ウド・ラテック(Udo Lattek):ドイツ・ブンデスリーガ史上最高の監督のキャリア最初期 FOKUS Bundesliga!!! #44
前書き

1974年5月17日、ベルギーのブリュッセルに位置するヘイゼル・スタジアムでヨーロピアンカップ決勝の再試合が行われた。2日前、延長の末に同点で試合が終わったためである。対戦したのは、スペイン王者アトレティコ・マドリードとドイツ王者FCバイエルン・ミュンヘン。欧州を代表する名門同士の対決は、ウリ・ヘーネスとゲルト・ミュラーがそれぞれ2ゴールを挙げ、バイエルンがクラブ史上初のビッグイヤーを獲得する形で幕を閉じた。
同試合でバイエルンの監督を務めたのは、当時39歳のウド・ラテック。監督として歴代最多となる8度のブンデスリーガ優勝を経験し、1981年にはエレニオ・エレーラの後任としてFCバルセロナの監督に就任した名将である。ラテックは、今日からちょうど10年前となる2015年1月31日、80歳で息を引き取った。本テキストでは同氏のサッカーキャリアの最初期を振り返り、彼の偉大なキャリアの原点を探る。
ウド・ラテックの選手キャリアの始まり

ラテックは1935年1月16日、当時のドイツ・東プロイセン州ゼンスブルク地区のボーズン(現ボジェ, ポーランド)で生を受けた。農家の息子であったラテックは第2次世界大戦後、家族とともに生まれ故郷から追放される。デンマークで2年間を過ごしたのち、ノルトライン=ヴェストファーレン州に位置する西ドイツの首都ボンのほど近くに位置するヴィッパーフュルトに移り住んだ。
ラテックの人生における最初の転機は、20歳を迎えることになる1955年のことだった。エンゲルベルト・フォン・ベルク高等学校に通っていたラテックは、ドイツにおける大学入学資格アビトゥアに合格したのだ。ミュンスター大学へと進学したラテックは、教師となるために3年間、スポーツと英語を学ぶことになる。
加えて1955年、ヴィッパーフュルトの隣街のクラブであるSSV マリエンハイデでアマチュアとしてプレーしていたラテックは、近隣の強豪バイエル04レヴァークーゼンに加入する。レヴァークーゼンは1955/56シーズン当時、1部のオーバーリーガ・ウェストでプレーした。しかし同シーズンに降格し、残り2シーズン、ラテックは2部でプレーすることとなる。
1958年、大学卒業とともにレヴァークーゼンを退団したラテックは、VfRヴィッパーフュルトに加入。教師と選手の二足の草鞋を履くこととなる。1962年に同じく教師であったヒルデガルトと結婚したラテックは、同年にニーダーザクセン州屈指の強豪VfLオスナブリュックへの加入を果たす。加入1年目の1962/63シーズン、ラテックはオーバーリーガ・ノルトで30試合19ゴールを挙げる活躍を見せる。ただ1963年、ドイツサッカー界は大きな変化を見せる。ドイツ・ブンデスリーガが始まったのだ。
選手キャリア晩年とDFBのユースコーチ就任

オスナブリュックはブンデスリーガには参加できなかった。オーバーリーガ・ノルトから1部に参加したクラブは、ハンブルガーSVとSVヴェルダー・ブレーメンというドイツを代表する2クラブだったためだ。レギオナルリーガ・ノルトで戦うこととなったオスナブリュックで2シーズン目を迎えたラテックは1963/64シーズン、得点を挙げた第3節のVfRノイミュンスター戦以降、大きく出場機会を失うことになる。
翌1964/65シーズン、新監督に当時30歳のカール=ハインツ・マロツケを迎えたオスナブリュックで、ラテックは再び出場機会を得た。第22節のVfVヒルデスハイム戦で2ゴールを挙げるなど、得点も記録した。しかし1965年、ラテックは選手を辞め、西ドイツサッカー協会のユース部門のコーチに就任するのだ。
ラテックがDFBのコーチに就任した経緯は、定かではない。あくまでも推測の域を出ないが、個人的にはオスナブリュックの監督であったマロツケが関係しているのではないかと考える。ラテックよりわずか1歳年上のマロツケはドイツ体育大学ケルンの出身。当時のドイツ体育大学ケルンのサッカーコースでは、西ドイツ代表監督を務めたゼップ・ヘルベルガーとのちにラテック最大のライバルとなるへネス・バイスバイラーという2名が教鞭をとっていた。その2人と顔見知りだったマロツケがDFBのコーチ職のオファーを受け、監督職についていたためにそれを断り、1歳下で選手であったラテックを推薦したのではないかと考える。何にせよ、ラテックはDFBのユースコーチに就任した。
「DFBユースコーチ」という最高の環境

今をして思えば、当時のDFBのユースコーチの職ほど魅力的な仕事はなかっただろう。理由は大きく2つある。1つ目の理由は、当時の西ドイツにはヨーロッパを代表する魅力的なタレントが揃っていたこと。DFBのユースチームは1975年まで、実質的にU18チームしか存在していなかった。そのためラテックが同職を務めた1965年から1970年にかけては、1947年から1952年の間に生まれた選手たちを指導していたということになる。
同時期の西ドイツユースチームはタレントの宝庫だった。その証拠にバイエルンは、ラテック監督就任1年目となる1970年夏の移籍市場で、のちに欧州王者となるライナー・ゾーベル(1948年生まれ)、パウル・ブライトナー(1951年生まれ)、ウリ・ヘーネス(1952年生まれ)を獲得している。いずれの選手も、DFBのユースコーチ時代にラテックが指導あるいはスカウトしていたと推測できる。
もう1つの理由は、指導者を目指すうえで最高の先達が「隣」にいたことだ。ラテックは1966年のドイツ代表のコーチングメンバーとしてチームに帯同する。当時の西ドイツ代表監督はゼップ・ヘルベルガーの後継者ヘルムート・シェーンで、彼のアシスタントには日本での技術指導を終えたデッドマール・クラマーが就任していた。当時のドイツサッカー界における「最高のマン・マネジメント能力の持ち主」と「最高の技術指導者」が隣にいたのだ。これほどに成長できる環境は、他にはありえなかっただろう。
実際、1966年のイングランド・ワールドカップで、ドイツ代表は決勝まで進出した。ドイツ史上最高のストライカーの1人であるウーヴェ・ゼーラーに加え、フランツ・ベッケンバウアーとヴォルフガング・オヴェラートという2人の天才を中盤に配した西ドイツは、ウェンブリー・スタジアムでイングランド代表に敗北した。大会を通じて仕事が高く評価されたクラマーはFIFAの技術指導員に就任。シェーンは2大会後の1974年、西ドイツ代表をワールドカップ優勝に導くことになる。
ウド・ラテックのコーチング能力

DFBのユースコーチに就任してから5年目を迎えた1970年、ラテックはバイエルンから監督就任のオファーを受ける。厳しいトレーニングで知られた前任のブランコ・ゼベックが選手たちと問題を抱えたためだった。この際にラテックを経営陣に推薦したのは、ドイツ代表で顔見知りだったベッケンバウアーだとされている。ラテックはオファーを快諾し、3月14日、バイエルンの監督に就任する。
「コーチングの30%は戦術的であり、70%は社交能力だ」とは、現ドイツ代表監督のユリアン・ナーゲルスマンの発言だが、これはサッカーにおけるマネジメントの真理であると同時に、ナーゲルスマンの成功の秘訣でもあるように思う。バイエルンで一定の成功を収めたラテックとナーゲルスマンには、ある共通点がある。ラテックは35歳、ナーゲルスマンは34歳と、どちらも若くしてバイエルンの監督に就任したのだ。
「若い」ということはつまり、選手との年齢が近いということでもある。必然的に互いを理解し合うことが容易なのだ。ナーゲルスマンは、戦術的側面以上にこの若さを活用し、選手をマネジメントしているのだ。そしてラテックもまた、年代の若い選手に対して厳しく、それでいて親近感をもてる社交的人物として知られた。教師を務めた経験やDFBのユースコーチを務めた経験が、彼の社交的能力に磨きをかけたのかもしれない。
またラテックのトレーニングは、非常に厳しかった。何しろ彼の技術指導の師匠は、あのクラマーなのである。バイエルンは伸び盛りの若いチームだった。ブンデスリーガ創設時に1部に参加できなかったバイエルンは、若手主体のチームづくりを行って成長。1965/66シーズンには1部に昇格し、1968/69シーズンにはリーグ優勝を経験していた。クラブにはすでに同じく24歳だったベッケンバウアーとゲルト・ミュラーに加え、ゼップ・マイヤー、フランツ・ロート、ゲオルク・シュヴァルッツェンベルクなどの逸材が所属していたのだ。バイエルンの監督に就任したのちのラテックのキャリアは語るまでもない。
本テキストでは、ブンデスリーガを代表する名監督のキャリア最初期を振り返った。ラテックが歩んだ劇的なキャリアの最初期も、1人のファンからしても驚きの連続だった。今後も機を見てラテックのキャリアを振り返りたいと思うし、彼が亡くなってからちょうど10年となる今日、彼の冥福をお祈りしたい。
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