。
智花が朝起きたら、もういなかった。
「智花へ。卒業おめでとう。朝ごはんはチンしてください。」
こんな日なのに、見送りはなかった。
でも、それはいつものことだ。
父が、先に家を出ることもよくあった。
今日も、そういう日。
それだけのこと。
そんなふうに、智花は思おうとした。
朝食を食べる。
家を出た。
いつもの電車。
いつもの駅。
いつもの道。
今日で最後の通学。
校門の前に、卒業式の看板が見えた。
その前で、スマホを構えている背中。
「あ、智ちゃん。」
振り向いたのは、同じクラスのカンナだった。
「ひさしぶり。二月三月、ほとんど来てなかったよね。」
「入試あったしねぇ。」
智花の力の抜けた言い様に、カンナは笑う。
「そだ、智ちゃん、私、大学決まったよ。」
「ほんと?おめでとう。」
「智ちゃんは?」
「来週発表。ダメなら後期。」
「そっか。でも、なんかさ。今日で終わりって、実感ある?」
カンナは看板を見て、それから校舎を見上げる。
「終わるっていうかさ、ここにいなくなるのが不思議。」
真面目な顔だった。
智花は、少しだけ笑う。
「智ちゃん、泣くタイプ?」
「泣かない。……たぶん。」
「だよね、智ちゃんそんな感じ。」
カンナの隣に立っている男性が軽く会釈した。
背が高く、落ち着いた雰囲気だ。
智花も小さく頭を下げる。
カンナが言う。
「うちのパパ。今日は、お仕事あったんだけど、今日だけ時間つくったんって。」
男性は苦笑する。
「無理やりじゃないよ。」
「ね、パパ、卒業式終わったら、お昼はあそこに行きたいな。」
「……いいよ。」
けれど、すぐに式が始まる時間になる。
「あとでね。」
カンナはそう言って、手を振った。
*
式は粛々と進んだ。
時間は静かに流れていく。
来ているだろうか。
式の最後に、保護者席に向かって挨拶をする。
その時に、いてくれるといいな。
いよいよだ。
最後に、全員で後ろを向く。
「ありがとうございました。」
声がそろう。
保護者席を見る。
(やっぱり、いないか……。)
すこし、肩の力が落ちた瞬間。
視界の端に、父がいた。
端の席。
まっすぐ前を見ている。
目の下が、少し赤い。
あれ。
やだ。
なんで。
智花の目尻が少し熱くなる。
父が泣いているのなんか見たことがない。
いや、泣き顔というより、
こぼれそうなものを、必死で留めている顔だった。
*
式が終わって、最後のホームルームだ。
廊下に保護者が並んでいる。
「保護者の皆様、本日はお子さまのご卒業おめでとうございます」
担任の水野先生が挨拶をした。
その中に、父はいない。
智花はふっと窓の外を見た。
(あっ。)
校舎の外の道を、父が足早に歩いていく。
少し肩をすぼめ、腕時計を確認しながら。
仕事に戻るのだろう。
智花は、その背中を目で追う。
そして、さっきのカンナの言葉を思い出す。
「終わるっていうかさ、ここにいなくなるのが不思議。」
智花は、ゆっくりと息を吐く。
父の泣き顔が、ふと浮かんだ。
智花は、微笑んだ。
(第1話 了)
📚ZAPPING POINT
智花の担任、水野先生の物語→#4 母のほうじ茶
水野先生の母の物語→#5 とっておきのレシピ
水野先生の妹の物語→#16 自分の居場所
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物語があなたの癒しになれば幸いです。
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