26_トラック顔_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』解説
※今回から文体変えてみますね。試行錯誤中につき、読みにくいかもしれませんがご容赦を。
Q. トラックに乗って来たみたいな顔とは何か?
「バナナフィッシュにうってつけの日」の前半、ミュリエルは電話で母親に、食堂で隣のテーブルに座った客が「トラックにでも乗って来たみたいな顔してんの They look as if they drove down in a truck」(19)と話します。リゾートのホテルの客が「トラックに乗って来たみたいな顔」ってどういうこと? ってちょっと気になりますよね。
というわけで、チャットGPTにもいちおう訊いてみてはいるんですが、いまどき〈トラック顔〉について真剣に考えてるのなんて、世界中で私だけなんじゃないか、という不安がわきあがるばかりで・笑。AIの答えとぜんぜん一致しないんですが、めげずに書きますね。これ、意外と重要なアイテムだと思うんです。
本稿の解釈はこう。
A. 戦地で命を落とした兵士たちの幽霊みたいな顔。
ずいぶん突飛な解釈だと感じられるでしょうか。以下に理由を述べます。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
1 荷車の騎士
『キャッチャー』をはじめ、サリンジャー作品は基本的に聖杯伝説を意識して書かれたものであることは、『キャッチャー』読解で示したとおり。とくに、『キャッチャー』のホールデンには、『アーサーと円卓の騎士』のパーシヴァルの特徴が重ねられることも、下記で述べたとおり(赤や麦畑などをモチーフにした典型的な聖杯伝説、エリオットの『荒地』もパーシヴァルの物語だといわれることがありますね)。
『ナイン・ストーリーズ』の「愛らしき口もと目は緑」も『アーサーと円卓の騎士』のランスロットの物語を下敷きにして書かれており(詳しくは同作読解にて)、サリンジャーがアーサー王伝説に目を通していたのはほとんど間違いないし、それを自作に活かそうとする発想も持っていたと思われます。
サリンジャーは初期短編から〈トラック〉をモチーフに使っているのですが、これは『アーサーと円卓の騎士』の物語のひとつ、「ランスロットまたは荷車の騎士Lancelot, le Chevalier de la Charrette」に出てくる〈荷車〉を念頭に置いたアイテムではないかというのが本稿の仮説です。
ここまで見てきたように、サリンジャーは、神話やシェイクスピア作品に登場する梯子をエレベーターに、バベルの塔をマディソン・アヴェニューの高層ビルに、王の玉座をバスの座席に、それぞれ当時のニューヨークを舞台にしたアイテムに置き換えながら描いている。〈荷車〉を〈トラック〉に置き換えるのも、そのひとつではないかと思うのです。
2 荷車の中で
そもそも、『アーサーと円卓の騎士』の物語のタイトルに〈荷車〉が入っているという事実が、この物語が書かれた当時(1170年代、シェイクスピアよりずっと昔ですね)、少なくとも作者にとってはそれが重要なモチーフだったことを示しているのではないか。そしてそれは、〈聖杯〉と少なからず関係があるのではないか、と想像をめぐらせたうえで。
「荷車の騎士」のあらすじを見てみましょう。
主人公の騎士ランスロットは、王妃を助けるために異国へ向かう。途中で馬を殺されてしまい、やむを得ず荷車に乗ることにする。当時、荷車に乗るのは罪人や卑しい身分の者であったため、騎士としては不名誉なことだったが、それに耐えることもランスロットにとっての試練のひとつになる。荷車に乗っていたことも幸いして、異国で数々の試練を乗り越え、塔に忍び込んで王妃と愛しあい、敵と決闘し、傷を負い、血を流しながらも敵を倒して王妃を助け出し、国に帰ってめでたしめでたし、という物語です(参考:『アーサー王の世界Ⅴ 荷車の騎士ランスロット』斉藤洋、静山社、2019、Wikipedia)。
この物語で、〈荷車〉は英雄ランスロットを異国(神話の異界・彼岸)へ導く乗り物です。同時に、騎士から卑しい身分の者へと、ランスロットを変身させる役割も持っています。荷車は、ランスロットの地位を低下させる(貴賤の差をなくす、二項対立を統合する)ことで、結果的にランスロットを守り、救うアイテムなんですね。
神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、神話で英雄が異世界へ旅に出るときには、賢者から特別な力を持った護符を与えられると説明しています。ランスロットにとっての〈荷車〉は、この護符にあたるといっていいのではないでしょうか(詳細下記『キャッチャー』読解参照)。この護符は、英雄が試練の中で傷ついて、死に近い体験をしたときに、英雄を守り、傷を癒して再生へ導くアイテム。『キャッチャー』でスペンサー先生がくるまっているナバホの毛布や、ホールデンが自宅へ帰ったときにも脱ごうとしないコートとも重なります。
ランスロットは荷車に乗って異世界へ移動すると同時に、騎士としてそれまで築いてきた自分の地位を一度捨て、血を流すことで象徴的に死にながらも、荷車という仮の棺・クジラの腹の中で傷を癒し、王妃を救って国=自らを再生させるのだ、と読めると思うのです。
3 『じゃじゃ馬馴らし』の荷車
次に、シェイクスピア作品に出てくる〈荷車〉を見てみましょう。『じゃじゃ馬馴らし』は、じゃじゃ馬娘キャタリーナを、夫が調教して従順な妻に変えてしまう物語。この作品の前半には、傍若無人な振る舞いが目に余るキャタリーナを「荷馬車に押し込んでおいた方がいい To cart her, rather.」というセリフがあります。そして、注釈に「当時、娼婦を荷馬車(cart)にのせたり、荷馬車につないだりして市内を引きまわし、処罰した」と記されています(33)。
娼婦もまた罪深き者。荷車に乗るのが罪人だというのは、ランスロットの物語と同じですね。これらを重ねて考えるなら、(きちんと調べられていないので、これは考えすぎかもしれないけれど)以下のようにもいえるかもしれない。
シェイクスピアは『ハムレット』をはじめ、数々の作品で女性たちの精神的堕落や汚れを娼婦に例えている。それはまた、同じように堕落した心や汚れや罪を背負った未熟な男性たちの鏡像でもある。荷車に乗って引きまわされる罰には、そんな未熟者の罪深い精神をいちどリセットし、改心するようにという戒めの意味がある。
もちろん実際には見せしめの罰としての意味合いが強かったでしょうが、そもそものはじまりには、神話において象徴的に死に(近い体験をし)、仮の棺に閉じ込められることに耐え、そこから復活することで、罪が浄化され、回心・改心するといった意味があったのではないか。ランスロットや『じゃじゃ馬馴らし』の荷車は、オシリス神話やイエス・キリストが受難のエピソードで死んだ際に納められた棺なのであり、そこに一度入って復活することが、精神的な成長を意味するのだ、と。
『じゃじゃ馬馴らし』の前半で、ひどいじゃじゃ馬だったキャタリーナは、夫ペトルーチオの調教によって徐々に彼の言いなりになる、(あくまで)夫の側から見れば従順な良い妻へと変貌します。キャタリーナが劇中で実際に荷馬車にのせられるわけではないのですが、この荷車は後半、キャタリーナがペトルーチオによって部屋に閉じ込められ、調教されるシーンと響きあう。これは、娼婦を荷馬車にのせて回心させるのと同じ効果なのだと、シェイクスピアは語っているようにも読める。ここにはむろん、娼婦であったマグダラのマリアが回心するイメージも重なってくるでしょう。
4 『リチャード二世』の荷車
『リチャード二世』では、戦争がはじまろうとするとき、「災いの潮(うしお)が/この災いの国に一挙にどっと押し寄せてくる!」「荷車を何台か出し、/しまってある甲冑を持ってこい」(81)と叫ばれます。何ということもないセリフですが、この直前には、下記でみたのミュリエルの指輪に通じる「この指輪を持ってゆけ」があります。
また、この直後には、戦争で中立の立場を取ろうとするヨークが「どちらに向かってどう片付けていいかまるで分らない」と嘆く場面もあります。このセリフは、『キャッチャー』でホールデンがいう「戦争に行かなくちゃならないなんてことになったら」「もし誰かに向けて銃を撃たなくちゃならないとしたら、どっちに銃口を向けりゃいいのか考えちまうところだ」(237)を思い出させますね。
『リチャード二世』で、ヨークは、国が戦争状態に陥ることを「あらゆることが混沌とし、何もかも混乱の極みだ」(82)「悲嘆、破壊、壊滅、衰退の到来を宣言しろ」(110)と表現する。神話や夢、同作において、国土は語り手や読者にとっての精神状態とも重ねて解釈できるから、国土が混乱に陥って破壊されることは、神話で英雄が象徴的に死に、原初の混沌へ還ることと同義。二項対立に分かれて心まどわせる現世を離れて、彼岸の混沌へ還るような神話的発想が端的に示されるとも読めるセリフです。
だから、ヨークがここで、これから戦争で傷つき、死ぬかもしれない兵士の身体を思わせる甲冑をのせてこいという荷車にもまた、クジラの腹としてのイメージを読み込んでもよいのではないでしょうか。『リチャード二世』の時代、甲冑を乗せて戦地へ向かう荷車は、戦争が終って国へ帰るとき、命を落とした兵士たちの遺体を乗せるものでもあったはず。そのとき、荷車は実際に〈棺〉の役割を果たしていたに違いない。
オシリスやイエス・キリストが埋葬された棺、クジラの腹は聖杯のイメージにも結びつくし、聖杯はときに戦争で命を落とした兵士を入れておくと再生する大釜を意味するともいわれます。シェイクスピアはそのことを意識して劇中に〈荷車〉を登場させているのではないでしょうか。
5 トラックと鉄道馬車
神話やシェイクスピアに影響を受けているサリンジャーは、荷車をトラックに変えて、自作に取り入れようとしたのかもしれない。トラックは、サリンジャーが第二次世界大戦へ従軍したときに、神話の荷車と同じように、戦地へ武器や兵士たちを運んだ乗り物。ときには傷ついた兵士をかくまって癒す場にも、命を落とした兵士を運ぶ棺にもなったはずの、現代の荷車なのではないでしょうか。
サリンジャー作品に登場する〈トラック〉といえば、短編「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」で兵士たちが、ダンスパーティへ向かうために乗っているトラックが思いだされます。同作では、ダンスへ行ける定員に対し、トラックに乗っている人数が四人多く、どうやってその四人を帰らせるかを主人公ヴィンセントが思案し続けます。冒頭から、「右隣に座っている四人をナイフで刺し殺してやろうか」「それから、二人選んで」「四人の死骸をトラックから」「投げ捨てさせる」(81)という物騒な想像を巡らせます。同時にヴィンセントは、戦地で行方不明になっている弟ホールデンのことを心配し続けます。
ここで兵士たちが乗るトラックを再生のためのクジラの腹に見立てるなら、ヴィンセントの仲間を殺すような想像も、これから本格的な戦地へ向かう兵士たちの象徴的な死とその先の再生への願い、さらに、戦地で行方不明になっているヴィンセントの弟ホールデンの再生への願いへと反転させて読むことができるでしょう。
また、短編「最後の休暇の最後の日」では、やはりヴィンセントが主人公の友人として登場し、ニューヨークで〈鉄道馬車〉が廃止になったという話題の直後に、弟ホールデンが戦地で行方不明だと打ち明けます。これは、戦地で行方不明になっているホールデンを乗せて帰還し、再生へ導くはずのクジラの腹・荷車を鉄道馬車に重ねて、それが廃止になっていると述べることで、ホールデンが帰ってこないことを嘆き悲しむ兄の気持ちを表現したものではないでしょうか。
「鉄道馬車がなくなった」と二度繰り返すのは、『キャッチャー』でも多用される手法。再三述べているとおり、サリンジャー作品では、シェイクスピア作品同様、兄弟・夫婦など本来一緒にいるべき人々が離れ離れになっていたり、精神が善悪に引き裂かれていたりするとき、それにかかわる重要なモチーフは二度繰り返されます。ここでは、兄弟が離れ離れになっていることが、間もなく自身も戦地へ赴く予定のヴィンセントやベイブの精神をも不安定に揺さぶっています。そのことが二度繰り返される〈鉄道馬車〉という言葉に託されているように思うのです。
「最後の休暇」の続編「他人」において、ヴィンセントもまた戦地で命を落としたことが語られます。これを考え合わせれば、もう一歩踏み込んだ読みも可能。ヴィンセントは鉄道馬車がなくなったと二度繰り返すことで、弟の行方不明を悲しむとともに、自分のための鉄道馬車はあるのだろうか、自分は戦地から無事に帰ってこられるのだろうかという不安を吐露しているとも読めるし、それは「他人」においてヴィンセントが、束の間ベイブを通して帰還し、元恋人と言葉を交わす場面の切なさをいっそう胸にせまるものにするでしょう(初期短編の読解は改めて)。
6 乗り物としてのカウチ
「ズーイ」で、フラニーが横になっているカウチと、「バナナフィッシュ」のミュリエルの祖母の椅子については下記で考察した通り。
「ズーイ」で、兄から起こされて妹が目を覚ます場面はこのように語られます。フラニーは「まるでカウチが何かひどい障害物の上をどすんと通り過ぎたかのように、文字通り飛び起きた as though the couch had just gone over a bad bump.」(180)この奇妙な言い回しは、作者がフラニーのカウチをまるで乗り物のように読者に印象付けようとしたもののようにも思えますね。
とするなら、この「ズーイ」の前半でフラニーが横になっているカウチは、「ズーイ」と対の作品「フラニー」の冒頭でフラニーが乗って来た列車と対になっているのかもしれません。それは[23_世界の真ん中](上記リンク)でみたような、キャンベルが紹介する神話の、ぐるぐる回る寝椅子とも結びつくでしょう。
サリンジャーは作中で、カウチや椅子のモチーフと、列車・トラック・荷車のような移動のための乗り物を緩やかに結び付けようとしているのかもしれません。すると、ホールデンがニューヨークへ移動する列車や、「コネティカットのひょこひょこおじさん」で語られる思い出の中の汽車などへも連想がつながっていく。それらはおそらく、「テディ」「ズーイ」「シーモア-序章-」などで語られる、漁夫王が乗った船ともつながるでしょう。
荷車の騎士の物語が収録されたアーサー王伝説では、アーサー王が命を落としたとき、小舟に乗せられて島へと運ばれます。アーサー王はその島で永遠の眠りについていると伝えられています。荷車・小舟・棺のイメージも、神話の世界では重なりあっているのかもしれません。
それらは英雄を異世界へ運び、自国へ帰還させるための乗り物であると同時に、英雄を試練から守るクジラの腹であり、再生のための棺、ユングのコンテイナー、錬金術師のフラスコ、精神的な成長と変容を遂げるための容器、すなわち〈聖杯〉ではないでしょうか。
何でもかんでもクジラの腹に収斂していく読みはどうなのか、と自分でも苦笑してしまうのだけれど、シェイクスピアやサリンジャーを真面目に読み解こうとするとどうしてもこうなる。永遠の少年は常にクジラの腹や精神的な傷を覆う包帯を求めてしまう宿命にあるんでしょうか。死ぬまで毎日が『カンガルー日和』みたいな・笑。
7 トラックに乗って来たみたいな顔
すると「バナナフィッシュ」の食堂にいる「トラックにでも乗って来たみたいな顔」をした客とは、〈ニューヨークに象徴される現実世界=此岸〉から〈フロリダに象徴される異世界=鏡の世界=彼岸〉へやってきたみたいな顔、ということになるでしょうか。これは、[03_NYの広告マン][12_シャロン・リプシャツ]で読解した、鏡の世界・彼岸・天国あるいは地獄としてのフロリダ、という読みとも呼応します。
シーモアたちは今、楽園であり地獄でもあるような異世界・冥界としてのフロリダにいる。そこにいるのは、幽霊たち。まるで戦地で命を落とし、棺としてのトラックに乗せられて彼岸へ運ばれた、シーモアのかつての仲間たちのような虚ろな顔をした人々。鏡の世界の鏡像・虚像たち。
そんなフロリダのリゾートで、シーモアはランスロットが敵と対決するように、自分の鏡像(ユングがいうシャドウ・自分の分身)と対峙する。ランスロットが塔で王妃と愛し合うように、シーモアはホテルの一室にエレベーターでのぼっていって妻と会い、血を流すことで象徴的にミュリエルと一体化する。ミュリエルのなかからは膿が抜かれ、髪はミンク色に染まり、爪の色も変わって、彼女は精神的な変容を遂げる。
では、シーモアの遺体を乗せてニューヨークへ帰還するためのトラックは? 死者を蘇らせる聖杯は? 「ズーイ」で語られる、「僕(バディ)が彼(自殺したシーモア)の遺体を引き取るためにフロリダまで行ったとき」(93)のエピソードを結びつけてみるのはどうでしょう。シーモアが再生するのは、他でもない、バディの手から生みだされる物語によって、ですよね。
今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。
スキをいただけたらうれしいです。
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