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〈栄え衰える〉受け継がれしもの-5

ジョー・マークスは、自分の属する修道会を深く愛していた。
彼は、会の兄弟たちに等しく敬愛を抱いていたが、特に強い絆で結ばれた仲間が少なからずいた。

そのうちの一人、オコナー神父は「古き良きアメリカ」がそのまま祭服を着たような修道司祭だった。
大柄な体躯に善良と豪胆を宿し、常に朗らかで、真に優しく、しかも剛毅であった。

オコナー神父は「聴く」人であった。
人々は彼を頼って話す。話す。
彼は耳を傾ける。聴く、聴く、聴く。
誰であろうと、どんな立場であろうと、彼はあらゆる人を抱き寄せ、受け入れ、愛した。理解した。支えた。あの大きな心と体で。

大きかったそのオコナー神父が、晩年には車椅子の人となった。

オコナー神父の葬儀ミサで説教を任されたのは、マークス神父だった。

その日、愛する兄弟のためにジョー・マークス神父が選んだ福音は、「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」という洗礼者ヨハネの言葉(ヨハネ3:29-30)であった。

「キリストは大きくなり、オコナーは小さくなっていった」

「生涯をキリストに捧げた彼は、喜びで満たされていただろう、洗礼者ヨハネのように」

この惜別の辞は、一年後に訪れることになるジョーの「その時」の、まさに「そうありたい姿」でもあった。
自分たち宣教師は衰えていく、キリストが栄えるために。
それでいい。それがいい。

「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」

朋友に別れを告げながら、ジョー自身も心からそう望み、尽きぬ喜びを与えてくださる神に感謝していただろう。

葬儀の後、ジョーを訪ねてくる人があった。
その女性は、自分はオコナー神父が行っていた聖書会のメンバーであると話し、「是非ともオコナー神父の後を引き継いで、聖書会の指導をお願いしたい」と頭を下げた。

こうして、マークス神父に新しい仲間「オコナーズ」が誕生した。
オコナー神父とマークス神父の友情が、祈りの輪を拡大させたのだった。

ジョーが亡くなるまでの一年ほど、オコナーズの聖書会は月に二回、コロナ禍中にオンラインで続けられた。
バーチャル聖堂「煌堂」※※は、マークス神父とオコナーズとの交わりにも発動したのである。
ジョーはオコナーズの熱い祈りに支えられ、何度も助けられてきた。
主は賛美されますように!

ジョー・マークスの帰天後。
ある夏、オコナーズは自分たちが愛した宣教師たちのためにミサを行った。
そのミサを通して、彼らとの出会いを与えられた者としての「決意と覚悟」を強く促された。
終戦記念日の今日、その内容を以下に記す。


帰天した宣教師たちの日本への派遣を神に感謝し、彼らに取り次ぎと祈りの同伴を願うミサ
司式:N教区K神父

年間第14土曜日
イザヤ6章1-8
マタイ10章24-33

〈ミサ説教要旨〉
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」というのは今日のマタイ10章、イエスの言葉ですが、これは神様の秘密のことですね。
神様の秘密は、人が隠しておこうとしても、自ずと外に溢れ出て行く。

今日、感謝のミサを捧げている神父様方は、宣教師として生きてこられました。

彼らの世代の宣教師たちは、日本が戦争をしている時、戦争が終わった時、まだ街が混乱している時、日本に来てくださった。
そして、何が本当か信じられなくなっている人々に対して、「これが本物ですよ」「これが本当に大切なものなんです」「私たちはそれを隠しておくことができない」「皆さんに伝えずにはおられない」と、そんな気持ちで福音を伝えに来られた方々です。

第一朗読は預言者イザヤの書6章、イザヤが神様に派遣される場面です。
「遣わされるのは、この私しかいないでしょう」という自信満々なのではなくて、「もうあなたに捕らえられたから、だから私が行きます」「どうか私を遣わしてください」と、イザヤは言っています。

「日本に行きなさい」と言われた時、神父様方もご自分の「はい」を、おそらくイザヤのような気持ちで仰ったことでしょう。
「この私しかいない!」と自信満々なのではなくて、「いったい私のような者で、本当に務まるのでしょうか」「しかし、神様がお望みならば、全ての助けは与えられるに違いない」と信じて、それで「はい」とお答えになったと思うのです。

神父様方がみな、それぞれがとても魅力的で、本当に正直で、私たち一人ひとりの心を捕らえて放さなかったのも、それは彼らが自分たちの信じている先生イエスを追いかけていたからです。

彼らはイエスの、その先生としての背中を見て、ともに歩んでおられる気配を感じて、時にはしがみついて、福音を伝え、イエスの業を伝え、伝え続ける者となってこられた。

きっと彼らにも、たくさん怖いことがあったでしょう。
絶対に他の人には言えなかったような、辛いことがあったでしょう。
そして、とても嬉しいことがあったでしょう。
その全てを、彼らは神様に捧げて、感謝して、生きてこられたと思うのです。

福音の後半部分、「怖がらなくていい」「あなたは本当に大切にされている」ということを、神父様方は宣教の現場で働きながら、感じながら、本当に味わいながら、「私たちは決して一人ではない」「こんなにたくさんの仲間たちがいる」「何より神が、私の歩むべき道をともに歩んでくださる」と、そういう確信を深めてこられたと思うのです。

さあ、この神父様方への感謝を捧げる私たち、「神父様方、ありがとう!」だけで終わらせてはなりません。
ただの「ありがとう」だけで済ませてしまったなら、彼らの望みのその半分しか叶えたことにはならないのです。

神父様方は、「次はあなた方の番ですよ」「あなたにバトンを渡します」と呼びかけておられます。

イエスは私たちに仰います、「恐れるな」「あなた方はとても愛され、大切にされている」と。
私たちは、キリストに従った宣教師たちと出会いました。
その出会いを、今度は「キリストの弟子」に出会った仲間として、新しくキリストに出会う方々に伝えていく者として、今、ここにいます。
そのことを決して忘れないようにしましょう。

今日、一人ひとりが先輩方に感謝しながら、今、自分自身が招かれているそのミッションに歩み出す、そのような決心をする日にしたいと思います。
《2024年7月13日記録 文責:mikage》

終戦記念日であり
聖母マリアの被昇天の祭日であり
日本宣教の保護者 聖ザビエルの鹿児島上陸の日
8月15日に

とこしえに主は賛美されますように。
主に栄光が帰されますように。


文中※※↓↓関連記事:バーチャル聖堂「煌堂」

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↓↓関連マガジン:受け継がれしもの



mikageです:

コロナ禍中に
恩師マークス神父(仮名)と過ごした
バーチャル聖堂「煌堂」での祈りの日々を
連載で綴っています。

(本作は単発の短編記事です)

更新は不定期です。
1話ごと、祈りの中で言葉を紡いでおります。
気長にお付き合いくださいませ。

なお、本作は実話録ではありますが、
主人公はじめ登場人物・組織名等は、
(少なくとも当面は)仮称を用います。

読者の皆様には、ジョー・マークスを、
世間的な「肩書き」や、修道会・教会という組織の名称とは切り離された、ただ「神の御前に何ものでもない、一人の無名の老人」として、受け取っていただきたいと望んでおります。

オコナー神父も仮名です。

連載の第1回はこちら↓

単発短編はこちら↓

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今後ともよろしくお願いいたします。

目を留めてくださるお一人おひとりに
祝福を祈りつつ…
mikage

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